續明紀事本末福建沿海に残った義兵(閩海遺兵)
唐王が福州で隆武帝として即位するが鄭芝龍に実権を握られ出師もままならず、清軍に汀州で殺害される。芝龍降伏後、子の鄭成功が挙兵して抵抗を継続し、南京攻略の失敗を経て台湾のオランダ勢を駆逐、鄭氏政権を築くが、成功没後の内紛の末、康熙二十二年(1683)に施琅の攻略で降伏し明の命脈が絶えるまでを描く。宏光元年(1645)から康熙二十二年(1683)まで約38年間。
年表(27件)
- 宏光元年(1645年)夏閏六月 - 隆武帝の即位唐王が福州で監国を称し、鄭芝龍が実権を握って隆武帝となった
- 宏光元年秋七月 - 出師と黄道周の江西行黄道周が門人の扁擔兵のみで江西へ出師、芝龍は出兵を妨害し続けた
- 順治三年(隆武二年、監国元年、1646年)春 - 延平への進退と芝龍の妨害隆武帝は延平へ進もうとするが芝龍に阻まれ、仙霞関の守備は総崩れとなった
- 順治四年(永暦元年、魯王監国二年、朱成功隆武三年称、1647年)朱成功が金門で挙兵、隆武帝の遺志を継ぎ隆武の年号を用い続けた
- 順治五年(永暦二年、魯王監国三年、朱成功隆武四年称、1648年)成功は淮王を監国に立て「東武」と改元、同安が陥落し屠城となった
- 順治六年(永暦三年、監国魯王四年、1649年)鄭聯・鄭綵が魯王を捨て金門に自立、成功は永暦帝から広平公に進んだ
- 順治七年(永暦四年、監国魯王五年、1650年)成功は鄭聯を謀殺し金門・厦門を統一、銅山・南澳を平定した
- 順治八年(永暦四年・五年、監国魯王六年、1651年)成功は芝莞を尚方剣で処刑して軍紀を引き締め、施琅が離反した
- 順治九年(永暦六年、監国魯王七年、1652年)成功軍が漳州を包囲するも飢饉で城中の死者七十余万に及んだ
- 順治十年(永暦七年、1653年)成功は張名振の長江遠征を支援するが羊山の颶風で損害を受けた
- 順治十一年(永暦八年、1654年)芝龍の降伏勧誘を成功は拒否、清側は魯王引渡しを求め拒絶した
- 順治十二年(永暦九年、1655年)成功は思明州で内政を整備、軍を七十二鎮に編成した
- 順治十三年(永暦十年、1656年)清の濟度が厦門を大挙攻撃するが颶風により大敗した
- 順治十四年(永暦十一年、1657年)黄梧が海澄で叛き清に降伏、成功軍は大きな損失を受けた
- 順治十五年(永暦十二年、1658年)成功軍が羊山の颶風で幼子ら多数を失いつつ北伐、舟山へ引き返した
- 順治十六年(永暦十三年、1659年)成功は鎮江・瓜洲を陥すが南京攻略に失敗、甘輝ら多数の将が戦死した
- 順治十七年(永暦十四年、1660年)清軍の厦門大挙攻撃を成功が風向きを読んで大勝させた
- 順治十八年(永暦十五年、1661年)成功は何斌の勧めで台湾攻略を決意、鹿耳門から台湾へ入った
- 康熙元年(永暦帝没、台湾では永暦十六年と称、1662年)成功が急逝、子の経が台湾で内乱を鎮めて実権を握った
- 康熙二年(台湾は永暦を称す、1663年)経は思明州で成功を祭るが、鄭泰の誅殺で鄭鳴駿が離反した
- 康熙三年(台湾は永暦を称す、1664年)金門・厦門が陥落し焦土となり、経は台湾へ本拠を移した
- 康熙九年~十二年(1670-1673年)台湾は安定し豊作、経は耿精忠の三藩の乱への呼応に応じる構えを見せた
- 康熙十三年(1674年)耿精忠との盟約が反故にされ、経は出兵し閩地の諸城を攻略した
- 康熙十四年~十六年(1675-1677年)経は広東・福建で耿精忠・尚之信と攻防を繰り返すが次々に失陥した
- 康熙十七年~十九年(1678-1680年)姚啓聖の懐柔策で諸将が投降し、経は金門・厦門を放棄し台湾へ撤退した
- 康熙二十年(1681年)経が没し、馮錫範が実権を握り経の実子克𡒉を弑殺した
- 康熙二十二年(1683年)施琅が澎湖・台湾を攻略、克塽ら鄭氏一族は清に降伏した
宏光元年(1645年)夏閏六月 - 隆武帝の即位
- 唐王朱聿鍵(崇禎五年に唐王を嗣ぐ、北都救援の兵を出したため幽閉されていたが宏光帝即位後に釈放)が杭州に至り、宏光帝が捕らえられた報に接し、鄭綵・鄭鴻逵・蘇観生らに擁立され福建へ入る。福建巡撫張肯堂・按察使吳春枝、黄道周・鄭芝龍らの勧進を経て、丁亥、福州で監国を称する。
- 芝龍には推戴の意はなかったが鴻逵の存在ゆえにやむなく従う。丁未、即位して隆武と改元、宏光帝を「聖安皇帝」と追尊。黄道周を吏部尚書・武英殿大学士、蘇観生を東閣大学士、張肯堂を兵部尚書ほか多数を任命し、旧輔臣十八人を入閣させる。福州を天興府に昇格、上四府・下四府を設置。
- 鄭芝龍・鄭鴻逵を侯爵、芝豹・鄭綵・鄭聯を伯爵とするが、芝龍は権力を独占。清の洪承疇は芝龍を王爵で誘う策を多爾袞に進言し、密使黄熙允が芝龍を懐柔にかかる(後の閩・浙陥落の伏線)。
- 路振飛が隆武帝を高牆で庇護していた縁で厚遇される。鄭芝龍の子・森(後の鄭成功)が入侍し、隆武帝に見出されて御営中軍都督となり「成功」の名を賜る。
- 隆武帝は張国維(魯王を奉じ浙東監国)・楊廷麟(江西)・何騰蛟(湖広)らに使者を送り、魯王には三たび璽書を送り協調を図る。
宏光元年秋七月 - 出師と黄道周の江西行
- 隆武帝は親征を詔し、殺戮を戒める軍令を発する。金声桓を巡撫に任じ徽州方面へ。李魯は浙を魯王に委ね江西への進出を献策。
- 黄道周は「坐して亡ぶより行くべし」と督師大学士として出師を願い出るが、芝龍は餉を与えず妨害。道周は門人千人の「扁擔兵」のみで崇安から江西へ向かう。
- 芝龍は出師をたびたび拒み、朝廷で専横を極める(大学士蔣德璟を殴打、諸生を誣告するなど)。江西大捷の報を受け、ようやく出師の形をとるが徴税を強化。
- 八月、諸将の任命・派兵(鄭芝豹・黄斌卿ら)。芝龍は鄭鴻逵を大元帥、鄭綵を副元帥とする二道出師策を出すが、鴻逵は仙霞関で進軍を止め、隆武帝の督責にも応じず。何楷が弾劾し重用される。
- 九月、黄道周が出師の困難を訴え、隆武帝は江西・湖南への親征を検討。汀州の飢饉など国勢は危急。
- 冬十月、何楷が引退を願うと芝龍配下に耳を切られる。金堡が入朝し光武帝の故事を説き親征を勧めるが、芝龍の妨害により左遷され、方国安への内通を疑われるも陳潜夫の弁護で難を逃れる。
- 十一月、隆武帝は親征を決行、唐王聿釗・鄧王鼎器に監国を委ね出発。吳鍾巒・李世輔らが福建に固執する危険を諫めるが聞かれず。鄭鴻逵を左先鋒、鄭綵を右先鋒とするが出発の儀に凶兆多し。
- 十二月甲申、隆武帝は建寧へ進む。壬寅、黄道周は婺源で敗れ捕らえられる。
順治三年(隆武二年、監国元年、1646年)春 - 延平への進退と芝龍の妨害
- 隆武帝は建寧にあり自責の詔を発する。蘇観生を大学士とし江西へ派遣するが兵は集まらず餉もなし。
- 芝龍は羈餉の官を弾劾させ、紳助・官助・大戸助の名で強制徴収、売官も横行。邵武知府らの逃亡騒動では隆武帝が太祖の法により厳罰に処す。
- 三月、隆武帝は延平へ進もうとするが芝龍が軍民数万を動員して阻止し天興府へ戻るよう迫り、やむなく延平に駐蹕。朱成功は「険を控え将を選び船で合攻し通商で国を裕にする」策を上疏し忠孝伯・招討大将軍印を受ける。母を見舞う許可も得る。
- 傅冠を江西・湖南剿撫の督師とし、張肯堂も督師を命じられるが芝龍の妨害で兵も食も与えられず。
- 夏四月、鄭綵が広信を放棄し撤退、隆武帝は激怒し職を削る。金華行宮が完成し朱大典が迎える。
- 隆武帝は汀州へ進もうとし、諸軍を配備。芝龍への不満を隠さず「三万で関を守り一万を腹内に置けばよい、それ以上は出せぬ」と述べる。
- 五月、贛州の軍が潰滅。隆武帝は各地に督励の詔を出すが効果なく、広信も陥落。
- この頃、陳謙が芝龍を「安南侯」と偽称した事件が発覚し隆武帝は処刑(芝龍の恨みを買う)。芝龍は密かに博托に降伏の書を送り、これが浙・閩陥落の因となる。
- 六月、監国魯王が紹興から潰走。博托軍が上杭に入り、鄭鴻逵は仙霞関を放棄して逃走。金堡は湖南への転進策(上策)を献じ隆武帝も同意するが、芝龍は虚偽の急報で天興府に戻り、仙霞関の守備を総崩れにさせる。李魯が芝龍を弾劾するが用いられず。
- 皇子誕生により芝龍・鴻逵は加封されるが、まもなく皇子は薨去。
- 秋七月、隆武帝は諸臣の降伏密書を焼き捨て「知りたくない」と述べる(芝龍の誘引によるもの)。
- 八月、博托軍が衢州・広信から福建へ進撃、仙霞関を無血で突破(守兵不在を風刺する俗謡が流行)。建寧が陥落し隆武帝は贛州行きを決行。宮人まで騎乗しての緊急退避となる。丁酉、順昌に至るが博托将杜爾德が延平まで迫り、隆武帝は器物を棄てて逃れる。庚子、汀州に入るが、博托将努山が偽って追いつき、辛未未明、宮門を破って乱入、隆武帝と曾后は汀州府堂で殺害される。
- 隆武帝の人物評:長身豊頬、声は鐘の如く、度量広く、勤勉に政務を執り倹約を尊び、后も賢明であった。しかし芝龍に制されて敗亡した(一説に后は九龍江に投身したとも)。永暦帝は後に「思文皇帝」「思文皇后」と追号。汀州で死んだのは聿釗であったとする異説もある。
- 博托軍は崇安を陥し福州に入る。唐王聿釗以下が逃走、福州府県はみな降伏。
- 九月、泉州が陥落、鄭芝豹は逃走。鄭芝龍は安平で博托に降表を進める。芝龍は両広督撫を望むが、朱成功が「魚は淵を離れるべきでない」と諫めても聞かれず。鄭鴻逵・周鶴芝らも去就に迷うが、鄭綵は監国を献上するよう求められても応じず。
- 十一月、鄭芝龍は五百人を率いて福州で降伏。博托は成功にも降伏を促すが「忠に殉ずる」と拒否。博托は芝龍を挟持して北へ連行。芝龍の子孫らは各地に分散させられる。
- 芝龍の倭婦(成功の母)は安平で清軍の淫掠により自縊。成功は悲憤し金門に軍を移す。鄭鴻逵・鄭綵・鄭聯もそれぞれ自立。
- 十二月癸酉朔、朱成功は招討大将軍忠孝伯として海上で挙兵。文廟で儒巾を焼き「昔は孺子、今は孤臣」と誓う。曾櫻・路振飛と共に高皇帝を祀り出師の檄を発する(隆武二年の年号を用い「罪臣朱某」と称す)。
順治四年(永暦元年、魯王監国二年、朱成功隆武三年称、1647年)
- 夏四月、成功は鄭綵・楊耿と海澄・九都を攻略。
- 五月、浦城攻略計画は内通が漏れ失敗。成功は魯王の福建攻撃を援ける。
- 秋七月、李長蛟が建寧を回復。成功は江東橋を焼き諸県を攻める。
- 八月、成功は泉州を攻め、鄭鴻逵と協力して降将趙国祚・解応龍を破るが、降将王進の奇襲に敗れ安平に退く。盧若騰ら遺臣が来帰。
- 冬十月、魯王が戊子大統暦を頒布するが成功は隆武帝の遺志により用いず、隆武四年と称する。十二月、馬得功に大尾溪で敗れる。
順治五年(永暦二年、魯王監国三年、朱成功隆武四年称、1648年)
- 春正月、成功は淮王常清を奉じ監国とし「東武」と改元。
- 五月、同安を攻略。秋八月、佟国器・李率泰・陳錦の攻撃で同安が陥落し屠城(成功の救援は間に合わず、殉節詳述)。
- 漳浦の守将王起鳳が呼応を図るも失敗。林察が成功に帰し永暦帝即位を知らせ、成功は喜んで臣礼をとる。
- 冬十月、永暦帝が成功を威遠侯とする。成功は永暦の号を用い勢威が高まる。雲宵を攻略、姚国泰を降す。
順治六年(永暦三年、監国魯王四年、1649年)
- 春三月、成功は郝尚久への招降・分水関攻撃など各地を転戦。夏四月、福安陥落。秋七月、永暦帝は成功を広平公に進める。鄭綵・鄭聯は魯王を捨て金門に自立。冬十一月、鄭芝鵬が溜石城を放棄。
順治七年(永暦四年、監国魯王五年、1650年)
- 春、潮陽を攻略。夏四月、施琅・弟顕らを各鎮の将とする。六月、蘇利・揭陽・大埔を攻め潮州を包囲するが、柯宸樞の戦死など苦戦。
- 秋八月、鄭聯を謀殺し金門・厦門の両島を統一(鄭綵も服従)。九月、鄭丹国が興化で敗れ捕らえられる。
- 冬、蘇利が厦門を襲うが撃退。銅山・閩安・南澳を平定し軍を五路に分ける。十二月、永暦帝の勤王要請に応じ広東へ向かうが果たせず。
順治八年(永暦四年・五年、監国魯王六年、1651年)
- 春、白沙湖の風害を経て大星・平海衛を攻略。厦門が手薄になり降臣黄澍・馬得功に一時奪われるが鄭鴻逵の部が撃退。
- 夏四月、成功は厦門に戻り芝莞の罪(積財を隠匿し逃走)を隆武帝下賜の尚方剣で処刑、軍紀を引き締める。
- 施琅が処罰事件を機に対立し脱走・投降(後に成功の大敵となる)。
- 五月、漳浦を攻め降将王邦俊を破る。冬十一月、興化・泉州の連合軍を小盈嶺で撃破。十二月、漳浦・海澄を降す。
- 財政難のため日本と甥の礼で通商し、交趾・暹邏・呂宋とも貿易し銅鉛を得る。漳・泉・福・興化の民は「一田両賦」に苦しむ。
順治九年(永暦六年、監国魯王七年、1652年)
- 春正月、海澄の中権関を攻略。周全斌が「まず行在に通じ李定国・孫可望と会すべし」と献策し重用される。
- 二月、長泰攻略戦で王邦俊・王進を破る。三月、江東橋の戦いで陳錦を大敗させる(陳錦は後に配下に刺殺される)。
- 五月、馬逢知の援軍を逆用の計で撃破。秋八月、漳州包囲戦が続き、秋霖による飢饉で城中の死者七十余万に及ぶという凄惨な籠城戦。
- 九月、金礪の援軍により漳州の囲みを解く。冬十月、金礪・馬逢知・王邦俊の反撃で成功軍は大敗し海澄に退く。
順治十年(永暦七年、1653年)
- 鄭芝龍からの降伏勧誘を成功は拒絶。三月、張名振の長江遠征を支援するが羊山の颶風で損害。
- 夏四月、郝尚久の降を受けるが恵来攻略は失敗。五月、金礪の海澄攻撃を伏兵と地雷で撃退(廝養卒の活躍)。六月、永暦帝が成功を漳国公とする。
- 秋九月、郝尚久との連携は失敗に終わる。清は成功を靖海将軍・海澄公に封じ招降を図るが応じず。
順治十一年(永暦八年、1654年)
- 春正月、陳六御が舟山・崇明を攻める。李増・蘇茂・黄梧が広東方面へ。
- 二月、李徳が芝龍の意を伝え降伏を迫るが拒否。三事の条件(剃髪せず高麗同様の待遇)を提示するが清側は魯王の身柄引き渡しを求め拒絶。
- 夏、饒平攻略失敗。五月、督餉官黄愷を処刑し民心を得る。
順治十二年(永暦九年、1655年)
- 成功は思明州で内政整備(六官設置、儲賢館・儲材館、印製局など)。魯王・寧靖王ら宗室遺臣を厚遇。軍を七十二鎮に編成。
- 冬十一月、鄭芝龍が北京で下獄。夏、城を築き陸海軍の大規模検閲。北伐計画で張名振を浙江へ、黄廷を広東へ派遣し戦果を挙げる。
- 清の招降(劉清泰)を拒絶、しかし逆襲を恐れ諸城を破却して厦門に戻る。冬、馬信が投降。
順治十三年(永暦十年、1656年)
- 春、馬信が舟山を降す。二月、黄廷が呉六奇に敗れる。
- 夏四月、清の濟度が厦門を大挙攻撃するが颶風により大敗(成功は捕虜を釈放)。
- 五月、蘇茂を施琅逃亡の責で処刑。黄梧が海澄で叛き清に降伏、成功軍は大きな損失を受ける。
- 秋七月、成功軍が福州を包囲するが清軍の内応工作で敗退(八月)。冬十二月、再度福州を攻めるが克たず、温州・台州を掠める。芝龍からの降伏要求を拒絶し続ける。
順治十四年(永暦十一年、1657年)
- 春正月、温州攻略。三月、鄭鴻逵が死す。黄梧は「芝龍・成功を殺さねば投降者は決心しない」と清に進言(採用されず、芝龍は寧古塔へ流される)。
- 夏、施舉の松門遠征が颶風で失敗。秋七月、閩安・台州を攻略するが福州攻撃は成らず。冬、南澳を攻略。
- 成功は南京攻略の大方針を諸将と議論(甘輝は反対、馮澄世・陳永華らは賛成)。永暦帝から延平郡王・招討大将軍に封じられる。
順治十五年(永暦十二年、1658年)
- 春正月、王爵を辞し招討大将軍のまま留まる。二月、南澳・耿継茂軍を攻める。夏五月、海澄を攻略。
- 秋七月、南京への大挙北伐を開始。張煌言軍と合流し平陽・瑞安を降す。羊山で颶風に遭い義陽王・成功の幼子ら多数が溺死、舟山へ引き返す。
- 九月、象山を攻略するも軍中に逃亡・疑心が広がる。
順治十六年(永暦十三年、1659年)
- 春正月、成功は思明州で再度の北伐を計画。二月、温州へ進む。三月、太平を攻略。
- 五月、崇明攻略の意見(張煌言・馮澄世)を退け「まず瓜洲を取れば崇明は自ずと降る」と江陰を越える。
- 六月丁酉、丹徒に至り焦山で天地・太祖・崇禎帝・隆武帝を祭る(軍中慟哭)。
- 丙午、瓜洲・鎮江を攻略(周全斌・甘輝・陳魁らの活躍、管効忠を撃破)。江南は大いに震撼し清の順治帝は親征を議す。
- 甘輝は瓜洲・鎮江の確保を主張するが成功は南京へ急進を決断。獅子山に布陣し孝陵を祭るが、降将朱衣助の偽降策に欺かれ油断する。
- 七月癸未、清軍梁化鳳の奇襲で余新の陣が崩れ、続く決戦で甘輝・張英ら多数の将が戦死、成功軍は大敗(甘輝は捕らえられ処刑)。
- 成功は鎮江・瓜洲を放棄して撤退、崇明を攻めるも化鳳の守りで失敗。九月、寧波・舟山を攻略するが定海で撃退される。
- 冬十月、思明州に戻り甘輝らを哭し敗軍の罪を永暦帝に謝す。
順治十七年(永暦十四年、1660年)
- 夏五月、清の明安達理・達素・李率泰が厦門を大挙攻撃するが、成功は風向きの変化を読んで反撃し大勝(達素は福州へ敗走、以後厦門攻撃は行われず)。
- 李率泰の毒殺計画は発覚し未遂に終わる。
順治十八年(永暦十五年、1661年)
- 春正月、成功は厦門・金門の弱体化を憂い、何斌の勧めで台湾攻略を決意(オランダ支配下の台湾の来歴と地勢の説明)。
- 二月、澎湖を経て鹿耳門から台湾に入り赤嵌城を攻略、オランダ勢を七鯤身に追い込み包囲。
- 秋七月、降将黄梧の誘いで郭義・蔡祿が銅山で清に降る。
- 冬十月、鄭芝龍が処刑される(子の世恩・世蔭・世默も)。李率泰は沿海の民を強制移住させ海禁を強化。
- 十二月、成功はオランダ守備の水源を断ち降伏を迫る。
康熙元年(永暦帝没、台湾では永暦十六年と称、1662年)
- 春二月、陳豹が讒言により疑われ、周全斌の攻撃を受け広州へ降伏。
- 夏五月庚辰、成功は寒疾で急逝(三十九歳)。子の経(思明州にいた)と、子克𡒉の処断をめぐる内紛から、弟の襲が黄昭・蕭拱宸に擁立され台湾で自立を図る。
- 経は洪旭・周全斌・陳永華・馮錫範らと共に台湾へ進軍、周全斌の活躍で黄昭を討ち蕭拱宸を誅し、内乱を鎮める。
- 十一月、経は台湾に入り叔父襲を許し、翁天祐を転運使とする。永暦帝の訃報が届き、張煌言は魯王監国復位を勧めるが経は従わず、永暦号を用い続ける。
康熙二年(台湾は永暦を称す、1663年)
- 春正月、経は思明州に至り成功を祭る。夏、鄭泰(金門総兵)が清との内通を疑われ経に誅殺され、弟鄭鳴駿は反発して離反するが後に降伏。
- 冬十月、耿継茂・李率泰・黄梧・施琅とオランダ艦隊の連合攻撃を受け、金門・厦門が陥落し焦土となる。経は銅山へ退く。
康熙三年(台湾は永暦を称す、1664年)
- 春、諸将の投降が相次ぐ中、経は台湾へ本拠を移す(東都を東寧と改称、天興・万年を州に昇格)。陳永華が内政を主導し開墾・学校・漁塩・通商を興す。
- 清は施琅を靖海将軍とし台湾攻撃を図るが颶風で失敗(以後、康熙六年・八年にも遠征・招降が試みられるがいずれも不成立)。経は「不剃髪・不易服・不称臣」で朝鮮同様の待遇を求め、独立を保つ。
康熙九年~十二年(1670-1673年)
- 台湾は安定し豊作。耿精忠が三藩の乱に呼応し援兵を求め、経は一時応じる構えを見せる。
康熙十三年(1674年)
- 耿精忠が泉州・漳州の割譲を約して援を求めるが、実行段階で反故にし対立。経は自ら出兵し思明州へ進出、閩地の諸城を次々に攻略(泉州・漳州・興化・汀州・潮州・恵州方面まで勢力拡大)。
康熙十四年~十六年(1675-1677年)
- 経は広東・福建で耿精忠・尚之信の軍と一進一退の攻防を繰り返す(劉国軒・何祐の活躍が目立つ)。耿精忠が清に再降すると経を挟撃し、興化・漳州など次々に失陥。
康熙十七年~十九年(1678-1680年)
- 経は海澄で頑強に抵抗するが、姚啓聖の懐柔策(金帛での誘降)により諸将が続々投降。呉淑の戦死などを経て軍勢は衰え、最終的に金門・厦門を放棄し台湾へ撤退(経の母董氏はこれを厳しく責める)。
康熙二十年(1681年)
- 春正月、経が没す。馮錫範が陳永華の失脚と経の実子克𡒉の弑殺を主導、幼い克塽を擁立し実権を握る。内紛(傅為霖の反乱未遂)が続く。
康熙二十二年(1683年)
- 夏六月、施琅が澎湖を攻略。劉国軒の頑強な防戦も大風雨の中で崩れ、鄭軍は壊滅。
- 秋八月、施琅は台湾に入る。劉国軒・馮錫範・何祐は克塽を奉じて降伏。台湾は清の府県に編入され(台湾府・鳳山県・諸羅県・台湾県)、克塽以下は北京に送られ、成功・経の柩も故地へ改葬される。
史論(地の文)
- 隆武帝(襄皇帝)は非凡の資質を持ちながら藩服にあって沈廃の憂き目に遭い、福京即位後は清廉・勤勉であったが、鄭芝龍の専横と洪承疇の謀により志を果たせず滅んだ。陳謙誅殺や成功への恩幸を帝の罪とする説もあるが、著者はこれを是としない(謙は死んでも生きても叛くべき人物、成功は幸せずとも滅ぶべき勢いにあった)。
- 鄭芝龍は歓・泰(前漢の逆臣)の権を懐き、曦・檜(南宋の逆臣)の志を抱いた。洪承疇の姦計と併せ、少康・光武の中興にすら及ばぬ結果を招いた。中興の主は武断果決を要し、偏安の時にも共に力を合わせることが肝要である。閩中の政権はこの点で徹底できず、江陵での帝の遭難や義士の殉節を招いた。
- 朱成功は母の死を悲しみ父を拒み、魯王を離れ永暦に従うなど、その処世は議論を呼んだが、決して周瑜のような口舌の徒ではなく、熊飛のように嶺嶠から起兵した実行の人であった。江南遠征は敗れたが、その勇戦は南北に大義を示し、太祖の霊にも恥じぬものであった。閩中が明の命脈を保ち得たのは成功あってこそである。
- 台湾への遷移は鴻毛のように軽い寓居のようであったが、賢才を礼し軍民を安んじる政治は孟珙の江漢書院、竇融の河西統治に比すべきものであった。しかし太原(隆武帝の遺志)は継がれず、延平(成功)もまた地下で無念を抱いたであろう。
- 三藩の乱後、経の没後に馮錫範ら奸臣が権を篡奪し、天沢(正統)は自ら失われた。施琅の反噬(かつての部下による裏切り)によって滅亡したのも当然の帰結であった。ただし明の命運が南台で終わる一方、鄭氏によって新たに台湾が開かれたことは、澤は三世に及ばずとも廟祀は今なお閩に伝わる。天の事と人の紀とを併せ見れば、これはまさに「屯蒙」(草創の困難)の機であり、頑迷・懦弱の者を奮起させるものであった。