續明紀事本末浙江沿海に残った義兵(浙海遺兵)
魯王朱以海が紹興で監国を称し浙東の義軍を糾合するも、隆武帝との不和や諸将の内訌に阻まれ杭州攻略はならず、清軍の攻勢で舟山を追われ台湾・福建を転々とする。魯王没後も張名振・張煌言が抵抗を続け、長江を遡り南京孝陵を望むまでの奮戦を経て、張煌言が節を守り死ぬまでを描く。宏光元年(1645)から康熙三年(1664)まで約20年間。
年表(20件)
- 宏光元年(1645年)夏 - 魯王監国のはじまり魯王が紹興に至り監国を称し、孫嘉績・熊汝霖ら義軍を糾合した
- 順治三年(隆武二年、監国魯王元年、1646年)隆武帝との不和が続く中、博托軍に紹興を突かれ監国は台州へ退いた
- 順治四年(永暦元年、監国二年、朱成功隆武三年称、1647年)監国は長垣にあり熊汝霖・張名振を大学士とし、福建諸城を攻めた
- 順治五年(永暦二年、監国三年、朱成功隆武四年称、1648年)周瑞・鄭綵の私闘で熊汝霖・鄭遵謙が殺され人心が動揺した
- 順治六年(永暦三年、監国四年、朱成功隆武五年称、1649年)劉中藻が福安で十月籠城の末に陥落し戦死、監国は北帰して三盤に至った
- 順治七年(永暦四年、監国五年、朱成功隆武六年称、1650年)諸将が黄斌卿の専横を討伐し誅殺、監国は舟山に入った
- 順治八年(永暦四年・五年、監国六年、朱成功隆武七年称、1651年)陳錦の大挙攻撃で舟山が陥落し、張肯堂以下多数が殉節した
- 順治九年(永暦六年、監国七年、朱成功隆武八年称、1652年)監国は廈門に至り朱成功に厚遇され、張名振は総制となった
- 順治十年(永暦七年、監国八年〈この年魯王監国号を除く〉、朱成功隆武九年称、1653年)魯王は自ら監国の号を除き、張名振は浙江へ進出した
- 順治十一年(永暦八年、朱成功隆武十年称、1654年)張名振・張煌言は鎮江まで攻め、南京孝陵を望んで祭を行った
- 順治十二年(永暦九年、朱成功隆武十一年称、1655年)張名振が病没し、部下を張煌言に委ねた
- 順治十三年(永暦十年、朱成功隆武十二年称、1656年)張煌言は天台に進み、大風により舟山が再び陥落した
- 順治十四年(永暦十一年、朱成功隆武十三年称、1657年)張煌言は鹿頸に軍し、成功に南京攻略を説いた
- 順治十五年(永暦十二年、朱成功隆武十四年称、1658年)張煌言は郎廷佐の招降を拒絶し、成功と浙江を攻めるも颶風で退いた
- 順治十六年(永暦十三年、朱成功隆武十五年称、1659年)張名振・張煌言が成功の北伐に加わり鎮江を陥すが、南京で敗退した
- 順治十七年(永暦十四年、朱成功隆武十六年称、1660年)朱成功は廈門で大捷、張煌言は福建進攻を勧めるが台湾議に阻まれた
- 順治十八年(永暦十五年、朱成功隆武十七年称、1661年)成功が台湾攻略に向かい、張煌言は両島の守りが失われると諫めた
- 康熙元年(永暦帝没、朱成功隆武十八年称、1662年)朱成功が病没、魯王も台湾で没し張煌言は志を変えなかった
- 康熙二年(1663年)張煌言が林門で魯王を祭るが、部下の裏切りで弟嘉言を失った
- 康熙三年(1664年)張煌言は成すすべなしと軍を解散、秋に節を守って死んだ
宏光元年(1645年)夏 - 魯王監国のはじまり
- 魯王朱以海(高帝十世の孫、兗州に封ぜられ台州府に避難していた)が紹興に至る。博托(清の貝勒)が嘉興・杭州に進撃し、杭州にいた潞王常淓が監国を王に勧めるが王は応じなかった。
- 六月、巡撫張秉貞・陳洪範が開城降伏(張秉貞は後に誅殺)、寧波・広徳・嘉興・杭州・湖州が陥落。博托は銭塘に布陣したが潮が来ず、紹興府を招降しようとした。
- 職方主事陳函輝が監国を勧めたが王は固辞。函輝は浙東の地の利を説いた。臨海知県呉廷猷・海門参将呉凱が守りを誓い、王を監国に推戴。廷猷を巡撫、凱を将軍・開遠伯とした。
- 夜に不吉な星が現れる。孫嘉績・熊汝霖・鄭遵謙・於穎らが既に紹興で挙兵しており、莊敬則・沈振東の内応で銭塘の舟を東へ導き紹興の防衛体制を築いた。
- 博托・張存仁は舟を連ねて筏を作り渡河を図るが、於穎の決死隊が破壊し風潮で失敗。杭州攻略が困難なため、司橋方面(海寧・海塩経由)と潭頭方面(富陽・餘杭経由、独松関を扼す)の二道作戦を議す。
- 富陽をめぐる攻防(劉穆の子肇勷戦死、阮維新・王宗茂の力戦で富陽回復)。刑部主事錢肅樂・兵部尚書張国維も紹興で挙兵、監国に西進を勧め、閏六月戊申、王は紹興に至り監国を称し(明年を監国元年とする)、分巡道署を行宮とした。
- 定海総兵王之仁・石浦遊撃張名振・滃州鎮将黄斌卿ら諸将が兵糧を献じて来会。降将方国安(金華を包囲・焼掠していた)も来帰。
- 監国は張国維・方逢年・朱大典・宋之普を大学士、章正宸を戸部左侍郎行尚書事、李占春を戸部尚書、王思任を礼部尚書、余煌を兵部尚書、張文郁を工部尚書、孫嘉績・熊汝霖を僉都御史、陳潜夫を太僕寺少卿、陳函輝を少詹事、張煌言を行人に任じた。
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諸将に守備地を分担させ木城を築いて固守を図る。降将謝三賓は寧波で降伏していたが密かに翠山に兵を集めており、王家勤の警告で寧波の守りを固め、三賓の動きを牽制した(十月に解除)。
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秋七月、大学士張国維が西興に会師し日々進退を訓練。この月、勒克德渾の兵が海塩を陥し、守将俞元良戦死。
- 八月、盗賊李九成の浙東侵掠を呉易が討伐。監国は黄斌卿を粛鹵伯とし舟山鎮守を命じ、吳易・金声(義旅詳述)・李錦らへの働きかけ、光恩・賀珍への鉄券授与(義旅詳述)を行う。
- 張国維は於潜で疏を上奏し戦略を説き、監国は尚方剣を授け諸軍総督とした。しかし王之仁・方国安の渡河は降将に撃退され、鄭遵謙は太平門攻撃中に砲死。姜国臣・汪碩德の海塩回復戦、熊汝霖配下の激戦(趙清戦死ほか多数戦死)、汝霖自身も矢を受け小舟で逃れる。浙東は大水と苛酷な徴発に民が疲弊、文武の官は奢侈を続け風刺の俗謡が流行した。
- この月、田仰が海路で来て東閣大学士となる。
- 冬十月、勒克德渾・張存仁が固安を攻め、張国維・錢肅樂・王之仁らが激戦(十日十勝、七戦目が特に大捷)。錢肅繡は矛傷を負いながらも戦い続け戦死。熊汝霖は上疏し防衛の薄弱を訴えるも聞き入れられず。錢肅樂の平湖・海塩攻撃案も却下。浙西・蘇・皖の義兵百余ありながら杭州攻略は進まず。
- 隆武帝(福州で即位)の使者が詔をもたらすが監国は激怒し台州に戻ろうとする。張国維がこれを制止し、熊汝霖も「先に閩の兵で杭州・南京を回復してから称臣すればよい」と説く。朱大典・錢肅樂は監国を「皇太侄」と称する妥協案を提案するが張国維案が採用され、隆武帝との間に緊張が続く。張煌言が調停に赴き、金堡が両立の弊害を説いて対立が深まる(浙・閩の不和)。
- 浙軍の起兵は熊汝霖・孫嘉績ら書生が主導したが、実戦部隊は王之仁・方国安の宿将に依存。餉の配分をめぐり戸部主事董守諭・邵之詹らが対立、王之仁は威嚇するが守諭は屈せず、方国安は義餉を武力で奪取するなど軍紀は乱れた。錢肅樂は十捷の功を辞退し部下の功績を訴えたが認められず、宦官の軍政介入もあり士気は低下し義兵は離散していった。陳函輝は「大事去れり」と嘆いた。
- 十一月、監国は方国安を荊国公、王之仁を武尊侯、鄭遵謙を興義伯に封じ、張煌言を兵科給事中に擢用。江上での親征、方国安を大元帥とするが馬士英・阮大鋮が加わり軍紀は乱れ、張国維の杭州攻略案も実行に移されぬまま馬士英軍が大敗。熊汝霖の部隊も苦戦し多数戦死。鄭綵の援軍は結局到着せず。
- 十二月、監国は降臣謝三賓を礼部尚書・東閣大学士に登用(外戚張国俊・宦官の結託による)。錢肅樂は「亡国の十の兆し」を挙げて痛烈に上疏し、太常寺卿莊元宸も直言したが聞き入れられず、両者とも失望して離れる。沈廷揚は舟山に拠り軍紀粛正に努めた。
順治三年(隆武二年、監国魯王元年、1646年)
- 春正月、監国は紹興にあり、柯夏卿・曹維才を閩に派遣。隆武帝は「皇太侄」の礼を提案するが監国はなお不満で「皇叔父」と称するにとどめた。
- 二月、黄宗羲が職方主事から監察御史に。張国柱・王鳴謙らの掠奪に対し招撫策をとる。田仰・荊本澈の横暴な兵も王正中の防備で自重。
- 三月、博托・張存仁の水軍を張国維が防ぎ、王之仁が江心で撃破(鎧甲多数鹵獲)。国維は杭州を攻めるも落とせず。陸清源が方国安に殺され、監国は張国維を分兵させ閩の備えとした。
- 諸将の餉争いが激化(田仰と鄭遵謙の武力衝突)。兵部尚書余煌は「亡国前の措置より現在の防備を優先すべき」と諫言。熊汝霖・陳万良らの太湖方面反攻策は実行されず、乍浦のみ克つ。姚志卓も敗走。
- 夏五月、隆武帝が陳謙を誅殺(閩海遺兵詳述)。閩浙の不和は解消せず。錢肅樂は讒言により入閩を疑われ抗議して山に隠れる。孫嘉績・熊汝霖を東閣大学士とし、正規軍は黄宗羲・王正中に統合されるが兵力は乏しい。陳潜夫・朱大定らも義兵を率い太湖方面へ進出を図るも失敗。
- 六月、博托が銭塘に迫り、方国安は入閩・入滇を図るが果たせず紹興を突いて監国を襲撃。王之仁のみ動かず、張国維は監国に従い退却。博托はついに渡江。
- 丙子、博托が紹興へ進撃。余煌は民を逃がしてから自殺。監国は曹娥江を渡り台州に至る(方国安・馬士英による監国捕縛未遂事件あり)。
- 秋七月、監国は海を渡り南田へ。張名振が迎え舟山入りを図る。
- 張国維に東陽守備を命じるが博托軍に陥落、方逢年・方国安が降伏。金華では朱大典が固守。
- 黄斌卿が舟山で張国柱を撃退、監国の宮眷の舟が襲われ元妃張氏は自刎、次妃陳氏は張肯堂の保護で難を逃れる。
- 博托軍は衢州を陥し崇王・楚王ら宗室数十人を殺害、厳州府も陥落。温州・台州も次々陥落し、浙東内地はほぼ失われる。監国は名振に護られ舟山へ向かう途中、追撃を受けるが荒天により難を逃れる。
- 九月、監国は舟山に至るが黄斌卿は拒絶して受け入れず(舟山は独立勢力化し略奪・専横が甚だしかった)。隆武帝が即位したことを知り福建に帰属を図る動きも。鄭芝龍降伏の報に鄭綵が監国を奉じ福建へ入る。
- この月、博托軍が金華を陥し屠城。浙江はほぼ全て陥落。
- 冬十月、監国は舟山から普陀を経て台州に至り、十一月には鷺門(中左所)へ。熊汝霖・張煌言・張名振らが従う。名振を定西伯に封じ鄭綵とともに兵権を掌握させる。鄭芝龍は監国を捕えさせようとするが鄭綵は拒み替え玉を用意して守った。
- 十二月、朱成功が挙兵し「隆武三年」と称する。張煌言は名振に北帰を勧め、監国は長垣・石浦に至る。
順治四年(永暦元年、監国二年、朱成功隆武三年称、1647年)
- 春正月、監国は長垣にあり、吳鍾巒・熊汝霖ら多数の臣が参集。監国は熊汝霖・朱継祚・張名振を大学士、黄宗羲・張煌言を僉都御史とする。
- 誓師のうえ鄭綵・鄭遵謙・張名振・楊耿・鄭聯・周瑞・鄭聯・阮進・周鶴芝ら諸将を封爵。周鶴芝は日本に援兵を求めたが実現せず。劉中藻は括蒼から福建諸邑を攻略、監国は兵部尚書・東閣大学士とするが鄭綵と対立。
- 二月、監国は海澄・漳平・興化・福清など福建諸城を攻めるが、勝敗まちまちで奪還・再喪失を繰り返す。
- 三月、周鶴芝が閩安を攻め、建陽をめぐる攻防で降将蔡応科と戦い敗死。
- 夏四月、松江の降将呉兆勝の内応工作が失敗(張名振・張煌言の軍が颶風で大損害、沈廷揚は殉節、陳子龍らも死す)。建寧を義兵の内応で落とすが邵武は攻めきれず。
- 五月、鄭綵は長楽を落とすもすぐ失う。馬得功の海口攻撃で林舞籥・趙牧戦死。周鶴芝も敗退。
- 六月、監国は漳州を攻めるが克たず。故副都御史錢肅樂が来謁し、兵制の整理を建議して監国に用いられる。
- 秋七月、監国は朱成功・鄭鴻逵と福州を攻めるが敗績。
- 八月、連江を襲う。九月、羅源・連江・長楽など二十余県を復し、鄖西王常潮が松溪に入り各地に呼応者が出る。
- 冬十月、馬思理・林正亨ら人事を刷新。大学士呉鍾巒が召還され軍紀粛正を建議。劉中藻の福寧攻略(涂登華が降る)と鄭綵との軋轢が続く。
- 十二月、山寨連合による寧波・紹興回復計画(華夏・李長祥ら)が黄斌卿の不応で失敗、諸軍が敗走。
順治五年(永暦二年、監国三年、朱成功隆武四年称、1648年)
- 春正月、監国は閩安・琅琦嶼にあり。周瑞・鄭綵の私闘で熊汝霖・鄭遵謙が殺され人心が動揺。
- 前大学士朱継祚・楊耿が興化を回復し、汀州・延平まで進出。
- 二月、錢肅樂は東閣大学士となるが病重く、江西の郭天才が来降。王翊が上虞を破るも敗走。張存仁が連城・将楽・順昌を陥す。
- 三月、同安以下諸県が再び陥落。錢肅樂と鄭綵の不和が深まる。馬得功が徳化諸県を陥し建寧も陥落。鄖西王は捕らえられ死す(義旅詳述)。
- 夏六月、金郷が陥る。秋八月、鄭綵は海に敗走し連江を失う。冬十月、監国は壺江に退く。
- 十二月、王翊(大蘭)・張煌言(平岡)・李長祥(東山)ら各地の義軍が抵抗を続ける(義旅詳述)。
順治六年(永暦三年、監国四年、朱成功隆武五年称、1649年)
- 春正月、監国は玉環に。張名振が来朝。三月、王翊が奉化・上虞を破る。馬得功が寧徳を陥す。
- 夏四月、福安が陥落。劉中藻が固守すること十月から続けたが遂に陥落し戦死(沙埕も陥落、閩地はほぼ失われる)。
- 監国は事急となり黄斌卿に救援を求めるも応じず、塗覚の助けで浙へ北帰し三盤に至る。鄭綵・鄭聯は監国を見捨てて去る。
- 六月、張名振が健跳所を克復、阮進も黄斌卿を離れ監国に合流。
- 秋七月、監国は健跳所に至る。田雄の包囲を張名振・阮進が撃退。王朝先・徐仁爵らが封爵される。
- 王朝先は黄斌卿に苦しめられていたが、名振の援助で復帰。斌卿の専横(舟山の民の徴兵・田制の私物化・略奪)に諸将が反発し討伐を決議、監国も説得に加わる。九月、舟山を攻め、斌卿は監国への奉迎を拒んだため尹明に誅殺される。
- 冬十月、監国は舟山に入る。張肯堂を東閣大学士、張名振を太師とし、王翊・李長祥・徐孚遠らが来朝、各要地の守備を固める。
- 侍郎馮京第が日本に援兵を求めるが実現せず(宣教師迫害の影響)。十二月、馬得功が南安を攻め陳が戦死。
順治七年(永暦四年、監国五年、朱成功隆武六年称、1650年)
- 春正月、監国は太祖廟に謁し浙東数郡すら保てぬ現状を嘆く。李錫祚・李錫貢が来投し阮進を助ける。
- 二月、張煌言・王翊が来朝。夏五月、馬得功が雙坑を陥し陳が殺される。
- 秋八月、王翊が新昌を回復するも、周瑞と周鶴芝の不和、鄭綵の求援など内紛が続く。九月、降将金礪が舟山を攻め、王翊は各地の山寨を潰され海に逃れる(義旅詳述)。
順治八年(永暦四年・五年、監国六年、朱成功隆武七年称、1651年)
- 春正月、監国は舟山に。王朝先と張名振の間で軋轢が生じ、二月、名振が朝先を討ち殺す。その部下張済明が陳錦に投降し舟山の情勢を漏らす。陳錦は舟山攻略を計画。
- 秋七月、陳錦の大挙攻撃。監国は諸将(阮進・張名振・張煌言ら)に防備を命じるが、危機感から一時舟山離脱を図る。張名振は「敵は蛟門の険を恐れて来ぬ」と説き、逆に呉淞攻撃で牽制を提案し実行。
- 八月、陳錦が奉化の山寨を陥し舟山に迫る。阮進が奇襲で撃退するも、大霧に乗じ陳錦が急襲、阮進は火計に失敗し負傷、諸軍敗績。張肯堂らが城を死守するも、九月、火薬が尽き城陥落。監国妃張氏は入水自殺、王氏・杜氏・張氏も殉じ、張肯堂以下多数が殉節(殉節詳述)。張名振は母・妻の焼死を知り海に身を投げようとするが監国らに止められる。
- 冬十月、監国は海壇入りを図り朱成功に援助を求める。永暦帝がすでに広西で即位したと知り帰服を表明。張名振・張煌言が監国を奉じて行く。
順治九年(永暦六年、監国七年、朱成功隆武八年称、1652年)
- 春正月、監国は廈門に至る。朱成功との会見礼をめぐり議論あり、成功は「宗人府正」の礼で応対。監国一行を厚遇し金門に居所を与える。
- 鄭芝龍が北京より成功に張名振討伐を促すが従わず。成功は名振を厚く遇し、名振は「赤心報国」の刺青を示して忠誠を証す。成功は名振を総制とし温州・台州募兵、張煌言も呉淞への潜入と募兵を行う。
順治十年(永暦七年、監国八年〈この年魯王監国号を除く〉、朱成功隆武九年称、1653年)
- 監国は金門に。三月、魯王は自ら監国の号を除き寓公となる(朱成功との軋轢が背景、張煌言らの調停で王は落ち着く)。
- 張名振が浙江に進出、崇明への攻撃、鎮江まで深入りして戦果を挙げる。廈門に戻り成功と協議、再度北進するも風害で兵を折る。
- 秋九月、名振は崇明の平陽沙に駐屯し飢餓に耐える(士卒は名振を慕い離散せず)。
- 冬十二月、馬得功らの攻撃を撃退し軍勢を立て直す。
順治十一年(永暦八年、朱成功隆武十年称、1654年)
- 春正月、魯王は金門に。名振・煌言は崇明を攻め長江に入り鎮江を陥し、瓜洲・儀真を掠め、南京孝陵を望んで祭を行い詩を詠む(「十年横海一孤臣」の詩)。
- 夏四月、名振は呉淞・鎮江・儀徴を攻め、張煌言は北方に転じ登州・莱州・天津を掠め遼東・高麗方面まで達し戦果を報告。
順治十二年(永暦九年、朱成功隆武十一年称、1655年)
- 夏五月、張名振が舟山を攻略。冬十一月、台州の馬信が降を乞う。名振は病を得て「母の骨を得られぬまま死ぬのが無念」と語り、先帝を呼びつつ没す。張煌言が葬り、部下を煌言に委ねる(陶謙が徐州を譲った故事に例えられる)。
順治十三年(永暦十年、朱成功隆武十二年称、1656年)
- 春正月、魯王は金門に。二月、舟山城で不吉な兆し。陳六御が舟山城を破棄。張煌言は天台に進軍。
- 秋八月、張煌言・朱成功が北伐を約す。尹爾徳・田雄・馬得功が舟山を攻め、阮駿が烈港で防戦するも大風により敗れ張晋爵が戦死、舟山は再び陥落。
- 冬十月、張煌言は秦川に進軍。孤軍となるも朱成功との信頼関係は保たれ、この年、魯王は南澳に移る。
順治十四年(永暦十一年、朱成功隆武十三年称、1657年)
- 春正月、魯王は南澳に。張煌言は鹿頸に軍し、成功に南京攻略を説く。山陰の葉振名らが従う。
順治十五年(永暦十二年、朱成功隆武十四年称、1658年)
- 春正月、魯王は南澳に。永暦帝の使者が至り、張煌言を兵部左侍郎兼翰林院学士、徐孚遠を左副都御史とする。郎廷佐の招降を煌言は拒絶。
- 徐孚遠は成功の従人となり、後に安南に漂着し義を貫く。
- 秋七月、張煌言・朱成功が浙江に入り温州・台州を克復するが羊山で颶風に遭い引き返す(閩海遺兵詳述、煌言軍のみ無事)。
順治十六年(永暦十三年、朱成功隆武十五年称、1659年)
- 春正月、魯王は南澳に。永暦帝が監国の勅を送るが朱成功はこれを嫌い王を澎湖に遷す。張煌言は天台に軍す。
- 夏五月、張煌言は成功の北伐に加わり崇明・丹徒・焦山(天地を祀る)・瓜洲を経て鎮江を陥し、南京攻略を進言。江浦・六合・天長・盱眙・泗州を次々に降し、蕪湖まで進出し四府三州二十数県を降す。
- しかし朱成功が南京で敗退すると煌言軍も孤立、太平で叛将を討つも各地で苦戦し、徽州から桐城・無為州を転戦、追撃を受けて壊滅寸前となるが、義士の助けを得て脱出。義烏・天台を経て海壖に至り、林門で軍を再建。
- この間、朱成功は鎮江から崇明・寧波・舟山を攻める(舟山は一時陥落)。
- 冬十月、朱成功は廈門に戻り魯王を金門に迎える。
順治十七年(永暦十四年、朱成功隆武十六年称、1660年)
- 春正月、魯王は金門に。張煌言は林門・桃渚に軍し、台州の張永恩が降を請う。夏、朱成功は廈門で大捷、煌言は成功に福建進攻を勧めるが台湾議が起こり従われず(閩海遺兵詳述)。
順治十八年(永暦十五年、朱成功隆武十七年称、1661年)
- 春正月、魯王は金門に。張煌言は久しく朝謁を憚っていたが人々はその志を認めていた。成功が澎湖出兵(台湾遠征)に向かうことを知り、羅子木を通じて「両島の守りが失われる」と諫めるが聞かれず、詩でこれを批判。
- 冬十二月、朱成功は台湾入りし魯王を東へ迎える。張煌言は成功の遷界策(浙沿海民の強制移住)を批判し、書を送るも聞かれず。呉三桂の雲南侵攻に呼応する策も実現せず。
康熙元年(永暦帝没、朱成功隆武十八年称、1662年)
- 春正月、魯王は台湾に。夏五月、朱成功没す。張煌言は嘆き林門に軍を戻す。
- 秋、永暦帝の凶報が至り、王忠孝・沈佺期らが魯王を再び監国に推す。張煌言は上疏し光武中興・昭烈継統の故事を引き復位を勧めるが、鄭経は不可とし王も固辞。
- 冬十一月辛卯、魯王は台湾で没す。張煌言は「なお王がいたから孤軍を支えてきた」と哭き、志を変えなかった。
康熙二年(1663年)
- 張煌言は林門に軍し魯王を祭る。東蚶・長腰諸島を攻略するが、部下の裏切りにより舟を砲撃され弟嘉言を失い、諸島を再び失う。
康熙三年(1664年)
- 春三月、張煌言・阮春雷は三山・三都間に船を集めるが吳万福・李長榮に敗れ、部下多数が捕らえられる。煌言は成すすべなしと悟り軍を解散、浙江の懸嶴に隠棲。
- 秋七月、張煌言は節を守り死す。魯王の一党はここに尽きる。
史論(地の文)
- 魯王は太祖十世の孫。兵乱を逃れ東浙に移り、張国維・陳函輝に奉じられたが、当初から武備は十分でなかった。監国後は大勢挽回の好機がありながら、王自身が果断さを欠き機を逸した。馬士英・阮大鋮の介入、方国安・王之仁の対立、張国俊・客鳳儀の専横、張鵬翼・朱大典の閩に対する抵抗など内訌が続き、九死に一生を得ながらもついに滅びに至った。
- 健跳・舟山への転々、鄭綵・鄭聯の跋扈、閩での挙兵の失敗など苦難の連続であったが、王は最後まで人望を保ち天寿を全うした。これは唐王(隆武帝)と魯王の対立にもかかわらず、両陣営に正義の士が多かったためである。
- 寧波・紹興の義軍、舟山・閩海での殉節、錢肅樂・張国維の義、張名振・張煌言の忠は、それぞれ古の忠臣義士(岳飛配下の野先・稽聳、韓世忠・解潜、司空図・洪皓、韓琦・郤正)になぞらえられる。功業は成らなかったが、その忠魂は浙水に長く留まるものである。「春秋」の大義は王を奉ずることにあり、この忠義の志を歴史に埋もれさせてはならない。