前漢紀前漢孝平皇帝紀 其十五年 23年

更始の即位と昆陽の敗

  • 二月辛巳、劉聖公が更始皇帝に立てられた。世祖の族兄である。
  • 莽は大司徒の王尋と大司空の王邑を遣わし、百万と号する兵で更始を撃たせた。二公の兵は昆陽で敗れた。関東は震え恐れた。

劉歆・王渉の謀

  • 道士の西門君恵が莽の従兄の王渉に言った。讖に「漢は再び興り、劉秀が天子となる」とある。その天子とは国師の劉歆のことだ、と。これに先立ち、劉歆は讖に依って名を秀と改めていた。
  • 渉はこれを大司馬の董忠に語り、二人でそろって劉歆と語り合った。歆は天文と人事から東方が必ず成ると見ていた。歆はまた二人の子を殺されたことを怨み、大禍が及ぶのを恐れて、ついに董忠と謀り、莽を脅して東方へ降ろうとした。
  • 董忠らは誅せられて死んだ。劉歆と王渉は莽の近親であったので、莽はその名が世に知れるのを嫌ってひそかに誅した。歆と渉は自殺した。

王莽の最期

  • 莽は軍が外で破れ大臣が内で叛き、もはや信じる者もなく、憂え悶えて食も進まなかった。
  • 性として小手先の術を好み、ひたすら厭勝の事をした。人を遣わして漢の園陵の網戸を壊させ、民に再び漢を思わせないためだと言った。この類のことばかりであった。
  • 崔発が、国に大災があれば哭してこれを祓う、と言った。莽は群臣を率いて南郊に赴いて大いに哭し、天下に告げた。諸生や小民が朝夕集まって哭き、熱心な者は吁嗟郎に任じられた。
  • 漢の兵が至ると、莽は先祖の墳墓を暴いてその棺槨を焼き、九廟を焼いた。火は城中を照らした。
  • 十一月戊申朔、漢兵が城に入り、城中の人はみな降った。火を避けて前殿にいた莽は、なお式盤に従って席を回し、北斗の柄の向きに合わせて座り、天は徳を予に生じた、漢兵が予をどうできようか、と言った。
  • 庚戌、漸台に登り、威斗を執り符命を抱えた。従う群臣はなお千余人。王邑は兵が尽きてから戻り、父子で莽を守った。
  • 晡の下がるころ、兵の群れが台に上った。王邑らは戦死した。邑は成都王商の子である。
  • 莽は室内の地面の隅に隠れていた。校尉の公孫賓就が莽の首を斬った。軍人は莽の体を奪い合って手足を裂き、関節を解き、肌肉を切り刻んだ。首は宛にいる更始のもとへ送られた。
  • 孝平の后は、どの面目があって再び漢家にまみえよう、と言い、火に身を投じて死んだ。后は物腰やわらかで志操があり、劉氏が廃されてからは病と称して朝会に出なかった。莽が改嫁させようとして、立国将軍の孫建の子に医者を連れて見舞わせると、后は大いに怒ってそばの侍者を鞭打ち、怒りを発して起きなかった。莽はついに強いることができなかった。
  • 鍾武の劉望が汝南で衆を集めて尊号を称した。厳尤と陳茂がこれに身を投じ、尤は大司馬、茂は丞相となった。十余日で望の兵は敗れ、尤と茂はともに死んだ。
  • 司命の孔仁は兵を率いて漢に降ったが、そこで嘆じて、私は人の食を食う者はその事に殉じて死ぬと聞いている、と言い、自ら首を刎ねて死んだ。

史論(本傳曰)

  • 王莽は初め外戚から身を起こし、節を折って努め励み、名誉を築いた。一族は孝と称え、友人は仁に帰した。位に就いて輔政するに及んでは、成帝・哀帝の際に国家のために勤め、正しい道を行い、動けば人に称え述べられた。これこそいわゆる「家に在っても必ず評判が立ち、国に在っても必ず評判が立つ。表向きは仁を取り、行いはそれに背く」という者ではないか。
  • 莽はもとより不仁で邪佞の才があり、そのうえ四人の伯叔父が代々握った権に乗じ、漢が中ごろ衰えて国統が三度絶え、太后が長寿でその宗主となった時機に遇った。ゆえにその姦悪をほしいままにして篡奪の禍を成し遂げた。こう考えれば、そこには天の時もあって人力だけではない。
  • 位を盗んで南面し、拠るべきでない座に居るに至って、顛覆の勢いは桀紂よりも険しかった。それでいて莽は平然として自ら唐虞の再来と称し、恣意をほしいままにして威を振るった。天に届くほど民を虐げ、凶を窮め悪を極め、その毒は諸夏に及び、乱は蛮貊に起こったが、なおその欲を満たすに足りなかった。
  • ゆえに天下は静まりかえって生を楽しむ心を失い、内も外も怨み、遠くも近くもともに蜂起した。城池は守れず、その身体は分裂した。ついに天下の城邑を廃墟とし、丘や墓を掘り返させ、害は生きとし生けるものに遍く及び、朽ちた骨にまで及んだ。
  • 書物に載る乱臣賊子・無道の人でも、その禍と敗を考えれば、莽ほど甚だしい者はいない。
  • 昔、秦は詩書を焼いて私議を立て、莽は六経を誦して姦言を飾った。道は異なるが行き着く先は同じで、ともに滅亡した。
  • これらはみな亢龍の絶気、非命の巡り合わせである。紫色の間色や淫らな声のごとき、余りものの閏位であって、聖王のための露払いにすぎない。

班彪と隗囂の問答

  • 王莽が敗れると天下は雲のように乱れ、大きな者は州郡を建て、小さな者は県邑に拠った。公孫述は蜀で帝を称し、隗囂は隴に拠って衆を擁し英雄を集めた。班彪はそこにいた。彪は成帝の婕妤の弟の末子である。
  • 隗囂が彪に問うた。昔、周が亡んで戦国が並び争い、天下は数代にわたって分裂し、それから初めて定まった。かつての合従連衡の事が今日また起こるのか、それとも運に乗じて代わる代わる興り、結局は一人に帰するのか。先生の論を伺いたい、と。

史論(論曰)

  • 周の興廃は漢とはやや異なる。昔、周は爵を五等に立て、諸侯が政に与った。根本が弱く枝葉が強大だったので、その末には合従連衡の事が起こった。勢いがそうさせたのである。
  • 漢家は秦の制を承け、郡県で民を治め、臣下に百年に及ぶ権柄はない。成帝に至って外戚に権を貸し、哀帝・平帝は在位が短く、国の後嗣は三度絶えた。危うさは上から起こって傷は下まで及ばなかった。ゆえに王氏の貴きは朝廷を傾け擅にし、その位を盗むことはできたが、人心を顧みなかった。
  • だから即位の後は、天下で首を伸ばして嘆かぬ者はなく、十余年の間に中外が騒ぎ動き、遠近がともに蜂起した。仮の称号を掲げる者が雲のように群がったが、みな劉氏を称し、示し合わせずして言葉を同じくした。
  • 今、州域を擁する豪傑には、いずれも七国のような世襲の基盤がない。詩に「大いなるかな上帝、下を臨むこと赫たり。四方を見わたして民の患いを求む」とある。今、民はみな謡って漢を思い、劉氏を仰いでいる。それでもう明らかではないか。

王命論

  • 隗囂は言った。先生の言われる周と漢の勢いの違いは、そのとおりであろう。しかし愚かな民が劉氏に慣れ親しんでいるからといって漢家が再興すると言うのは、粗い議論だ。昔、秦がその鹿を失い、劉氏が追ってこれを得た。そのとき民が漢を知っていたか、と。
  • 彪はその言に思うところがあり、また禍患の絶えないことを憐れんで、「王命論」を著して時の難を救おうとした。その辞の趣旨は次のとおりである。
  • 昔、帝堯の禅譲に「ああ爾舜よ、天の暦数は爾の身にある」とあった。舜もまたこれをもって禹に命じた。稷や卨に至るまでみな唐虞を佐けて四海を輝かしく救い、代を重ねて徳を積み、湯・武に至って天下を得た。時代が異なり禅譲と放伐という違いはあっても、天に応じ民に順うという筋道は一つである。
  • ゆえに劉氏は堯の後を承け、その氏族の系譜は春秋に記されている。唐は火徳に拠り、漢の運がこれを継いだ。豊沛に起こったとき、神母が夜に泣き叫んで赤帝の符を明らかにした。
  • これによって言えば、帝王の福祚には必ず明聖な応の徳があり、大きな功と厚い利を積み重ねた業があり、そのうえで至誠が神明に通じ、恩沢が民に及ぶ。ゆえに神明に福され、天下が帰する。功徳の記録もない亡命の徒がここから突如立ち上がった例など見たことがない。
  • 世俗は高祖が布衣から起こったのを見て、その理由を知らず、たまたま暴乱に遭って剣を振るえただけだと思う。遊説の士は鹿を追うのになぞらえ、素早い者が幸いにして得たのだと言う。神器には天命があり、智力で求められるものではないことを知らないのだ。悲しいことである。これこそ世に乱臣賊子が多い理由である。そうであれば、天道に暗いばかりか、人事すら見えていない。
  • そもそも飢饉に流離し、寒さに震えて道を行く者が、粗末な着物一枚と一石ばかりの蓄えを願い、望みは一金に過ぎないのに、結局は溝に転がって死ぬのはなぜか。貧窮にもまた命があるからである。まして天子の貴さ、四海の富、神明の福祚を、みだりに手に入れられようか。
  • ゆえに、たとえ困難な時機に乗じて権柄を盗み、韓信・黥布のような勇があり、項梁・項籍のような強さがあり、王莽のように成し遂げたとしても、結局は鼎鑊に就き鑕に伏し、煮られ引き裂かれた。まして彼ら数人にも及ばぬ小物が、天位を犯そうと望むのか。
  • これは駑馬や跛馬に千里の道を走らせ、燕雀に大鳥の翼の働きを求め、小さな梁の材に棟梁の任を担わせ、器の小さな者に帝王の量を執らせるようなものである。易に「鼎が足を折り公の御馳走をひっくり返す」とあるのは、任に堪えないことを言う。
  • 秦の末に豪傑が並び起こり、こぞって陳嬰を推して王に立てようとした。嬰の母がこれを止めて言った。私がお前の家の嫁となってこのかた、お前の家は代々貧賤であった。にわかに富貴を得るのは不吉である。兵を人に属させるがよい。事が成れば少しは利にあずかれるし、成らなくとも禍は他へ帰す、と。嬰はその言に従い、陳氏は無事であった。
  • 王陵の母もまた、項羽が必ず亡び劉氏が興ることを見抜いた。その年、陵は漢の将として楚に捕らえられていた。漢の使者が来たとき、陵の母はこれに会って言った。わが子に伝えてほしい。漢王は長者であり必ず天下を得る。お前は謹んで従い仕え、二心を持つな、と。そして漢の使者の前で剣に伏して死に、陵の心を固めた。その後、果たして漢は定まり、陵は宰相となり侯に封ぜられた。
  • 一介の婦人の明察でさえ、事理の帰するところを推し、禍と敗の兆を見抜き、宗祀を無窮に伝え、その名を春秋の策書に垂れた。まして丈夫においてをや。
  • ゆえに窮達には命があり、吉凶は人による。嬰の母は廃を知り、陵の母は興を知った。この四つを審らかにすれば、帝王たる分限は決まる。
  • そもそも高祖が興った理由は五つある。一に堯舜の末裔であること。二に容貌に奇異が多いこと。三に神武で験と応があること。四に寛大明察で仁と信があること。五に人を知り善く任用したこと。
  • 加えて誠実で謀を好み、人の言をよく聴き入れ、善を見れば追いつかぬかのように励み、人を用いても自ら判断し、諫めに従うこと流れに順うがごとく、時に応ずること響きのごとくであった。食事の途中で口中の物を吐いて張良の策を容れ、足を洗う手を止めて酈生の説に礼を尽くした。戍卒の言を悟って故郷を懐かしむ情を断ち、四皓の名を高しとして肉親への愛を割いた。韓信を軍列から抜き、陳平を亡命の身から収めた。英雄が力を尽くし、諸々の策が必ず行われた。これが高祖の大略であり、業を成した理由である。
  • 霊瑞や符応についてもおおよそ聞くことができる。初め劉媪が高祖を身ごもったとき、夢に神と交わり、雷電が暗く閉ざし、龍蛇の怪異があった。長じて霊異が多く衆と異なっていた。だから王媪・武負は感ずるところあって借金の証文を折り、呂公はその相を見て娘を与え、秦の始皇は東を巡ってその気を鎮めようとし、呂后は雲を望んでその居所を知った。初めて命を受けるときには白蛇が断ち割られ、西のかた関に入るときには五星が集まった。ゆえに淮陰侯や留侯はこれを天が授けたものであって人力ではないと言った。
  • 古今の得失を経、行いの成敗を験し、帝王の世運を考え、この五つの謂うところを稽えれば、進退がその位にふさわしくなく、符応がその慶事に伴わないのに、かりそめに権勢と利に眩んで序を越えみだりに位に拠れば、外は力を量らず内は天命を知らぬことになり、必ず家を保つべき主を失い、天寿を失い、鼎の足を折る凶に遭い、斧鑕に伏することになる。
  • 英雄がまことに深く覚り、禍を畏れて戒め、超然と遠くを見渡し、明らかに深く識り、陳嬰・王陵の母の明察な分限を汲み取り、韓信・黥布のような分不相応な望みを断ち、鹿を追うという盲説を退け、神器の授受を審らかにし、望むべからざるものを貪らず、二人の母に笑われぬようにすれば、福祚は子孫に流れ、天の禄は永く全うされよう。
  • 彪は隗囂が悟らないと知って河西に難を避けた。河西大将軍の竇融が意見を求め、茂才に挙げて徐令とした。

班固『漢書』と帝紀の述

  • 彪の子の固、字は孟堅。明帝の時に郎となった。太史公司馬遷の史記に拠り、高祖から孝武までの大功臣についてはその後を継ぎ、記事は孝平・王莽の際にまで及ばせ、帝紀・表・志・伝を著して『漢書』とした。全部で百篇。その帝紀を述べた辞は次のとおりである。
  • 高紀の述。大いなる漢祖は堯の系統を継ぎ、まことに天が徳を生じた。聡明にして神武。秦が綱紀を失い、その網は楚から漏れた。ここに事を起こし、蛇を斬って軍を奮い立たせた。神母が符を告げ、赤い旗を掲げた。秦の郊に踏み入ると子嬰が首を垂れた。天命を革めて制を創り、法三章を定めた。天に応じ人に順い、五星が同じ位置に並んだ。項氏は道理に背いて我を巴・漢に押し込めたが、西方の人心はこちらに帰した。戦士は憤り、隙に乗じて起こり、三秦を席巻し、山河に拠ってこの民を保った。股肱は蕭何・曹参で社稷を治め、爪牙は韓信・黥布、腹心は張良・陳平。謹んで天罰を行い、その業は赫々明々であった。
  • 惠紀の述。孝惠は在位が短く、高后が制を称した。天の顕らかな道理を顧みず、呂氏の一族は敗れた。
  • 文紀の述。太宗は穆やかで、まことに恭しく静黙であった。自らの身をもって民を教化し、徳をもって下を率いた。農民に貢を課さず、罪を妻子に及ぼさず、官に新しい館を建てず、陵に高い基を築かなかった。我が徳は風のごとく、民は草のごとく応じた。国は富み刑は清く、漢の道は高きに登った。
  • 景紀の述。孝景が政に臨むと諸侯が命に背いた。七国を討ち克って王室は定まった。怠らず荒まず、務めは農桑にあり、それを甲令に著して民は安らかであった。
  • 武紀の述。世宗は輝かしく、祖業を広げることを思った。事を委ねて業を盛んにし、俊才が並び起こった。その事業とは何か。百蛮を攘い、我が疆域を広げ、外は四方の果てにまで及んだ。武功が挙がると文治を導き、六学を憲章とし、聖なる真を一つに統べた。封禅と郊祀を行い、百神の祭りの秩序を定め、音律を協え正朔を改め、長き年を享けた。
  • 昭紀の述。孝昭は幼く、冢宰は忠であった。燕王・蓋主が偽りを構えたが、まことに叡くまことに聡く、罪人は捕らえられ、国家は和合した。
  • 宣紀の述。中宗は明々として、慎重に刑名を用いた。折にふれて意見を受け入れ、聴断は精緻であった。遠きを柔らげ近きを馴らし、威霊を輝かせた。龍荒・朔漠の地も来朝せぬものはなかった。祖先の功業をよく承け、成し遂げることを尊んだ。
  • 元紀の述。孝元は慎み深く、高明にして柔らかく克めた。故老を賓客の礼で遇し、誠実で率直な者を寛容に容れた。外は禁苑を割き、内は御服を減らし、離宮に衛を置かず、山陵に邑を設けなかった。ただ宦官の瑕が、その明徳を汚した。
  • 成紀の述。孝成は堂々として、朝に臨めば光があった。威儀の盛んなことは珪や璋のごとし。しかし後宮は趙氏をほしいままにし、朝政は王氏の手にあった。炎々と燃え上がる火のようであって、まことに揚がらなかった。
  • 哀紀の述。孝哀は文雅で、よく威と神を掌握しようとした。しかし大いなる枝は凋み落ち、鼎を支える臣は顛倒した。董公はなよやかで、それを天の功を助ける者とした。大過の困であり、まことに撓みまことに凶であった。
  • 平紀の述。孝平は不運であった。新都侯が宰となり、周公でも伊尹でもなく、我が四海を喪った。

漢の版図と戸口

  • 漢が天下を有した領域は、東西一万九千三百二里、南北一万二千三百六十八里。総面積は一億四千五百一十三万六千四百五頃。
  • 邑や住居・道路・山林・川沢・郡国で開墾できない所を除くと、定まった墾田は八百二十七万五百六十七頃。
  • 郡国は三百三十、県は千三百一十四、道は三十三、侯国は二百四十一。戸は一千二十三万三千六百一十二、口は五千六百五十九万四千九百九十八人。これは国家が強盛であった時のものである。