匈奴征討の動員
- 太史に三万六千年の暦紀を推算し直させ、六年ごとに一度改元することとして天下に布告した。
- 当時、匈奴が辺境を侵した。莽は大々的に丁男・死罪の囚人・吏民の奴を徴発し、一律に吏民から三十分の一を取り立てた。
- 技術のある者を募り、序列によらぬ地位で処遇するとした。便宜を上言する者は万を数えた。
- ある者は、舟も楫も使わずに水を渡り、馬を連ね車をつないで百万の軍を渡せると言った。ある者は、一斗の蓄えも持たず薬物を食べさせて馬を飢えさせないと言った。ある者は、飛んで一日千里を行けると言った。
- 莽はそのつど試させた。大鳥の羽根で翼を作り、頭も体も羽で覆い、環と鈕で全体をつないだが、数百歩飛んですぐ墜ちた。莽は使えないと知りながら、その評判だけは得ようとして、いずれにも大将軍を拝し車馬を賜って待詔とした。
- 大司馬武建伯の厳尤と将軍の廉丹を派遣して匈奴を撃たせ、いずれにも王の姓を賜った。全部で十三部の将、四十万の兵、三百日分の兵糧を携え、同時に一斉に塞を出て匈奴を追い、丁零の地へ追い込み、その地を分けて呼韓邪の十五人の子を立てようとした。
厳尤の諫言
- 厳尤が諫めて言った。
- 匈奴の害は久しい。周・秦・漢はいずれもこれを征したが、上策を得た者はない。周は中策を得、漢は下策を得、秦は無策であった。
- 周の宣王の時、玁狁が内に侵したので将に命じて駆逐させ、境まで追って引き返した。夷狄の侵入を蚊や虻の害のように見て追い払うだけにとどめた。ゆえに天下はこれを明とした。これが中策である。
- 漢の武帝は将を選び兵を練り、兵糧を携えて深く攻め入った。勝ち取る功はあったが、胡はそのつど報復した。兵は連なり禍は結ばれること四十余年、中国は疲れ果て、匈奴もまた懲りた。しかし天下はこれを武とした。これが下策である。
- 始皇は小さな憤りを抑えられず民力を軽んじ、長城の固めを広げて万里に延ばした。輸送は海に臨む地から始まり、国境は定まらぬまま中国は内から尽き、社稷を失った。これが無策である。
- 今、天下は陽九の厄に遭い、年々飢饉が続き、北辺はとくにひどい。今、四十万の兵を発して三百日分の兵糧を携えるには、東は海岱に拠り南は江淮から徴して、はじめて備えられる。その道のりを計れば一年でもまだ集まらない。先に着いた兵は集まって野宿し、軍は老い武器は朽ちて、使い物にならない。これが第一の難である。
- 辺境の城は空虚で軍糧を供給できない。内地の郡国から調達させても間に合わない。これが第二の難である。
- 一人が三百日食べるには米十八斛を要し、牛の力でなければ運べない。牛もまた自分の飼料を負わねばならず、さらに二十四斛が加わって重くなる。胡の地は砂と塩分が多く水草に乏しい。過去の例から推せば、軍が出て百日たたぬうちに牛は必ず死に絶える。しかも残る兵糧はなお多く、人では担いきれない。これが第三の難である。
- 秋冬は甚だ寒く、春夏は風が多い。釜や薪炭を携えるのは重くて堪えられない。乾飯を食べ水を飲んで四季を過ごせば、軍には疫病の憂いがある。勢いとして長くは続かない。これが第四の難である。
- 輜重を伴えば軽装精鋭の兵は少なくなり、速く進めない。虜はまっすぐ逃げ去り、追いつけない。運よく虜に遭っても輜重が足かせとなる。険阻な地では尾を銜えるように一列で進むほかなく、虜に前後を遮られれば危険は計り知れない。これが第五の難である。
- 大いに民力を用いても功は必ず立つとは限らない。臣は伏してこれを憂える、と。
- 莽は聞き入れなかった。尤はさらに、古の名将である楽毅・白起が用いられなかった趣旨と、辺境の事情を説く文を引き、合わせて三篇を著した。
- 出師にあたっての朝議で、尤は固く争い、まず山東を憂えるべきだと言った。莽は怒り、策命して尤を庶人とし、董忠を代わりに据えた。
田況の爵と韓博の獄
- 軍は長く屯営したまま出発せず、輸送は絶えず続き、天下は騒然となった。
- 翼平連率の田況が、民の資産の申告が実情に合っていないと奏言した。莽は再び三十分の一税とし、田況は忠言して国を憂えたとして爵を伯に進めた。人々はみなこれを罵った。
- 夙夜連率の韓博が上言した。奇士の巨母霸という者がいる。身の丈一丈六尺、太さ九囲。臣の役所に来て、匈奴を奮って撃ちたいと言った。蓬萊の東南、五城の西北から出た者である。軺車では支えきれないので、大車に四頭立てで霸を載せて闕へ参らせる。願わくは陛下は大きな椅子と高い車、賁育のような衣を作り、大将軍一人と虎賁百人を遣わして道中で迎えられよ。京師の門で通れないものは高く開かれよ。これで百蛮に示したい、と。
- これは莽をあてこする意図であった。莽は聞いて憎み、霸を新豊に留め、その姓を「巨母霸」と改めさせた。文太后にかこつけた覇王の符だと言われたからである。韓博は言うべきでないことを言ったとして棄市となった。