前漢紀前漢孝成皇帝紀四 二年 前7年

春 翟方進の死と災異

  • 春正月、甘泉宮に行幸し泰畤を郊祀した。
  • 二月壬子、丞相の翟方進が薨じた。このとき熒惑が心宿に留まり、占う者は大臣がこれに応じて災異を塞ぐべきだとした。天子は方進を召してそれを告げ、方進はやむなく自殺した。天子はこれを伏せ、贈物の礼を厚くし、自ら喪に臨み、天下に赦を行った。
  • 大水があった。平襄県では燕が雀を生み、餌を与えて育て、大きくなるとともに飛び去った。太僕の厩の馬に角が生え、左耳の前に、周囲も長さもそれぞれ一寸八分であった。
  • 河東に行幸し后土を祠った。

三月 成帝崩御

  • 三月丙午、帝が未央宮で崩じた。天子はもともと壮健で病もなかったが、明け方に起きようとして声が出ず物が言えなくなり、昼漏十刻に崩じた。
  • 人々は皆その罪を趙昭儀に帰し、昭儀は自殺した。
  • 富平侯の張放はかねて親しく寵を受けていたが、法度を守らなかった。太后と大臣が意見したので、天子は涙を流しながら彼を封国へ帰らせた。天子が崩ずると、張放は慕い悲しんで泣き暮らし、そのまま没した。

史論(荀恱曰)

  • 張放は天子を愛していなかったわけではない。ただそこに忠がなかった。愛していながら忠でない者は、人にとっての害である。

葬送と祭祀の復旧

  • 天子が崩じ、辟雍はついに建たなかった。
  • 左将軍の孔光を丞相とした。
  • 皇太后が詔した。皇帝の即位以来、郊祀を定めてからも皇子が生まれなかったので、甘泉の泰畤・汾陰の后土の祠を復した。しかし結局福を得られなかった。長安の南郊・北郊を以前のとおりに復せ、と。
  • 夏四月己卯、皇帝を延陵に葬った。崩御から埋葬まで三十四日。延陵は扶風にあり、長安から六十二里の距離である。

史論(讃曰)

  • 本紀は孝成帝について、身なりと立ち居振る舞いをよく整え、車に乗れば正しく立って後ろを振り返らず、早口で語らず、みだりに指さしをせず、朝廷に臨めば深く黙して尊厳は神のごとくであった、と称している。まことに穆やかな天子の容貌といえる。
  • 古今に広く通じ、直言をよく受け入れ、公卿は職責にかない、威儀は語るに足るものであった。世は太平の時に当たり上下は和睦した。
  • しかし酒色に溺れ、趙氏が内で乱れを起こし、外戚が朝政をほしいままにした。語れば胸がふさがる思いである。
  • 建始以後、王氏が国政の命脈を握りはじめ、哀帝・平帝に至ってついに王莽が位を簒った。その権勢の由来は次第に積み重なったものであった。
  • 劉向・朱雲の忠言は明白であった。もしそれを取り上げて用いていたなら、王朝の福は絶えなかったであろう。張禹は直言を吐かず、へつらった。(原文はここで途切れている)