前漢紀前漢孝成皇帝紀四 綏和元年 前8年

春 太子の擁立をめぐる議論

  • 春正月、天下に赦を行った。
  • 二月戊午、御史大夫の孔光を廷尉に落とし、廷尉の何武を御史大夫とした。癸丑、定陶王の欣を太子に立て、光禄(大夫)の師丹を太子太傅とした。
  • もともと定陶王の祖母の傅太后がひそかに王のために漢の後継の座を求め、内々に趙皇后と昭儀に取り入り、帝の外舅である王根もそろって定陶王の擁立を勧めた。
  • そこで大臣を禁中に召して議論させた。丞相の翟方進・大司馬の王根・右将軍の廉褒・後将軍の朱博はいずれも、定陶王は帝の弟の子であり、礼に「兄弟の子は我が子と同じ」「その後を継ぐ者はその子となる」とあるから、定陶王が嗣ぐべきだとした。
  • 孔光はこれを礼に反するとし、後嗣は血縁の近さで立てるものであり、中山王は先帝の子で帝の実の弟である、尚書盤庚の「弟が及ぐ」例に照らせば中山王が嗣ぐべきだとした。
  • 天子は、礼では兄弟は互いの廟に入らぬとし、また皇后・昭儀の口添えもあって、ついに定陶王を立てた。孔光は議論が天子の意に沿わなかったので廷尉に左遷された。

史論(荀恱曰)

  • 聖人が制度を立てるのは必ず定める所があってのことで、争いを防ぎ、継承の序列を一つにするためである。
  • 春秋の義では「嫡子は年長をもって立て、庶子は母の貴きをもって立てる」という。ゆえに嫡には二つがなく、貴には一定の基準がある。弟が兄を継げば貴の基準は一定である。
  • 兄弟の子は一人ではないので基準にできない。その中の年長を立てても、なお正統ではない。
  • そもそも兄弟は関係が近く親しく、父の後を継ぐ筋にある。兄弟の子は疎くて卑しく、絶えた家を承ける筋にすぎない。どちらも正統でないというなら、親しきを捨てて疎きを取り、父の世代を飛ばして子の世代を立てるのは順序に反する。弟が父(兄)を継ぐ方が義に近い。
  • 春秋伝には「太子が亡ければ同母弟を立て、それも無ければ年長を立てる。条件が並べば順序で決め、義が並べば卜で決める」とある。

封建と三公の設置

  • 楚孝王の孫の景を定陶王に立てた。中山王の外舅の馮参を宜郷侯に封じ、中山王に三万戸を加増して王の心を慰めた。
  • 詔して殷の後裔を求め、孔吉を殷紹嘉侯に封じた。三月、爵を進めて公とし、周承休侯も公として、それぞれに食邑を与えた。
  • 雍に行幸し五畤を祠った。
  • 夏四月乙丑、大司馬驃騎将軍の王根を大司馬とし、車騎大将軍の官を廃した。御史大夫の何武を大司空に改めて汜郷侯に封じた。大司馬・大司空の位と俸秩を丞相と同格に引き上げた。これが三公である。
  • これに先立ち、何武は廷尉のときに上奏していた。王者は天に法り、天に三光が備わるように三公の官がそれぞれ職を分かつべきである。今は丞相が独りで三公の職を兼ねているので、長らく政が滞って治まらない。三公の官を建てて職を分掌させ、改めて任じて功績考課の基準とすべきである、と。ここに至ってそれが実現した。

何武の人物

  • 何武は蜀郡郫の人。仁厚で人材の推挙を好み、徒党を組まず口利きの依頼を断った。州郡に赴任しても目立った名声は立たなかったが、去った後に必ず慕われた。
  • はじめ何武の兄弟五人はみな官吏となり郡県から敬われた。弟の顕の家が市籍を持ち、たびたび税の納入を滞らせた。市嗇夫の仇商が顕の家の者を捕らえて辱めた。顕は怒ったが、何武は、わが家の租税が人に先んじて納められていない以上、公務に忠実な吏として当然のことだ、と言い、太守に申し出て仇商を召して吏に取り立てた。土地の人々は感服した。
  • 三公となってからの功名はおおむね薛宣に比せられたが、才は及ばず、経学と正直さでは勝っていた。

何並の治績

  • 当時、司空掾であった平陽の何並、字は子廉。何武はその志節を高く買い、推挙して長陵令とした。任地では落ちているものを拾う者もない治まりようであった。
  • 当時、卭城太后の家が寵を得て権勢を誇り、王林卿は侍中となって侠客と通じ京師を席巻していた。免官されて帰る途中、長陵を通って墓参りし数日逗留した。何並は法を犯すことを恐れ、自ら門を訪ねて挨拶し、頃合いを見てお帰りいただきたいと告げた。
  • 以前、林卿は人を殺して墓の小屋の下に埋めていた。何並はひそかにそれを知っていたが、自分の在任中の事件ではないので摘発しなかった。
  • 林卿は何並を恨み、送り出されて北へ渭橋を渡ると、騎馬の奴僕を引き返させ、刀を抜いて役所の門の太鼓を剥ぎ取らせた。
  • 何並はただちに吏卒を率いて林卿を追い、数十里行った。林卿は追い詰められ、奴僕に自分の冠をかぶらせ、自身は間道から逃げ去った。追いついて冠をかぶった奴僕を捕らえた。奴僕は、私はただの奴僕です、と言った。
  • 何並は林卿を取り逃したと悟り、そこで、王君は困って奴僕を名乗れば死を免れられると思ったか、と言い、奴僕の首を斬り、剥ぎ取られた太鼓とともに都亭の下に晒し、その罪状を書き記した。役人たちは驚き、林卿が本当に死んだものと思った。これによって何並の威名は広まった。
  • 後に潁川太守となった。潁川の鍾元は尚書令として廷尉を兼ね、権勢を振るっていた。その弟の威は郡掾で罪を犯し、不正な蓄財は千金に上った。何並が赴任の挨拶に廷尉を訪ねると、廷尉は弟のために冠を脱いで罪を一等減ずるよう願った。何並は、罪はその身にあるのであり、あなたと弟御の間柄は法律の外のこと、太守の裁量にはない、と答えた。
  • 郡に着くと、威の犯した罪の多くは赦の前のものであった。何並は吏に命じて威を函谷関の内へ追い出させ、民間を汚させないようにし、関に入らなければ捕らえるとした。威は洛陽に留まり、吏はついに彼を撃ち殺した。
  • 侠客の趙季・李□らを誅すると郡中は清らかに引き締まった。何並は清廉で妻子を任地に呼ばず、潁川で生涯を終えた。遺言して香典を受けず、外棺は棺を収めるだけ、棺は遺骸を覆うだけで足りるとさせた。その治績の評判は黄覇に次ぐものであった。

秋冬 淳于長の獄と王莽の登場

  • 秋八月庚戌、中山王の興が薨じた。
  • 冬十月甲寅、大司馬の王根が病で職を免じられた。
  • 十一月、楚孝王の孫の景を定陶王に立てた。
  • 定陵侯の淳于長が大逆不道の罪で獄に下り死んだ。
  • 淳于長は廃された許后の姉の孊と密通していた。許后は孊を通じて長に賄賂を送り、再び婕妤に復することを求めた。長は許后から金銭や天子の車馬・服飾の類を前後合わせて千余万受け取り、天子に申し上げて左右の皇后に立てようなどと偽った。孊が長信宮に入るたび、長は孊に手紙を渡して許后をからかい侮り、いい加減な調子で言わぬことはなかった。手紙のやり取りと賄賂は数年に及んだ。
  • 曲陽侯の王根が輔政していたが長患いで免じられ、順序からいえば淳于長が王根の後を継ぐはずであった。王莽は長の寵を目障りに思い、王根に、長は許貴人の姉とひそかに通じてその衣服を受け取り、また将軍の長患いを見て内心喜び、人と後任人事を語らって官を割り振っている、と告げた。
  • 王根は怒り、王莽にこれを天子へ申し上げさせた。天子は怒って長の官を免じ、封国へ退かせた。
  • 長はもとより涇陽侯の王立と不仲だったが、封国へ退くにあたり、立の子の融を通じて立に厚く賄賂した。立は長のために強く弁護した。天子は疑い、有司に下して取り調べさせた。吏が融を捕らえると、立は融を自殺させて口を封じた。天子はいよいよ疑い、ついに長を護送して獄に繋ぎ、罪を徹底して糾明した。長は長信宮を戯れ侮ったこと、左皇后を立てようと謀ったことを自白した。
  • 長は獄中で死に、妻子は合浦へ流された。長の母は故郷に帰され、王立は封国へ帰された。許貴人は薬を賜って死んだ。
  • 侍中光禄大夫の王莽は大悪を最初に暴いた功で大司馬に任じられた。ときに三十八歳。
  • 王莽は同輩の中から抜け出て、四人の伯叔父に続いて輔政の任に就き、名声を先任者たちより高めようとした。私欲を抑えて労を厭わず、賢良の士を招き、賞賜も食邑の収入もすべて士に振る舞い、身は謙虚で質素を通した。
  • 母が病むと公卿列侯が夫人を遣わして見舞わせた。王莽の妻が出迎えたが、衣は裾を引かず、布の膝掛けを着けていたので、見た者は召使いだと思った。人に尋ねてはじめて夫人と知った。名声を飾ることこのような具合であった。
  • 十二月、刺史を廃して州牧を置き、秩を二千石とした。

是歳 劉向、辟雍の設置を説く

  • この年、犍為で石磬十六枚が出土した。議する者はめでたい瑞祥とした。
  • 劉向は天子に説いた。辟雍を設け礼楽を並べて天下を教化すべきである。十分に整えられなくとも、礼楽は人を養うのを本とする。行き過ぎがあってもそれは人を養う側の過ちである。刑罰の過ちは人を死なせることさえある。
  • 今の礼楽は堯舜の典刑でも咎繇の法則でもないが、それでも有司は刑罰の制定を願い出る一方、礼楽については恐れ多いと言って手をつけない。これは人を殺すことには踏み切って人を養うことには踏み切らぬのと同じである。
  • 刑罰があって礼楽がないのは大きな不備である。祭器や管絃の細部が整わぬという小さな不備を理由に、まるごとやめてしまうのは、小さな不備を避けて大きな不備に落ち込むことである。
  • 教化と刑罰を比べれば教化が重く刑罰は軽い。重い方を捨てて軽い方を急ぐことになる。しかも教化こそ政治の頼みであり、刑罰はそれを助けるものにすぎない。今、本体を廃して助けだけを立てるのでは、太平を治める道ではない。
  • 千年にわたって衰えた周を承け、道理を失った秦の余波を継いだために、民は悪しき習俗に染まって大いなる教化に親しまない。このままでは改まることはない、と。
  • 天子は劉向の言を公卿に下して辟雍を建てさせた。ちょうど劉向が病で没した。丞相と大司空が長安城の南に標杭を立てて辟雍を営もうとしたが、着工には至らなかった。