春正月 城門の異変
- 春正月、長安の章城門の閂(牡)がひとりでに失せ、函谷関でも同じことが起きた。
- 谷永が答えて言うには、章城門は天子の寝所に通じる門、函谷関は山東の要害を扼する関であり、どちらも国を守り固める要である。その固めが去ろうとしているからこそ閂が自ら飛び去ったのだ、とした。
- 王商が再び大司馬衛将軍となった。
三月〜四月 行幸と天変
- 三月、雍に行幸して五畤を祀った。
- 四月、空は晴れわたって雲一つないのに雷のような轟音が響き、流星が現れた。頭は瓶のようで長さ十余丈、赤白に輝いて日の下から東南へ走った。四方には杵ほどの大きさのもの、鶏卵ほどのものが光りながら雨のように降り、晡(夕方)から日暮れまで続いてやんだ。
- 志の解釈では、隕星が雨のように降るのは王者が勢いを失い、諸侯が起こって覇を称える異変とされる。
- 天下に赦を行った。
秋七月 谷永の上奏
- 秋七月、東井の宿に彗星(星孛)が現れた。
- このとき谷永は北地太守となって任地へ赴くところであった。天子は使者を遣わして意見を求め、谷永はこう答えた。
- 天は民を生んだが民は自ら治まれないので王者を立てて統べさせた。天下を制するのは天子のためではなく、土地を分けて諸侯を封ずるのも諸侯のためではなく、すべて民のためである。三統を垂れ三正を並べ、無道を退けて有徳を開くのであって、天下は一人の天下ではない。
- 陛下は八世の功業を受け継いだが、時運は陽九の末、三七の節目にかかり、無妄の卦運に当たり、六百年の厄会に行き当たっている。そこへ災異が重なり飢饉が続く。
- 内には後宮の奥深くに驕った臣・凶暴な妾がいて、酒に酔い狂って突発的な破滅を招きかねない。外には天下の地方に樊並・蘇令のような騒乱、さらには陳勝・項籍のような禍が潜む。これこそ臣が陛下のために肝をつぶし心を凍らせる理由である。
- 願わくは君臣の義を正し、へつらいなれなれしい小人どもを退け、後宮の綱紀を立て直し、嫉妬深い者への寵を遠ざけ、しとやかで従順な者を近づけ、失意の人に恵みを施し、恨みを抱く士を懐柔されよ。至尊の重みを保ち帝王の威を用い、朝見の際は法駕を整えてから出御し、兵を並べ道を清めてから行幸されよ。諸宮の出費を削り、恩沢を広く施し、民の苦しみを問い、風俗を巡察し、聖徳を宣べて民の心を慰め、大悪の付け入る隙を塞がれよ。
- まごころが天に通じれば異変も禍も消え去る。何を憂えることがあろう。恐らくは陛下が公のための志に徹しきれず、私の好みをなお残しておられるために、それをなさらないだけではないか。
- 天子はその言葉に深く感じ入り、谷永を呼び戻して大司農とした。だが谷永は結局は王氏に与しつづけ、発言は常に王氏の意を損なわぬようにし、もっぱら天子自身の行いと後宮のことだけを正すにとどまった。
四月 劉向の上奏(天文の考証)
- 四月、光禄大夫の劉向が上奏した。易に「天文を観て時の変を察す」とある、として歴代の天変と王朝の帰趨を照らし合わせた。
- 秦の始皇の末から二世の初めにかけては、日月が薄れ蝕け、山陵が崩れ落ち、星辰が四孟に現れ、太白が二度天を横切り、雲もないのに雷が鳴り、枉矢が夜に光り、熒惑が月を襲い、怪火が宮を焼き、野の鳥が庭で遊び、都の門が内側から崩れ、大人が臨洮に現れ、長星が大角に彗星となって現れた。そして秦の民は滅んだ。項籍が敗れたときもまた大角に彗星が出た。
- 漢が秦に入ったとき五星が東井に集まったのは、天下を得る象であった。
- 季夏に血の雨が降り、日蝕が衝の位置で起こり、光を失う星が現れた異変は孝昭の代のこと。太山の横たわる石がひとりでに立ち、上林苑で倒れた柳が再び起き上がり、月のような大星が西へ行き衆星がそれに従ったのは、とくに際立った異変で、孝宣が興起する前触れであった。
- 天狗星が天の川を挟んで西へ行き、二十余日も雨が降らなかったのは、昌邑王が位を全うできぬ兆であった。
- 秦から漢への交替、恵帝・昭帝に後嗣が絶えたこと、昌邑の不首尾、孝宣の後を継いでの興起を並べて見れば、天が誰を去り誰に就くかは明白ではないか。
- いま日蝕が奎・婁に起こり、彗星が東井に現れ、摂提の炎は紫宮にまで及んでいる。見識ある長老で震え上がらぬ者はない。これは大きな変である。
- 今や同姓の宗室は疎んじられて頼るところなく、政治と俸禄は公室を離れ、権は外戚の家にある。これでは漢の宗室を強くし社稷を守り、後嗣を安泰にする道ではない。
- 事柄は一つ二つと書き尽くせないので、図を作って献上するが、なお口頭の説明を要する。人払いした席を賜れば図を指しながら申し述べたい、と。
- 天子はこれを受け入れはしたが、結局用いることはできなかった。
劉向の封事(王氏の専横を諫める)
- このとき天子には後継ぎがなく、災異が次第に頻発した。劉向は陳陽に語った。災異がこれほどなのに外戚の家は日に日に盛んで、この趨勢では必ず劉氏を危うくする。自分は幸いにも同姓の末流、代々国家の厚恩を受け、身は宗室の遺老として三代の王に仕えてきた。天子は自分を先帝の旧臣として厚遇してくださっている。自分が言わずに誰が言うのか、と。
- そこで封事を上った。その論旨は次のとおり。
- 君主で安泰を望まぬ者はないのに常に危うく、存続を望まぬ者はないのに常に滅ぶ。それは臣下を御する術を失うからである。
- いま王氏一族だけで朱塗りの車輪・飾り轂の車に乗る者が二十三人、高位の印綬や貂蟬の冠が天下に満ち、魚の鱗のように天子の左右を埋めている。大将軍が政務を握って権を振るい、五侯は驕り高ぶって身分を越え、そろって恩威をほしいままにし、出入りに命令の裁可を待たず、独断で処断している。
- 尚書・九卿・州牧・郡守はみなその門から出た者で、政治の要を握り、徒党を組んで互いをかばう。汚れた行いをしながら政治を託され、私を図りながら公にかこつける。褒めそやす者は登用され、逆らって恨まれた者は中傷される。遊説の徒がその説を唱え、執政者がその言葉を代弁する。
- 宗室を排斥して公族を孤立させ弱め、しばしば燕王・蓋主の例を持ち出して天子の心に疑いを植え、呂氏・霍氏の例は忌み避けて口にしない。内には管叔・蔡叔の芽を宿しながら、外には周公の名分を借りている。兄弟が要職に拠り宗族が根を張って絡み合う。上古以来これに比べうる例はない。
- 物が極まれば必ず異常な変が起こり、まずかすかな兆しが現れる。いま済南にある王氏の先祖の墓では、梓の柱が枝葉を生じて枝を広げ屋根を突き抜け、根は地中に張っている。孝昭の代の石が立ち柳が起きた異変も、この明白さには及ばない。
- 事の勢いは二つながら大きくはなれない。劉氏と王氏も並び立たない。陛下は人の子孫として宗廟を守る身でありながら、国の命脈を外戚に移し、みずからは下僕の身分に降ろうとされるのか。わが身を思わぬとしても宗廟をどうなさるのか。婦人は嫁ぎ先を外、実家を内とするものだが、それは皇太后にとってもけっして福ではない。
- 明察な者は形のないうちに福を起こし、事の起こる前に禍を消す。明詔を発して徳ある言葉を下し、宗室を身近に引き立て、外戚は退けてみな職を辞し邸に退かせるべきである。そうすれば王氏は末永く爵位を保ち、劉氏は長く安んじて社稷を失わない。これこそ内外を和ませ、子々孫々にわたる限りない計である。
- これを行わなければ、田氏の簒奪が今に再現し、六卿の分割が漢に再現する。深く図り早く慮らねばならない。機密の事は漏れれば害をなす。
- 奏が届くと天子は劉向を召して会い、悲嘆して「君よ、しばらく休むがよい。私はよく考えよう」と言い、劉向を中壘校尉とした。天子は九卿に用いようとしたが、そのたび王氏に阻まれ、在位の大臣に抑えられて、ついに高位に昇ることなく終わった。前後四十余年、七十二歳で没した。劉向の死から十三年後に王氏が位を簒った。
絶えた功臣の家を継がせる
- 蕭何(蕭相国)の子孫の喜を鄼侯に封じた。このとき社業が、絶えた列侯の家を継がせるべきことを天子に説いた。
- その論はこうである。昔、堯・舜は万方を協和させて和やかな政を致し、虞・夏は多くの諸侯が恭しく従う治を得た。湯は三聖にならい殷の民は太平を得た。周は八百の国を封じ、幾重にも通訳を重ねて遠国が貢を献じた。
- ゆえに思いやり深い君主は絶えた家を継がせるのを楽しみ、高名を残す主は滅んだ国を存続させる。武王は紂を伐つと車を降りるのも待たず先王の後を封じた。その徳の思いは深い。
- 成王は牧野の勝利をかえりみ諸侯の勤労を思い、その恩が民心に結ばれ功が府庫に輝くことを知って、亡父の志を継ぎ功臣の献策を記録に留め、位を高くし領邑を大きくし、敬愛をもって励まし、賜与を手厚く備えるよう命じた。大いなる孝の隆盛はここに極まる。
- 後世の聖主もその功を讃え、民で慕わぬ者はなかった。かつて憩った木すら伐らぬのだから、まして旧勲の家はなおさらである。だからこそ燕・斉の後は周と並んで伝わり、子が継ぎ弟が継ぎ、年を重ねても絶えなかった。邪な者がいなかったわけではないが、祖宗が力を尽くしたゆえに傍系までもがその恩に頼れたのである。
- 漢初の功臣も皆、割符を分かち山河にかけた誓いを受けた。それが百余年のうちに絶え、姓すら失い、白骨は墓に打ち捨てられ、末裔は路頭に流れて絶えた。往時に比べ今の有様は甚だ痛ましい。すべてを継がせるのは難しくとも、功の大きい家は取り立てるべきである。
- こうして蕭何の子孫が封ぜられた。ただしその他の家は取り上げられなかった。
冬十一月 大司馬の交代
- 冬十一月乙未、大司馬の王商を大将軍とした。辛亥、王商が薨じた。庚申、王根を大司馬驃騎将軍とした。
張禹と王根
- 張禹は光禄大夫・特進として在宅のまま天子の師となり、深く親任されていた。禹は年老いて自らの墓所を営み、平陵の肥牛亭の地を願い出た。天子はこれを許し、亭を他所へ移した。
- 王根がこれを聞いて争った。この地は平陵の寝廟から衣冠が出遊する場所に当たり、また旧亭を移し壊すのはよろしくない、と。天子は聞き入れなかった。
- 王根はこれ以来、禹の寵を目障りに思い、しばしばそしり憎んだ。天子はいっそう禹を敬い厚遇した。
- 禹が病むと天子は自ら見舞いに臨み、禹は床の下で拝した。禹は、自分には三男一女があり娘を息子より愛しているが、遠く嫁して張掖太守蕭咸の妻となっている、父子の情に堪えず近くに置きたい、と願い出た。天子はその日のうちに蕭咸を弘農太守に移した。
- 禹の末子はまだ官職がなく、禹がしきりにその子に目をやったので、天子は床の前で黄門侍郎・給事中に任じた。長子の閎は官が太常に至り、次子は校尉に至った。国家に大事があるたび天子は禹と方針を定めた。
- 当時、官吏や民が多く上書して災異を論じ、王氏を遠回しに責めた。天子も内心はそうだと思ったが、それを明らかにする手立てがなかった。
- そこで天子は車駕で禹の家を訪ね、左右を退けて、天変のことと民の言う王氏のことを禹に問うた。
- 禹は、自分が年老い子孫は幼弱で、しかも曲陽侯王根と確執があり害されることを恐れて、こう答えた。災異の事は奥深く見きわめ難い。だから聖人も天命・人の性と天道はめったに語らず、子貢すら聞くことができなかった。陛下は善政をもってこれに応え、天下と福慶を共にされるがよい。それが経義の趣旨である。浅はかな俗儒が道を乱し人を誤らせるので、信用なさるべきではない、と。
- 天子はもとより禹を愛信していたので、これによって王氏を疑わなくなった。曲陽侯をはじめ王氏の子弟は禹の発言を聞いて皆喜び、以後禹に親しんだ。
朱雲、張禹の誅を求める
- 元魯国博士の朱雲が上書して謁見を求め、公卿の居並ぶ前でこう述べた。朝廷の大臣はみな禄を盗み無駄飯を食らっている。尚方の斬馬剣を賜り、佞臣一人の首を斬って残りを戒めたい、と。
- 天子が誰かと問うと、安昌侯張禹と答えた。天子は激怒し、下位の小臣が上をそしり、朝廷で師傅を辱めた、死罪であって赦さぬ、と言った。
- 御史が朱雲を引き下ろそうとすると、雲は欄干にすがりつき欄干が折れた。雲は「臣は地下に降って龍逢・比干と交わればそれで十分。ただ聖上がどのような主となられるか分からぬだけだ」と言った。
- 御史が雲を引き立てようとしたとき、左将軍の辛慶忌(辛武賢の子)が冠を脱ぎ印綬を解いて殿下に叩頭し、この者はもとより狂直の名を世に知られた男である、その言が正しければ誅してはならず、誤りであってももとより容れるべきだ、臣は死をもって争う、と言い、額から血が流れるまで叩頭した。天子の怒りはそこで解けた。
- 後に欄干を修理しようとしたとき、天子は取り替えるなと命じ、折れたまま継がせて直臣を顕彰する印とした。
- はじめ元帝の時代、五鹿充宗は石顕とともに寵愛を受け、梁丘氏の易を修めていた。帝が易の諸家に異同を検討させたとき、充宗は権勢と弁舌を頼みとし、儒者たちは誰も対抗できず、皆病と称して出席しなかった。
- 朱雲が易を論じられると推薦する者があり、雲は裾をからげて堂に上がり、声を張って論を挑んだ。その声は左右を動かした。論じ合うと充宗をやり込めた。
- 儒者たちは「五鹿は角高く聳えるが、朱雲がその角を折った」と言い合った。これによって朱雲は博士となり、杜陵令・槐里令となった。しかし貴戚に逆らったため病と称して免ぜられ、そのまま家で生涯を終えた。
是歳 趙昭儀、皇子を害す
- この年、趙婕妤(昭儀)が後宮の生んだ子を害した。
- 許美人が男子を生んだとき、婕妤は激怒し、帝はいつも私に、後宮のもとへは通わぬと言ったのに、許美人の子はどこから生まれたのか、と言い、自ら手で身を打ち、頭を壁や戸柱に打ちつけ、寝台から床に身を投げ、泣いて食を絶った。天子もそのために食を絶った。
- 昭儀が、陛下はいつも私に背かぬと仰せだったのに今ついに約束に背いた、どうするのか、と迫ると、天子は、天下に趙氏の上に立つ者は置かぬ、心配するな、と答えた。
- 後に中黄門の靳厳に緑の袋に入れた封書を許美人へ届けさせ、その子を殺して葦の箱に納め封をした。昭儀と天子はともにそれを検め、また封をして掖庭丞の籍武に詔し、人目につかぬ所に埋めさせた。籍武はこれを受け取り獄の垣の下に埋めた。
- また宮中の学女史であった曹才官が寵を受けて身ごもり、掖庭の才官令の宿舎で子を生んだ。中黄門の田閎に詔記を持たせ、籍武に、才官令の宿舎の女の新生児と婢六人をすべて暴室の獄に入れさせ、男女いずれか誰の子かも問わせなかった。籍武は迎えて獄に置いた。
- 三日して再び田閎に詔で、子は死んだかと問わせた。籍武はまだですと答えた。しばらくして田閎が退出すると、天子と昭儀は激怒し、なぜ殺さぬのかと責めた。
- 籍武は叩頭して泣き、田閎を通じて封事を奏した。陛下にはまだ後嗣がない。子に貴賤の別はなく、いずれにも心を留めるべきです、と。
- 奏が届くと、天子は田閎に詔を持たせ、夜の上水五刻に子を中黄門の王舜に渡し掖門で落ち合え、と命じた。籍武は子を王舜に託した。王舜は詔を受けて子を殿中に入れ、乳母を選び、よく養い育て、他に漏らすなと言い含めた。子は生まれて八、九日であった。
- 昭儀がこれを聞いて激怒した。三日後、詔して曹才官に薬を賜い自殺させた。才官は、私の子は男子で、額に壮髪があり孝元帝に似ている、今その子はどこにいるのか、どうして長信宮(太后)の耳に入れられよう、と言い、薬を飲んで死んだ。婢六人も皆自殺した。
- 十余日後、詔があって子は連れ去られた。その後どこに置かれたのかは分からない。