前漢紀前漢孝成皇帝紀三 永始三年 前14年

郊祀の復旧と谷永の諫言

  • 春正月乙卯晦、日食があった。
  • 夏、大旱。
  • 冬十一月、甘泉の泰畤、汾陰の后土、雍の五畤、陳倉の宝鶏祠を復した。帝は久しく継嗣がないことからこれを復したのである。
  • 帝はかなり鬼神を好み、四方から祭祀や方術のことを上書する者が多かった。谷永が説いた。天地の性に明るい者は怪や神で惑わせられず、万物の情を知る者は非類で欺けません。およそ仁義の正道によらず、五経の法言を尊ばずに、奇怪な鬼神を称し、祭祀の方術を広く崇め、報応や福なき祀りを求め、世に仙人があって不死の薬を服し、変化の術があるなどと言うのは、みな姦人が衆を惑わすもので、邪道を挟み詐偽を懐いて世の主を欺くものです。その辞は洋々と耳に満ちて手が届きそうに聞こえますが、求めれば漠として風を繋ぎ影を捕らえるようで、ついに得られません。だから明王は拒んで聴かず、聖人は絶って語らなかったのです。
  • 昔、周の萇弘は鬼神の道で霊王を尊くしようとして周室はいよいよ衰え、萇弘は死にました。楚の懐王は祭祀を盛んにし鬼神に仕えて福を得て秦の師を退けようとしましたが、兵は破れ地は削られ身は辱められ国は危うくなりました。秦の始皇は神仙の道に心を寄せて天下は怨み叛きました。漢が興ってからも辛垣平、斉の少翁、欒大の類がみな神仙鬼神の事を語って貴寵を極めましたが、ついに髪の毛ほどの効もなく、みな誅されました。過去の跡から今を推し量られ、どうかこの類を拒み絶って、姦人につけ入る隙を与えられませんように、と。帝はその言を善しとした。

各地の反乱と尹賞

  • 十二月、尉氏の男子である樊並ら十三人が陳留太守を殺し、吏民を劫掠して将軍を自称し大逆を謀った。徒の李譚らがともに樊並らを撃ち殺し、みな列侯に封じられた。
  • 山陽の鉄官の徒である蘇令ら二百二十八人が長吏を攻め殺し、庫の兵器を奪って将軍を自称し、郡国十九を経巡って東郡太守と汝南都尉を殺した。丞相長史と御史中丞を節を持たせて派遣し追捕させた。汝南太守の厳訢が蘇令らを捕らえて斬り、大司農に遷って黄金百斤を賜った。
  • このころ帝は政事に親しまず、貴戚は驕り恣にし、賓客と交わり亡命者を匿った。長安中では徒党が吏を殺し、依頼を受けて復讐し、丸を探って合図とした。赤い丸を引けば武吏を殺し、黒い丸なら文吏を斬り、白い丸なら葬儀を担った。城中は夕暮れに煙が立ち、通行人を襲い、死傷者が道に横たわった。
  • そこで酷吏の尹賞らを選んで長安令とし、すべて臨機に処置させた。尹賞は長安の獄を整え、地を方数丈の深さに掘り、塹を槨のように作って虎穴と名づけた。吏民に長安中の軽薄な少年や不良の子弟、市籍がなく商いも生業もせずに派手な衣服を着ている者を名簿に挙げさせ、数百人を得た。ある日いっせいに捕らえ、みな盗賊と通行や飲食を共にしたとして、尹賞がみずから検分し、十人に一人を残して残りはすべて虎穴に落とし、百人を一組として大石で覆った。数日たって出し、死者は役所の垣の外に埋め、姓名を記した表を立て、百日後に家族が引き取って葬れるようにした。
  • 尹賞が留めた者はみな首魁か、もと吏や良家の子で意を失って軽俠に従った者であった。そこでその罪を赦し、功を立てて償わせ、成果を挙げた者は親しく用いて手足とした。これによって賊盗は止んだが、道には嘆きの声があった。尹賞は江夏太守となったが、残虐のかどで免ぜられた。