王音の死と日食の議
- 春正月乙巳、大司馬車騎将軍の王音が薨じた。
- 二月癸未、夜、星が雨のように落ち、長さ二丈にも及んで、次々と地に至らぬうちに消えた。
- 乙酉晦、日食があった。四方では見えたが京師では見えなかった。谷永が答えて言った。賦斂が適正でないためです。四方で見えて京師で見えないのは陰が蔽っているしるしで、天の戒めは、宮室の造営を好み墳墓を大きくし、賦斂が重くなって百姓が困窮しており、禍は外にある、と告げているのです。元年の日食は京師で分かって四方で見えませんでしたが、天の戒めは、酒に沈湎して君臣の別がなく、禍は内にある、と告げていたのです、と。
人事の異動
- 三月丁酉、成都侯の王商を大司馬衛将軍とした。御史大夫が卒し、京兆尹の翟方進を御史大夫とした。
- 秋八月、翟方進は執金吾に降格された。
- 冬、東萊に黒龍が現れた。
- 十月己丑、丞相の薛宣が免ぜられた。
- 十一月壬子、光禄勲の孔光を御史大夫とした。
孔光の家系と人となり
- 孔光は字を子夏といい、孔子の十四世の孫である。孔子は伯魚鯉を生み、鯉は子思伋を生み、伋は子上白を生み、白は子家求を生み、求は子真箕を生み、箕は子羔穿を生み、穿は子慎斌を生んだ。斌は魏の相となった。慎は鮒を生み、鮒は陳渉の博士となって陳の地で死んだ。鮒の弟の子の襄は恵帝のとき博士・長沙王太傅となった。襄は忠を生み、忠は武を生み、武は延年を生み、延年は安国を生んで臨淮太守に至った。延年は霸を生んだ。
- 孔霸は字を次孺といい、元帝のとき太子太傅となった。太中大夫として太子に経を授けており、元帝が立つと師とし、関内侯の爵と食邑八百戸を賜って褒城君と号し、給事中とした。孔霸は謙退な人柄で、爵位が過分で自分の徳では堪えられないと常々言った。帝は相の位につけようとし、貢禹が卒し薛広徳が免ぜられるたびに孔霸を任じようとしたが、孔霸は三度四度と辞退した。帝はその誠を知って用いなかった。孔霸が薨じると、帝は素服で二度弔問に臨み、東園の秘器と銭帛を賜り、冊して列侯の礼で葬り、諡を列君とした。
- 孔霸は孔光を生んだ。孔光は尚書僕射となって枢機を掌ること十余年、法度を守り故事に従った。帝の問いには経法に拠って答え、帝の意に迎合せず、また強いて諫争もしなかった。それゆえ長く信任された。上奏したことがあると、その草稿を必ず削った。人主の過ちを世に示し、暴くことを忠直とするのは人臣の大罪だと考えたからである。人を推薦するときはその当人に知られることを恐れた。休沐の日、兄弟と語らっても宮中の事には触れなかった。ある人が温室の中の木は何の木かと問うても、孔光は黙って答えず、他の話に転じた。その慎重さはこのようであった。
翟方進
- 執金吾の翟方進を丞相とし、高陵侯に封じた。翟方進は字を子威といい汝南の人。はじめ府の小吏であったが、同郡の蔡父に見てもらうと、「小吏ながら封侯の骨がある。経術で進むべきだ」と言われた。そこで継母に別れを告げて京師に学びに出たが、継母はその幼さを憐れんで長安まで従い、履を織って学資を支えた。対策で甲科に合格して議郎に遷り、諸儒に称された。
- 当時の宿儒である胡常は翟方進と同じ経を修めており、陰で誹謗していた。翟方進は胡常が大講する日を見計らって門生を遣わして疑義を尋ねさせ、その説を記録させた。胡常はついに考えを改めて親しい友となった。
- のち丞相司直となった。帝に従って甘泉に行ったとき馳道の中を行ったので、司隷の陳慶が弾劾して奏し、翟方進は車馬を没収された。翟方進は陳慶のわずかな過失をうかがって弾劾し免官させた。
- 北地の浩商が義渠の長を殺したとき、丞相は司隷と掾および郡部の刺史を遣わして賊を捕らえるよう請うた。司隷の涓勲が奏して、春秋の義では王人は微者でも諸侯の上に序する、王命を尊ぶからである、いま丞相が宰士を遣わして天下を督察させ、使を奉ずる大夫が権を専らにして威を振るうのは、順逆の理にはなはだ悖る、と述べたので中止となった。翟方進はそこで涓勲のわずかな過失をうかがって弾劾し、涓勲は昌陵令に左遷された。翟方進は続けて二人の司隷を免じさせたので、朝廷は彼を憚った。勢いに乗って威を立て、世の資とするやり方はみなこの類であった。人主の微かな意向を探ってその事を成し遂げることに長けた。
- ただし翟方進の私生活は端正で、継母に篤く仕えた。丞相となったときも継母は健在で、亡くなって葬った後は三十六日で服を除いて政務に就いた。漢の相の身であるから国家の制を変えられない、と考えたからである。在位中は公正清潔で請託は通らなかったが、法の適用は深く厳しかった。
淳于長と昌陵の後始末、陳湯
- 帝は河南に行幸し、雍で五畤を祠った。侍中の淳于長に関内侯の爵と食邑千戸を賜った。
- はじめ将作大匠の解万年が昌陵の造営を奏請したが、常侍の王閎はたびたび昌陵は完成しないと言い、淳于長も同じことを言った。帝は趙皇后の擁立の功があるので淳于長を封じたく、詔して次のように述べた。常侍の王閎はさきに大司農中丞であったとき昌陵は成らないと上言した。朕は淳于長の言によって王閎の章を下し、公卿の議者はみな淳于長の策に賛同した。淳于長がまず至策を建て、王閎が大費を省いて民は安んじた。関内侯の爵と食邑千戸を賜うべきである。王閎にはさきに関内侯の爵と黄金百斤を賜っている。昌陵は廃して吏民を移さない。解万年は佞邪不忠で、赦令に遭っても京師に居るべきではない。解万年を敦煌郡に移せ、と。
- 陳湯もともに敦煌に移された。陳湯はもともと解万年と親しく、昌陵の計画にも関わっていた。また黒龍が現れたとき、ある人がひそかに陳湯に問うと、陳湯は「これは玄門が開いたということだ。主上がたびたび時ならず出入りして微行されるので、龍も時ならず現れたのだ」と答えた。このとき丞相が昌陵邑の中の家屋を廃するよう奏し、まだ裁可が下りていなかったが、陳湯は、帝は衆心に順うべきで、昌陵もまた再び人を移すことになるのを恐れる、と述べた。陳湯は言うべきでないことを言った大不敬に問われて移された。
- これより先、陳湯は康居王の侍子は王子ではないと上言したが、調べると実は王子であった。陳湯は下獄して死罪に当たったが、谷永が弁じた。楚に子玉得臣がいたので文公は席を斜めにして座り、趙に廉頗・馬服がいたので秦は井陘に兵をうかがえず、漢に郅都・魏尚がいたので匈奴は南に牧しませんでした。戦に勝つ将は重んじないわけにいきません。だから君主は鼓鼙の音を聞けば将帥の臣を思うのです。
- 陳湯はさきに西域に出て郅支の無道を憤り、王の誅が加えられないのを憂え、思慮をめぐらせ義勇を奮い、師を興して疾風のように進み、烏孫を越えてその都に至り、三重の城を屠り、郅支の首を斬って十年の辺境の恨みに報い、吏の宿恥をすすぎ、威は百蛮に振るい、武は四海に揚がりました。漢の元以来、外を征伐した将でこれほどの者はありません。
- 昔、白起は秦の将として南は郢都を抜き北は趙括を破りましたが、わずかな過ちで杜郵に死を賜り、秦の民は憐れんで涙を流さぬ者はありませんでした。いま陳湯はみずから斧鉞を執って勝ちに乗じ、千里の外で血をすすり、功を祖廟に薦め、上帝に告げました。それが言事によって罪となり、目立った悪もありません。周書に「人の功を記し、人の過ちを忘れる。これが人君たる者である」とあります。犬馬でさえ人に功があれば帷蓋の報いを加えます。まして国の功臣においてはなおさらです。陛下が鼓鼙の音を忽せにし、周書の意を察せず、帷蓋の施しを忘れられることを恐れます。愚臣の浅慮ながら、陳湯がついに吏の議に従うことになれば、百姓は秦の民のように憾みを抱き、死難の臣を励ますゆえんではありません、と。
- 帝はそこで陳湯を出し、爵位を奪って士伍とした。
- のち西域都護の段会宗が烏孫に囲まれ、諸城堡と敦煌の兵を発して自ら救いたいと上書した。大臣が数日議しても決しないので、帝は陳湯を召して会宗の奏を示した。陳湯は答えた。憂うるに足りません。胡兵は朴鈍で漢兵一人に当たりません。いまはかなり漢の技を得たと聞きますが、それでも三人で一人に当たる程度です。兵法では客は主人の倍でようやく敵し、半ばならなおさらです。いま会宗を囲む者の数は勝つに足りません。陛下はご心配なく。また兵法では軽装で一日五十里、重装で四十里です。会宗が城郭諸国の兵を発するとしても、着くころには時が過ぎており、いわゆる仇討ちの兵であって急を救う兵ではありません、と。
- 帝が「囲みは必ず解けるか」と問うと、陳湯は烏孫が寄せ集めで長くは持たないと知っていたので、「もう解けております」と答え、指を折って日を数え、「五日を出ずして吉報が届くでしょう」と言った。四日目に軍書が届き、すでに解けたと伝えた。
- 陳湯が敦煌に移されて久しく、議郎の耿育が上書して弁じた。陳湯と甘延寿は聖漢のために深く遠くに及ぶ威を揚げ、国家累年の恥をすすぎ、絶域の不羈の臣を討ち、万里の制しがたい虜を捕らえました。これに比べうる者がありましょうか。いま陳湯はぽつねんと讒言を受け、老いて敦煌に棄てられ、威名で敵を退けた臣が踵を返すや身に及び、また郅支の遺虜に笑われることになる。まことに悲しむべきです。今でも外蛮に使いする者は郅支の誅を述べて漢国の威を揚げないことはありません。人の功を借りて敵を懼れさせながら、その人の身を棄てて讒言を快とするのは、哀れではありませんか、と。天子はそこで陳湯を京師に戻した。