春の災異と王莽の封侯
- 春正月癸丑、太官の淩室が火災にあった。戊午、戻太后の園の闕が火災にあった。北海で長さ六丈・高さ一丈の大魚が四頭現れた。
- 二月、河南の郵亭で樗の木が枝を生じ、その形は人の頭のようで、眉・目・鬚はみな備わっていたが髪と耳はなかった。京房の易伝は、王者の徳が衰えて下の者が起ころうとすると木が人の形になる、という。
- 夏四月、趙婕妤の父の趙臨を陽城侯に封じた。
- 五月、舅の曼の子である侍中騎都尉の王莽を新都侯に封じた。王莽は幼くして父を失い貧しかったが、独り節を折って恭謙倹約に努め、身を慎んで学業に励んだ。平陽侯の王鳳が薨じるとき太后に託し、成都侯の王商も自分の戸邑を分けて王莽を封じたいと願い出た。当世の名士の多くも王莽のために言ったので、帝はこれを賢として封じ、光禄大夫・侍中に遷した。王莽は将相・卿大夫と交わりを結び、名士を助け、賓客に施して家に余財を残さなかった。そのため在位の者が互いに推薦し、遊説の徒がその評判を語り、虚名は日ごとに広がって、諸々の叔父たちを凌ぐに至った。
趙皇后の立后と反対の諫言
- 六月丙寅、皇后趙氏を立てた。もと長安の宮人で、のちに陽阿公主に属し、歌舞に長じて飛燕と呼ばれた。帝が微行して陽阿公主の家で見そめて喜び、その妹とともに婕妤となり、貴きこと後宮を圧した。許后が廃されたので皇后に立てようとしたが、太后はたいそう難色を示した。太后の妹の子である淳于長がたびたび往来して取りなし、太后に立てるよう勧めた。
- これより先、諫議大夫の王仁が上疏した。后妃を立てるのは王教の大本、三綱の根本であり、治道の興廃、社稷の存亡がそこから生じます。だから夏は塗山によって興り妹嬉によって亡び、殷は有娀によって興り妲己によって亡び、周は文母によって興り褒姒によって亡びました。三代の安危は後の王が鑑とすべきものです。ゆえに聖王は必ず挙措を審らかにし操行を察します。計が色に勝てば昌え、色が計に勝てば亡びます。無塩の宿瘤は天下の醜女でしたが、斉の君は計が色に勝つと見て后に立て、いずれも敵の攻めを退けて国を安んじました。いま許后は罪あって廃され、すでに過ぎた事です。であればこそ、次に立てる后妃は前とは格別に異なり、上は宗廟に奉じ、下は万民の法となる者を得るべきです。河の魴、河の鯉、斉姜、宋子と詩人が高く称えたのは、万乗の主が長く保つべきものであって、目前だけで決めるものではないからです。驪姫は晋を乱し、呉姫は趙を危うくしました。媵妾は天下の母ではなく、玩弄の相手にとどめるべきです。昔、姜后は礼を崇めて宣王は中興し、樊姫は正しく言って楚荘は覇となりました。願わくは思いを留めて察し、小臣の惓惓の心をお汲みください、と。帝は聴かずに立てた。
- 諫議大夫の劉輔が諫めた。徳ある士を選び、窈窕の女を卜して宗廟を承け神祇の心に順わせても、なお失うことを恐れるものです。いま情のままに卑賤の女を放縦に選び、天下の母としようとするのは、天を畏れず人に愧じないもので、これほどの惑いはありません。俗に「腐った木は柱にできず、卑しい人は主にできない」といいます。天も人も与しないところで、必ず禍があって福はありません。市井の者もその非を知っているのに、朝臣は一言も言おうとしません。私はひそかに心を痛めます、と。
- 帝は怒って御史に劉輔を捕らえさせ、掖庭の秘獄につないだ。群臣は理由を知らなかった。そこで左将軍の辛慶忌、右将軍の廉褒、光禄勲の師丹、太中大夫の谷永がともに上書した。諫議大夫の劉輔は先ごろ県令から求められて諫議大夫に抜擢されました。その言には必ず卓絶して切実で、聖心に当たるものがあったはずです。それが一月ほどで詔獄に下されました。小さな罪なら忍んで隠すべきであり、大きな悪なら理官に明らかにして衆と共にすべきで、掖庭の秘獄で苦しめるべきではありません。公卿は陛下が劉輔を用いてすぐさま挫き傷つけたのを見ました。人に恐れを抱かせ、正言する者がなくなるのは、有虞の聴を明らかにし徳美の風を広めるゆえんではありません、と。帝はそこで共工の獄に移し、死罪を一等減じて鬼薪の刑とし、劉輔は家で終わった。
趙昭儀と張放
- 趙皇后が立つと寵はやや衰え、その妹がひたすら寵愛を受けて昭陽舎に住んだ。中庭は朱に塗られ、壁は漆で仕上げられ、敷居はすべて銅で覆われて黄金が塗られ、階は白玉、金の釭には藍田の璧を嵌め、明珠と翡翠で飾られた。宮室ができてこのかた例のないものであった。
- はじめ謡に「燕燕、尾ははなやか。張公子、時に相見る。木門は倉琅の根。燕飛び来たりて皇孫を啄む。皇孫死して燕は矢を啄む」とあった。本志は、燕とは飛燕、木門蒼琅根とは宮門の銅の飾りで、貴くなることをいうとする。張公子とは富平侯の張放を指す。張放は張安世の孫で、父の張臨は敬武公主を娶った。張放は公主の子で聡明であり寵を得た。かつて帝と遊宴し、ともに陽阿公主の家に行って飛燕に会ったので「時に相見る」というのだ、と。
- 張放は皇后の妹を娶り、帝は帷帳を設けて甲第と乗輿の服飾を賜り、両宮の使者は冠蓋が絶えず行き交い、賜与は千万を数えた。世に「天子が嫁を娶り、皇后が娘を嫁がせる」と呼ばれ、たいそうな貴寵であった。張安世から張臨に至るまで恭倹を守り、張臨の母は殿閣に登って「呂・霍は私の戒めだ。厚いのも考えものだ」と嘆じたが、驕ったのは張放だけであった。
劉向の薄葬の上疏と昌陵の中止
- この年、昌陵はまだ完成していなかった。光禄大夫の劉向が上疏した。
- 昔、黄帝は喬山に、堯は済陰に葬られ、丘や墳はみな小さかった。舜は蒼梧に葬られて二妃は従わず、禹は会稽に葬られて畝を改めなかった。殷の湯には葬所の記録がなく、文王・武王・周公は畢に、秦の穆公は雍の祈年館の下に、樗里子は武庫に葬られ、いずれも丘や墳がない。これは聖帝明王・賢君智士が遠くを見渡し、独り無窮の計を思ったからである。その賢臣孝子も命に従って薄く葬った。これこそ君父を安んじる忠孝の極みである。
- 孔子は母を防に葬り墳の高さは四尺、雨に遭って崩れた。延陵季子が斉に行って帰る途中、子が死ぬと嬴と博の間に葬り、そのときの服のまま殮め、墳を封じて穴を掩い、その高さは身を隠す程度で、「骨肉は土に帰る。命である。魂気は行かないところがない」と号した。孔子は「延陵季子は礼にかなった」と言った。仲尼は孝子、延陵は慈父、舜・禹は忠臣、周公は悌弟だが、その君や親を葬るのはみな薄かった。かりそめに倹約したのではなく、まことに礼にかなっていたのである。
- 呉の闔閭は礼に背いて厚く葬り、十余年で越に暴かれた。秦の恵文・武・昭・荘襄はみな丘壟を大きくし副葬を多くしたが、ことごとく発掘されて曝された。悲しむべきことである。
- 秦の始皇帝は驪山の麓に葬られ、下は三泉を塞ぎ、上は山陵をなして墳の高さ五十余丈、周囲五里、棺槨の華麗さは計り知れなかった。項籍がその墓を暴き、のちに牧童が羊を失って羊が墓に入り、牧者が火を持って探して棺槨を焼いた。古来、始皇より盛んな葬りはなかったのに、数年の間に外は項籍の禍を被り、内は牧童の災いに遭った。哀れではないか。
- 徳が厚い者ほど葬りは薄く、智が深い者ほど葬りは微かで、徳なく智寡い者ほど葬りは厚く、発掘されるのも早い。こう見れば明らかである。
- いま昌陵は低い所を高くし土を積んで山とし、民の墳墓を万を数えるほど掘り起こしている。死者は地下で恨み、生者は地上で愁え、怨みの気が陰陽に結ばれ、それによって飢饉が生じている。私はひそかに憐れむ。死者に知があるとすれば、人の墳墓を暴くのは大きな害であり、知がないとすれば、大きく造ることに何の意味があろう。賢智の者に諮れば喜ばず、衆庶に示せば苦しむだけである。かりに愚かで奢りを好む者を喜ばせるためというなら、なおさら何をしていることか。
- 陛下は慈仁篤美、聡明疎達は世に抜きん出ておられる。漢家の徳を広め劉氏の業を崇めるべきなのに、乱れた秦の暴政と奢侈を競い、丘壟を比べ、愚夫の喜びに悦び、一時の見栄えを盛んにし、賢智の心に背いて万世の安きを忘れておられる。私はひそかに陛下のために恥じる、と。
- 帝は劉向の言に深く感じたが従えなかった。有司も議した。昌陵は低い所を高くし土を積んで山としているので、便房は平地のままで客土の中にあり、幽冥の霊を保てず、外は浅くて固まらない。卒徒の労役は日に万を数え、脂を燃やして夜も作業し、東山から土を取るので土が粟と同じ値になっている。数年の工事で天下があまねくその労に苦しみ、国家は疲弊して府庫は空になり、下は衆庶まで嘆き苦しんでいる。もとの陵は天然の地勢に拠り、まことに高く広い地にあり、祖考にも近く、すでに十余年の工事の実績がある。もとの陵に戻すべきである、と。帝も完成しないと知り、秋、詔して昌陵を廃した。
史論(荀悅曰)
- 葬りの奢りは古くから続いてきた。だから節を守り志を遂げる士がその弊を見て矯めようとした。
- 武帝のとき、楊王孫という者があり、黄老の術を学び、家業は千金で自分を厚く養った。臨終に子に告げた。私は裸で葬られて本来の姿に返りたい。死んだら布の袋に屍を入れ、地下七尺に埋め、下ろしたら足から袋を引き抜いて身を土に触れさせよ、と。
- 子は忍びず、友人の祁侯に相談に行った。祁侯が「それが礼か」と言うと、楊王孫は答えた。聖人は人の情に因り、親に忍びない心から礼を制したと聞く。今はそれが度を越している。だから裸葬によって世を矯めようというのだ。厚葬はまことに死者の益にならないのに、俗人は競って張り合い、財を費やし尽くして地下で腐らせる。今日埋めて明日暴かれることさえある。これでは野に骸を曝すのと変わらない。
- 死とは衆生の変化であり、物の帰するところである。帰する者は行き着き、変化する者は変じ、それぞれ本来に返る。だから鬼という。鬼とは帰である。屍と魂がぽつんと独り居て、どうして知があろうか。幣帛で包み棺槨で隔て、支体を縛り口に金玉を含ませては、変化しようにもできず、鬱して干からびた腊となる。千年の後に棺槨が朽ちてようやく土に帰り、本来の宅に就く。そう考えれば、遠い宅を用いる意味はない。だから聖王は無用に力を加えず、無益に財を尽くさない。いま財を費やして厚く葬るのはすべて帰るのを隔てることであり、生者は知らず死者は得るところがない。これを大惑という。ああ、私はそうはしない、と。
- 祁侯は「善い」と言い、ついに裸で葬られた。
秋冬の事
- 城陽孝王の子の理を王に立てた。
- 秋八月丁酉、太皇太后王氏が崩じた。
- 九月乙巳晦、日食があった。京師では分かったが四方では見えなかった。