春から夏の災異と外戚の封侯
- 春正月乙丑、皇祖宗の悼考廟が火災にあった。本志はこれを、悼考廟を立てたこと自体が正しくなく、王鳳が政を握って正道を外れている前兆だと解する。
- そこで河間王の弟である良を河間王に立てた。
- 営室の星域に彗星が現れた。上林の詔獄を廃止した。
- 二月、諸侯王から二千石の吏まで黄金を、千石から二百石までの吏、宗室で属籍のある者、三老・孝弟力田・鰥寡孤独には銭帛をそれぞれ等級に応じて賜った。吏民には五十戸ごとに牛と酒、粟五斛を与え、天下に大赦した。
- 右将軍長史の姚尹が匈奴への使いから帰る途中、塞から百余里の地点で暴風とともに火が起こり、姚尹ら十数人が焼け死んだ。
- 舅の王崇を安城侯に封じ、舅の譚・商・立・根・逢時の五人には関内侯の爵を賜った。王鳳の兄弟は八人いたが、二番目の曼は早く亡くなったので封侯されなかった。
- 夏四月、黄色い霧が四方に立ちこめ、夜通し降り積もって地面が黄土の塵をかぶったようになった。
黄霧をめぐる議論と王鳳の辞意
- 帝が群臣に問うと、諫議大夫の楊興、博士の駟勝らは、陰の気が陽の気を侵す兆しだと答えた。高祖の約では功なき者を侯にしないのに、いま太后の弟たちは功もなく侯になっている。これが高祖の約に背くため、天が異変を示して過ちを責めているのだ、という。多くの者がこの説を是とした。
- 王鳳は恐れて上書し、帝が即位の当初に喪に服していたため自分が尚書の事を任されたが、上は聖徳を明らかにできず下は政治を益することもできなかった、彗星と赤黄の異変の咎は自分にあるので公開の処刑をもって天下に謝したい、いまは喪も明け大義もすべて挙がったのだから帝みずから万機を見て天心に応えるべきだ、と述べて骸骨を乞い辞職を願った。
- 帝は答えて、先帝の大業を継いだばかりで道を深く究めておらず事情に明るくないため陰陽が乱れ、日の光も失われて赤黄の気が天下に満ちたのであり、咎は自分の身にある、いま大将軍が過ちを引き受けて尚書の事を辞し印綬を返し大司馬の官を廃したいというのは、自分が大将軍に委任していることへの疑いを招く、専心して自分の至らぬところを補佐せよ、と告げた。
夏から秋の異変と邵信臣
- 六月、数万の蠅が未央殿の中に集まり、朝する者の座を覆った。
- 秋、長信少府の邵信臣が、行幸のまれな上林の宮館二十五か所の廃止を奏請した。また冬に菜を作るために温めた火で無理に育てるのは時節に反する生育であり、供奉に用いるべきでないと奏した。
- 邵信臣は字を翁卿といい九江の人。はじめ南陽太守となって民のために利を興し、溝渠や水門を開通させて三万余頃を灌漑し、婚礼や葬送の奢侈を禁じた。その教化は広く行きわたり、吏民は親しんで彼を邵父と呼んだ。帝は黄金四十斤を賜り河南太守に遷したが、治績は第一とされ、そのまま少府として中央に入った。
- 八月戊午、二つの月が重なって明け方の東方に見えた。京房の易伝は、君が弱く婦人が強くて陰に乗ぜられると二つの月が並び出る、という。
- 九月戊子、瓠ほどの大きさの流星が文昌宮から出て、光が地を照らし、長さ四五丈、蛇のようにうねって紫微宮を貫いた。
冬十二月、長安南北郊の創設と匡衡の議
- 冬十二月、長安に南郊・北郊を設け、甘泉と汾陰の祀りを廃止した。匡衡の建議による。
- 匡衡の奏議の要旨。帝王の事で天を承けることより大きなものはなく、天を承ける順序では郊祀が最も重い。天を南郊に祭るのは天の義に従うもの、地を北郊に祭るのは陰の象にかたどるものである。かつて武帝は甘泉宮に居て雲陽に泰畤を立てたが、いまは長安に行幸しながら皇天を拝むのに北へ向かい、后土を祀るのに東へ向かうありさまで、古の制と食い違っている。
- また雲陽へ行くには鶏谷の狭い道を百余里、汾陽へは大川を渡り風波と舟の危険がある。いずれも聖主がたびたび出向いてよい道ではない。郡県は道を整え帷帳を設けて吏民は苦しみ、百姓は費用に疲れる。保護すべき民を率いて危険な地を行くのは、天を承ける意にかなわない。昔、周の文王・武王は酆鎬で郊し、成王は洛邑で郊した。それぞれ居所に即したのだから、郊を長安に移してよい。
- さらに郊では柴を焚き、地を祀るには地を掃いて祭る。質素を尊ぶためである。大呂を歌い雲門を舞って天神を迎え、太簇を歌い咸池を舞って地祇を祀る。犠牲には犢を用い、席には藁秸、器には陶匏を用いる。いずれも天地の性に従うためである。神祇の功徳はきわめて大きく、いかに精緻を尽くし諸物を備えても報いきれない。だから質素と誠を貴んで天地の徳を表すのである。
- ところが今の甘泉紫微殿は彫刻や刺繍で飾られ、女楽を招き、石壇・仙人祠・瘞めもの・鑾輅・赤毛の駒・偶人・龍馬の類がある。これらはすべて修めるべきでない。また雍の鄜畤・密畤・上下畤および陳倉の宝鶏祠は、もと秦の君主が思いつきで立てたもので礼にかなわず、北畤も高祖が天下を定める前に立てたものだから、重ねて修めるべきでない。奏は許された。
本志が説く諸畤の由来
- はじめ秦の文公が汧と渭の間で狩りをし、住まいを卜して吉と出た。文公は黄色い蛇が天から下って地につながり、その口が鄜衍にある夢を見た。史敦に問うと、これは上帝の徴だから祠るべきだと言うので、鄜畤を作って白帝を郊祭した。
- 文王は陳倉の北坂で古い石缶を得て祀った。その神はしばしば夜に降り、流星のような光が東南から祠壇に集まり、地につくと雄鶏のようで、その声は殷殷と響いた。野の雉が夜に鳴くのでこれを陳宝と名づけた。その神は年に数度来ることもあれば、一年来ないこともあった。
- のち秦の文公は密畤を作って青帝を祠り、秦の霊公は呉陽に上畤を作って黄帝を祠り、下畤を作って炎帝を祀った。
- 高祖が漢中から東へ出て項籍を撃ち関に入ったとき、群臣に「天には五帝があると聞くが、いま祠られているのは四つだけなのはなぜか」と問うた。誰も答えられなかったので、高祖は「わかった。私を待って五になるのだ」と言い、黒帝の祠を立てて北畤と称した。
本志の祭祀論
- 洪範の八政の第三が祀である。祀は孝を明らかにし祖宗に仕え神明に通じるためのもので、四夷に及ぶまで行わない者はなく、鳥獣でも豺や獺には祭がある。だから皇王はこれに典礼を定め、神と民それぞれの官を置いてその序を司らせ、混乱させなかった。民と神が業を異にし、敬って冒瀆しなければ、神は嘉瑞を降し災禍は来ない。末世になって饗祀に節度がなくなり、斎明を汚すと、神は受け入れず、嘉瑞は降らず災禍が至る。
- 昔、共工氏が九州に覇を唱えたとき、その子の勾龍は水土を平らげたので社として祀られ、烈山氏が天下に王たったとき、その子の柱は嘉穀を播殖したので稷として祀られた。虞書には上帝に類し、六宗に禋し、群神にあまねく祀り、四岳を巡って柴祭したとある。
- 殷の十三世、帝武丁が祭った翌日、雉が鼎の耳に登って鳴いた。武丁は恐れて徳を修め、夢によって版築の中から傅説を得て相とし、殷の道はふたたび興って高宗と号された。その五世後の帝乙は神を侮り礼に背いて雷に打たれて死んだ。
- 周公が成王を輔けたときは、后稷を郊祀して天に配し、文王を明堂に宗祀して上帝に配した。およそ天子は天下の名山大川を祭って百神を懐柔し、五嶽は三公に、四瀆は諸侯になぞらえて秩を定めた。諸侯はその領内の名山大川を祭り、大夫は門・戸・井・竈・中霤の五祀を祭り、士や庶人は祖考を祭るのみで、淫祀は禁じられていた。季氏が泰山に旅したとき仲尼がこれを譏り、民の義に努め鬼神を敬して遠ざけよと言ったのは、先王が人事を正すだけで、みだりに神祇に福を求めなかったからである。道によらなければ神は享けない。
- また八神の祠がある。第一は天主で天斉、臨淄の南郊の山下にある。第二は地主で泰山の梁父。第三は嶽主で蚩尤を祠り、東平陸の監卿にある。第四は陰主で三山。第五は陽主で之罘山。第六は月主で萊山。いずれも斉の北にある。第七は日主で成山、成山は海に突き出て斉の東北の端にあり、日の出を迎える。第八は四時主で琅邪にある。八祠の由来は古く、起こりは誰も知らない。斉の太公以来のものだともいう。帝は八神を祀り、通れば祀り、去れば止めた。
- 長安の南北郊を設けた日、大風が吹いて甘泉泰畤の中の十囲以上の木がことごとく抜けた。