- 春正月、雍の五畤を廃止した。
- 二月辛巳、帝ははじめて長安の南郊で郊祀を行い、神々しい光が同時に現れた。
- 閏月、渭城の延陵亭を初陵とし、賢良方正を挙げるよう詔した。
- 二月、北宮の井の水があふれて南へ流れた。元帝のころの童謡に「井水があふれて竈の煙を消し、玉堂に灌ぎ金門に流れる」とあった。本志はこれを陰の象とする。春秋では先に鸜鵒の謡があり、後に鸜鵒が巣を作る事実があって、ついに昭公が国外に居る応験となった。井は陰、竈は陽、玉堂と金門は至尊の居所であり、陰が盛んになって陽を滅ぼし、ひそかに宮室を有する象で、王氏の応験だという。
- また別の童謡に「邪径は良田を損ない、讒言と巧言は忠賢を害する。桂樹は花咲けど実らず、黄雀がその頂に巣くう。かつては人に羨まれ、今は人に憐れまれる」とあった。本志は、桂樹の赤い色は漢家の象、実らないのは嗣が無いこと、黄雀は王氏の象、頂とは漢室が将来そうなることを指すとする。
- 辛丑、帝ははじめて北郊で后土を祀った。
- 丙午、皇后許氏を立てた。大将軍許嘉の娘である。
- 少府の技巧官を廃止した。
- 夏、大旱。東平王牟が罪を得て二県を削られた。
- 秋、太子の博望苑を廃し、宗室で朝請する者に賜与し、乗輿の厩馬を減らした。
- 丞相の匡衡がさらに奏し、郡国で神を候う方士や使者の祠るところは合計六百八十三か所あるが、そのうち二百八か所は祀るべきもの、あるいは明文がなく判断のつかないもので祀れない、残る四百七十五か所は祀るべきでないとして廃止を請うた。また高帝・武帝・宣帝の立てた山川の群祠百二十余か所も典に合わないとしてすべて廃した。神を候う方士・使者・副使・待詔ら七十余人もみな解任して帰らせた。