丞相の交代
- 春正月癸卯、丞相の邴吉が薨じ、謚を定侯とした。子の顕が嗣いだが罪があり、皇帝は家を絶やすに忍びず、爵を削って関内侯とした。
- 二月壬辰、御史大夫の黄覇を丞相とした。覇は民を治めることには長けていたが、丞相としての綱紀・風采は魏相・邴吉・于定国には及ばなかった。
祥瑞と王褒
- 三月、河東に行幸して后土を祠った。神光が現れて斉宮を照らすこと十余刻。辛丑には鳳凰が長楽宮に集まり、五彩の文様をもって十余刻とどまり、吏民がともに目撃した。民に爵一級、鰥寡孤独に帛を賜い、五日間の大酺を許した。
- 当時、天下は豊かで嘉瑞がしばしば現れた。益州刺史の王褒は管内の民に風化を宣べようとして中和楽を作り歌詩を布き、好事の童子である何武らを選んで鹿鳴の曲節に依らせて歌わせた。皇帝は武らを召してこれを観、皆に帛を賜って「これは盛徳の事だ。私にどうしてふさわしかろうか」と言った。益州刺史はそこで王褒に逸才があり文を作れると奏し、皇帝は褒を徴して待詔とした。
- のち褒に頌を作らせ、聖主が賢臣を得る意を頌させた。
王褒の頌(聖主得賢臣の意)
- 春秋の五始の要は、己を審らかにして統を正すことに尽きる。賢者は国家の器物・道具である。任ずるところが賢であれば取捨は簡略で功は広く行き渡り、器物が良ければ力を用いることが少なくて成果は多い。
- 工人が鈍い器を使えば筋骨を労し一日中あくせくする。だが巧みな鍛冶が干将の素材を鋳、清水でその鋒を淬し、越の砥石でその刃をととのえれば、水では蛟龍を断ち、陸では犀の革を刺すこと、箒で泥を掃くように容易である。離婁に墨縄を督させ公輸に墨を削らせれば、五層の高台、百尺の広がりでも乱れないのは、工と用具が相得るからだ。
- 薄い葛布を着る者は盛暑の蒸し暑さに苦しまず、狐狢の裘を重ねる者は極寒の凄惨を憂えない。備えのある者は事が易しいのである。賢人君子もまた、聖主が海内を治めやすくする所以のものだ。
- 昔、周公は吐哺握髪の労を尽くしたゆえに周室の隆盛があり、斉の桓公は庭燎の礼を設けたゆえに匡合の功があった。これで見れば、明君たる者は賢を求めるに勤め、人を得てのちは安逸である。人臣もまた同じで、世に必ず仁聖の王があってのち賢明の臣がある。
- 虎が嘯けば風が起こり、竜が興れば雲を致す。蟋蟀は秋を候って鳴き、蜉蝣は陰の気に出る。易に「飛竜天に在り、大人を見るに利あり」、詩に「思皇多士、此の王国に生まる」とある。ゆえに聖王は必ず賢臣を待って功業を弘め、雋士もまた明主を俟ってその徳を顕す。上下がともに求め合って歓然と交わり喜ぶのは千載の一会であり、その悦びは尽きない。鴻毛が順風に遇うがごとく、巨魚が大海を思うままにするがごとくである。
- そのように意を得れば、何の禁が止まらず、何の令が行われぬことがあろう。教化は四方に溢れ、際限なく及び、遠夷は貢献し、万祥が必ず至る。ゆえに聖主はあまねく覗き見ずして視ることが明らかであり、耳を傾け尽くさずして聴くことが聡い。恩は祥風に従って遊び、徳は和気とともに遊ぶ。太平の責めは塞がり、優游の望みは得られ、自然の勢いに遊び、恬淡無為の場に遵い、休徴は自ら至り寿は限りない。何も彭祖のように屈伸し、王喬・赤松子のように呼吸を練り、遠く俗を絶ち世を離れる必要があろうか。詩に「済済多士、文王以て寧んず」という。まことにそれで安んじられるのだ。
- 当時皇帝はかなり神仙を好んでいたため、褒の答えはそこに及んだのである。まもなく褒は諫議大夫に任じられ、しばしば辞賦を作った。方士が益州には金馬・碧鶏の宝があり祭れば招き寄せられると言い、褒を遣わして祠らせたが、褒は道中で病死した。
そのほか
- 六月辛巳、西河太守の杜延年を御史大夫とした。安らかで和やかで寛裕、論議は公平で、名臣と称された。
- この年、西河属国都尉を置いて匈奴の降者を住まわせた。