広陵王胥の自殺
- 春正月、広陵王の胥が罪あって自殺した。胥は倡楽と逸遊を好み、力は鼎を持ち上げ素手で羆・猪などの猛獣を打ち倒すほどで、行いに法度がなかった。
- 昭帝の時にはしばしば巫祝に呪詛を祈らせ、宣帝が即位すると「太子の孫がどうして立てたのか」と言って前と同じく呪詛した。楚王の延寿が謀反したとき、胥は私に書を通わせていた。延寿が誅されたのち供述が胥に及んだが、詔で治めないこととされた。
- のち再び呪詛した。宮中に棘が十茎生え、茎は赤く葉は白い絹のようであった。池の水が赤く変じて魚が死に、鼠が王の後庭で舞った。やがて呪詛の件が発覚し、有司が取り調べたため胥は恐懼して自殺した。謚を厲王とし、その子は庶人とされた。
辺境と常平倉
- 匈奴の単于が臣従の道として弟の谷蠡王を入侍させた。辺塞に寇がなくなったので戍卒を十分の二減らした。
- 大司農丞の耿寿昌は計算に長け、事業の利害をよく計った。奏上して言った。故事では毎年関東の穀四百余万斛を漕運して京師に供給し、卒六万人を用いている。三輔・弘農・河南・上党・太原の各郡で穀を買い上げれば京師に足り、関東の漕卒を半減できる、と。
- また辺郡にはすべて倉を築き、穀の安いときには価を上乗せして買い入れて農民を利し、高いときには価を下げて売り出して貧民を賑わすことを奏し、これを常平倉と名づけた。民はこれを便とした。そこで寿昌に関内侯の爵を賜った。
- 当時は買い入れる穀の値が甚だ安く農民の利が少なかったので常平倉を設けたのである。また蔡揆が農を好むということで使者となり、郡国で勧農にあたった。
李悝の尽地力の教え
- 昔、李悝は魏の文侯のために地力を尽くす教えを立てた。地方百里は提封九万頃、山沢や邑居を除いて三分の一を減じ六万頃。田を治め農を勧めれば一畝ごとに三斗増え、勧めなければ同じだけ減る。増減を合わせれば穀百八十万石になる。だから農事は勧めぬわけにいかない。
- 買い入れ値が甚だ高ければ民を傷つけ、甚だ安ければ農を傷つける。民が傷つけば離散し、農が傷つけば国が貧しくなる。だから高すぎるのも安すぎるのも害は同じである。よく国を治める者は、民を傷つけずに農をますます勧める。
- 今、五口の家が田百畝を治めても年々自給に足りず、不幸にして疾病や葬送の費用が出れば甚だしく困窮する。それゆえ民は耕作に励まず、買い入れ値は甚だ高くなる。
- ゆえによく買い入れ値を平らかにする者は、その年が上・中・下のいずれかを見る。上作なら四倍、中作なら三倍、下作なら倍で、飢饉の年も同様の段階がある。上作の年は官が三を買い上げて一を残し、中作なら二を買い上げて一を残し、下作なら一を買い上げて一を残す。民に過不足なきようにし、価が平らかになれば止める。
- 小さな飢饉には小作の年に蓄えたものを出して売り、中程度の飢饉には中作の年のもの、大飢饉には大作の年のものを出して補い合う。こうすれば飢饉に遭っても穀価は甚だしく高騰せず民は離散せず、穀価は常に平らかである。これを魏国で行い、魏国は強く富んだ。
そのほか
- 夏四月辛丑朔、日食があった。これを「正月朔、慝いまだ作らず」といい、春秋左氏伝はこれを重大なことと見る。
- 丞相・御史の掾吏二十四人を遣わして天下を巡行させ、冤獄を摘発し、勝手に苛酷な禁令を設け深刻な治め方をして改めない者を糾察させた。