前漢紀前漢孝宣皇帝紀四 五鳳二年 前56年

人事と詔

  • 春正月、雍に行幸し五畤を祠った。
  • 夏四月、大司馬車騎将軍の韓増が薨じた。増は故韓王信の曾孫、安道侯韓説の子である。寛和で自らを守り、温顔と遜辞で上に承え下に接し、三代の主に仕えて朝廷で重んじられた。
  • 五月、将軍の許延寿を大司馬車騎将軍とした。
  • 秋八月の詔。婚姻は人倫の大事であり、酒食の会は礼楽を行う場である。ところが今、郡国の二千石の中には勝手に苛酷な禁令を設け、民が嫁娶に酒食を用意して祝い合うことを禁じる者がいる。これでは郷党の礼が廃れ民に楽しみがなく、民を導く道ではない。詩にも「民が徳を失うのは乾飯のことで咎め合うから」とある。このような苛禁をしてはならぬ、と。

匈奴の内乱と蕭望之の議

  • 匈奴の掘衍単于がその衆に叛かれ、兵敗れて自殺した。匈奴は大乱となり、五人の単于が立位を争った。
  • 議者の多くは「匈奴の害は久しい。今その乱に乗じて兵を挙げ滅ぼすべきだ」と言った。蕭望之は反対した。春秋で晋の士丐が兵を興して斉を侵したが、斉侯の死を聞いて還った。君子はその喪を伐たなかったことを大とした。恩は孝子を服させるに足り、義は諸侯を動かすに足るからである。先の単于は教化を慕って和親し、それは夷狄に知れ渡っていた。不幸にも賊臣に殺されたのに今これを伐つのは、乱に乗じ災いを幸うものである。兵が義によって動かなければ、労して功なきを恐れる。使者を遣わして弔問し、その微弱を輔け災患を救うべきだ。四夷がそれを聞けば皆中国の仁義を貴ぶ。もし恩を蒙って位を回復できれば必ず称臣服従する。これこそ徳義の盛んなるものである、と。皇帝はこれに従った。

蕭望之の左遷

  • 壬午、御史大夫の蕭望之を太子太傅に貶し、太傅の黄覇を御史大夫とした。
  • このころ丞相の邴吉は年老いており、皇帝は彼を重んじていた。望之が「三公がその人でなければ三光は明らかでない。今、歳星の光が乏しいのは咎が臣らにある」と奏上した。皇帝はこれを丞相を軽んじる意と受け取って望之を詰問し、望之は冠を脱いで弁明した。
  • のち丞相司直が奏上した。故事では、丞相が病めば翌日に御史大夫が必ず見舞い、朝の奏事や廷中での会同では丞相の後に位置し、丞相が謝すると御史大夫はやや揖して進むものである。ところが丞相が何度も病んでも望之は見舞わず、廷中での会同でも丞相と対等の礼をとった。また望之は勝手に守吏を使い、自ら車馬を仕立てて杜陵まで家事を見に行かせ、小吏に法冠をつけさせて妻の先導をさせ、さらに売買で私に得た利益は合計十三万三千に上る、と。皇帝はこれによって策書で望之を貶した。

匈奴の来降と楊惲の獄

  • 冬十一月、匈奴の呼遫累単于が衆を率いて来降し、列侯に封じられた。
  • 十二月、平通侯の楊惲が怨望不道の罪で腰斬となった。惲は丞相楊敞の弟にあたる(原文の記載による)。霍氏の謀反を発いた功で封ぜられ光禄勲となった。清廉で義を好み、千万の財を昆弟宗族に分け与えた。しかし自らの賢能を誇り、性として人を刻害し、他人の隠しごとを暴き、士人を軽んじたため、ついにこれで身を滅ぼした。
  • 太僕の戴長楽が惲と仲が悪く、これを告発した。安昌侯の車が北掖門に駆け込んだ件で惲が「かつて車が殿門に突っ込んで門関が折れ馬が死に、昭帝が崩じたと聞く。今また同じことが起きた」と言ったこと。西の関上の桀紂の画像を指して「天子がここを過ぎて一つ二つその過失を問えば、それを師とできよう」「人には堯舜があるのにそれを称えず桀紂を言うとは」と言ったこと。また「天が久しく陰って雨が降らぬ。春秋の記すところ、夏侯君の言うところ、主上の行幸は河東には至るまい」と言ったこと。
  • 皇帝はこれを、たわむれの言とはいえ悖逆で理に絶したものとして廷尉に下した。廷尉は大逆不道として逮捕治罪を請うたが、皇帝は法を適用するに忍びず、免じて庶人とした。
  • 惲は家居して産業を営み邸宅を建てた。安定太守で西河の人である孫会宗は智略の士で、惲に書を送って戒めた。大臣が廃退されたなら門を閉ざして恐懼すべきで、産業を営み賓客を通わせるべきではない、と。
  • 惲の返書の趣旨。自分の罪過はすでに重く、長く農夫であろうと思い、それゆえ商人まがいの事を修め、耕作養蚕して公上に納めているのだ。まさかこのことで譏られるとは思わなかった。西河郡の地は魏の文侯が興したところで、段干木・田子方の遺風があり、節倹を尚び去就の分を明らかにする土地である。今あなたは旧土を離れて安定の山谷、昆戎の旧壌に臨んでおり、そこの子弟は貪鄙である。習俗が人を移すというのはこのことか、今こそあなたの志が見えた。方今は盛漢の隆盛の時、努められよ、多くを語るな、と。
  • 惲の兄の子である安平侯の楊譚が惲に言った。「西河太守の杜侯は先に過失で退けられたが、今また徴されて御史大夫となった。あなたの罪は薄く功労もあるのだから、また用いられよう。」惲は「功があって何の益がある。県官は尽力に報いようとはせぬ」と答えた。譚は「県官は実にそのとおりだ。司隷や韓馮翊はいずれも尽力した吏だが皆事に坐して誅せられた」と言った。
  • 騶馬の隈佐成がこれを告発し、廷尉が取り調べて惲が孫会宗に宛てた書を得た。皇帝は憎み、ついに惲を誅し、妻子を合浦に徙した。譚は諫止せずに応答し怨望の言があったとして免じられ庶人となった。公卿は朋党の収捕を奏し、友人は皆免官となった。

張敞の免官と再起

  • 京兆尹の張敞も弾劾の奏があったが、皇帝はひとりこれを握りつぶして下さなかった。
  • そのころ敞が賊を捕らえさせていた掾吏の絮舜が、敞はもうすぐ免官になるとみて「五日だけの京兆尹にすぎぬ」と言い、按事を引き受けなかった。敞はこれを聞くと舜を収監し、強引に死罪に処した。舜の家が自ら訴え出たため、皇帝は敞に身の処し方をつけさせようと、まず楊惲の件で敞を免じた。敞は闕に詣り印綬を返上して闕下から退いた。
  • そのため京兆の吏民は桴鼓の備えを解いてしまい、また冀州や都中に大賊が現れた。皇帝は敞の功績を思い、詔してその所在地から敞を召し、冀州刺史に任じた。
  • 広川王の同族である劉調らが賊となり、王家に隠れ潜んでいた。敞は自ら吏民の兵車数百両を率いて王宮を包囲し、はたして殿屋の重ねた梁の中に調らを見つけ出して斬り、その首を王宮の門に懸けた。そして王を劾奏したが、皇帝は法を適用するに忍びず、その戸を削るにとどめた。冀州の盗賊は禁止され、敞は太原太守に遷って郡中は清らかに治まった。

史論(荀恱曰)

  • 天子に私の恩恵はなく、王法は曲げて成すものではない。張敞のような場合、議能の法によって宥すのはよいが、逃亡させてしまうのは誤りである。