- 春、神雀が泰山に集まった。五色の烏が万を数え、京師の上空を飛び過ぎ、属県を翔けめぐった。諸侯王・将軍・列侯・二千石から郎・従官に至るまで差をつけて帛を賜り、天下の吏民に爵を、鰥寡孤独と高齢者に帛を賜った。
- 三月、詔して言った。「象には罪があったが舜はこれを封じた。骨肉の親を憐れみ、放っても誅さなかったのである」。そこで故昌邑王賀の子を海昏侯に封じた。
- また詔して言った。「御史大夫邴吉、中郎将の史魯・史玄、長楽衛尉の許舜、侍中光禄大夫の許延寿は、いずれも朕と旧恩がある。故掖庭令の張賀は朕を輔け導き、その功は大きい。詩に『徳あって報いぬことなし』とあるではないか」。張賀の子の侍中中郎の彭祖を陽都侯に封じ、賀に哀侯と追諡した。邴吉・史魯・史玄・許舜・許延寿は皆列侯とされ、旧知の者や郡邸獄の復作の者で養育の功があった者にも、差をつけて禄と賜与が与えられた。
- このとき掖庭の宮婢で則という者があり、その夫に上書させて、かつて養育の功があったと申し立てた。掖庭令に下して問わせると、則は御史大夫邴吉が事情を知っていると証言した。邴吉は則を覚えており、「そなたはかつて皇孫の養育が行き届かぬとして責め笞たれた者だ。どうして功があろう。恩があったのは渭城の胡組と淮陽の郭徴卿だけだ」と言った。詔して胡組と郭徴卿を探させたが、いずれもすでに死んでおり、子孫が厚い賞を受けた。則は庶人とされて銭十万を賜った。
- 帝は邴吉に会って詳しく問い、初めて彼に旧恩があったことを知り、それを言わずにいたことを賢とした。ちょうど邴吉の病が篤かったので、博陽侯に封じてその場で印綬を与え、生きているうちに間に合わせた。太子太傅の夏侯勝が言った。「陰徳のある者は必ずその楽しみを享け、子孫にまで及ぶと聞きます。今、邴吉はまだ報いを得ぬまま病が重い。これは死病ではありますまい」。のちに邴吉は快復し、上書して封を固辞したが、帝は聴かなかった。
- 杜陵の陳遂(字は長子)は、帝が微賤のころ一緒に遊び、博奕でしばしば負けた相手だった。帝が即位すると次第に用いられ太原太守に至った。帝は璽書を賜って言った。「詔す、太原太守よ。官は尊く禄は重い。これで遂の博奕の負けも償えよう。妻の君寧がそのとき傍らにいて事情を知っている」。遂は上書して恩を謝し、「事は元平元年の赦の前にございます」と述べた。厚遇されることこの通りであった。元帝の時、陳遂は京兆尹となり、のち廷尉に至った。
- 陳遂の孫の陳尊(字は孟公)は、賓客を好むことで名を知られた。身の丈八尺余りで容貌は堂々とし、貴戚・豪傑が皆敬い重んじ、行く先々に人が集まって震え動かぬ者はなかった。河南太守となったとき、京師の旧知の者に私信を書くのに、書に巧みな吏十人を前に召し、几に寄りかかって口授しながら同時に官事も処理し、書は数百通に及んだが、親疎に応じてそれぞれ意味が違っていた。河南の人々は大いに驚いた。生来書が巧みで、人に与えた尺牘は皆が名誉として蔵した。しかし酒を好み奢放で礼度に拘らなかった。
- 張敞の孫の張竦(字は伯松)と親しかった。竦は学問を好み節約して身を守り、ともに名を成し、官途も相前後した。尊は竦に言った。「そなたは身を苦しめて自ら約するが、私は意のままに振る舞う。官爵も功名もそなたに劣らず、しかも私だけが楽をしている。得ではないか」。竦は答えた。「人にはそれぞれ長所短所がある。そなたが私を学ぼうとしてもできまいし、私がそなたに倣おうとしても失敗するだけだ」。
淮陽王と疏広・疏受の引退
- 夏六月、皇子の欽を淮陽王に立てた。欽は張婕妤の子で、経学と法律を好み、聡明で才があり、帝は大変愛した。張婕妤も最も寵愛されていた。帝は張婕妤の子の欽を立てたい気持ちがあったが、太子が微賤から起こり、自分も若いころ許氏に頼っていたこと、そして許皇后が殺されて死んだことから、廃するに忍びなかった。
- この年、皇太子が元服した。すでに論語と孝経に通じていたので、太傅の疏広は少傅の受に言った。「止まるを知れば辱められず、足るを知れば危うからず、功成り名遂げて身退くは天の道だと聞く」。
- 即日、広と受はともに病と称し、上疏して骸骨を乞うた。帝は老齢であるとして二人とも許し、黄金各二十斤を賜った。皇太子は金五十斤を贈った。公卿・大夫・旧知の者・同郷の者が東都門の外で餞の宴を開き、見送りの車は数百両に及んだ。道路で見ていた者は誰もが嘆息し、「賢いことよ、この二人の大夫は」と言った。
- 疏広は東海に帰ると、家に酒食を用意させ、一族の者や郷里の人々と娯楽を共にした。たびたび家に金がまだ残っているか尋ねた。兄弟や老人たちは、子のためにいくらか産業を作ってやるべきだと言った。
- 広は答えた。「私にはもともと田も家もあり、子孫がそこで励めば衣食を賄うのに十分だ。今それに上乗せしても、子孫に怠惰を教えるだけだ。賢くて財が多ければその志を損ない、愚かで財が多ければその過ちを増す。それに富める者は人に怨まれる。私はもともと子孫を教化する手立てを持たないのだから、その過ちを増やし怨みを生じさせたくない。またこの金は聖主が老臣に恵まれたものだ。だから郷党・宗族と共にその賜わりを享けて余生を尽くしたい。それでよいではないか」。
- そのころ宗正の陽城侯劉徳は劉辟彊の子であるが、やはり自らを抑えて守り、家産は百金を超えず、余りは兄弟や賓客に与えて、ついに財を蓄えなかった。霍光が政を執っていたころ娘を徳に嫁がせようとしたが、徳は権勢が満ちるのを恐れて娶らなかった。
- 徳は黄老の術を好み、智略があった。若いころしばしば召見され、武帝は彼を「千里の駒」と呼んだ。徳は淮南の獄を治め、淮南の秘書をすべて手に入れた。
- 徳の末子の劉向(字は子政)は幼くしてこれを誦し習い、珍しいものとして「黄金は作れます」と奏上した。帝は向にこれを担当させたが、鋳造の作業に費やした金が非常に多く、効験がなかった。向は黄金を偽造した罪で獄に下され死罪に当たった。徳は上書して向のために訴えたが、担当官は「徳は子のために訴え、大臣の体を失った」と奏上した。ちょうど徳が病没し、帝も向の才を珍重して死一等を減じた。
- のち穀梁春秋が立てられることになり、帝は向に穀梁春秋を受けさせ、諸儒とともに石渠で五経を講じさせた。郎中・給事黄門に任じられ、諫議大夫・給事中に遷り、向はのち宗正となった。向は簡素で威儀にこだわらず、清廉で道を楽しみ、世俗と交わらず、もっぱら経術に精を凝らした。昼は書伝を読み、夜は天文を観て、時には朝まで寝なかった。