- 春正月、詔して言った。「朕が思うに、老いた人は髪も歯も抜け落ち血気は衰え、暴虐の心などない。それが法文に触れて牢獄につながれ天命を全うできぬのは、朕の深く憐れむところである。今後、八十歳以上の者は、誣告と人を殺傷した罪を除き、他はすべて罪に問うな」。
- 太中大夫の李強ら十二人を遣わして天下を巡行させ、孤児や寡婦を見舞い、風俗を観察し、吏の治績の得失を調べ、茂才や異論の士を挙げさせた。
- 二月、河東の霍徴史らが謀反して誅せられた。
- 三月、詔して言った。「先ごろ五色の神雀が万を数えて長楽・未央・北宮の高寝、甘泉の泰畤の殿中、および上林苑に集まった。朕は及ばぬ身で徳も薄いのに、たびたび嘉祥を得ている。朕の力ではない」。天下の吏民に爵を、三老・孝弟・力田・鰥寡孤独に差をつけて賜った。
尹翁帰
- 秋八月、功臣の嫡孫に黄金各二千斤を賜った。故右扶風の尹翁帰の子に黄金百斤を賜って、その祭祀にあてさせた。
- 翁帰は字を子沉といい、清潔で私事を口にせず、温良謙退で、能力を鼻にかけて人に驕らなかった。しかし刑罰と威をもって臨み、京師は彼を畏れた。姦邪や遊侠の者は皆名簿に載せてあり、盗賊が出れば近隣の五人組を調べ、類推によって足取りを追わせ、その経路はおおむねいつも彼の言うとおりだった。
- もともと田延年が河東太守だったとき、旧吏五、六十人を召見し、文の心得のある者は東に、武の心得のある者は西に立たせた。翁帰だけは伏したまま立とうとせず、「文武を兼ね備えております。お使いになる通りに」と答えた。延年は語り合って大いに珍重し、自分は及ばないと思った。翁帰はやがて孝廉に挙げられた。
- のち東海太守となり、赴任の挨拶に廷尉の于定国を訪ねた。定国は同郷の二人を売り込もうとして、まず後堂に座らせて待たせていた。しかし翁帰と一日語り合ううちに、とうとう会わせられなかった。あとで同郷の者に言った。「あれは賢い将だ。そなたたちでは務まらぬし、私事を持ちかけることもできぬ」。
張安世
- 丙寅、大司馬衛将軍の張安世が薨じた。
- 安世は大司馬として尚書の事を統括し、職務は枢機に関わったが、謹慎で周密だった。二度にわたって大政を定めたが、決まると必ず病と称して退出し、詔令が出たと聞くと大いに驚いたふりをして、吏を丞相府に遣わして問い合わせさせた。朝廷の大臣たちは誰も彼が議に加わっていたことを知らなかった。
- 人を推薦したとき、その人が礼を言いに来ると、安世は大いに恨んだ。「能ある者を挙げ賢者を世に出すのに、どうして私的に礼を言うことがあろう」と言い、以後絶交した。
- ある郎が功が高いのに昇進しないと安世に直訴した。安世は「そなたの功が高いことは明主が知っておられる」と言って断固として取り合わなかった。まもなくその郎は果たして昇進した。
- 幕府の長史が安世に言った。「将軍は明主の股肱でありながら士を推挙されない。議する者は非難しております」。安世は答えた。「明主が上におられ、賢愚ははっきり分かる。人臣は自ら身を修めるだけだ。どうして士を見定めて薦めるなどということをしようか」。名を隠し権勢を遠ざけること、すべてこの通りであった。
- ただし安世の家には七百人の家僮があり、それぞれ技能を持って細かなことを積み重ねたので、家財は富み、霍氏を超えようとするほどだった。それでいて本人は太い絹の粗衣を着、夫人は紡績をし、車服はきわめて質素だった。
- 安世が薨じると子の延寿が嗣いだ。延寿は自ら「功徳のない身で、どうして先人の大国を長く保てよう」と考え、たびたび上書して戸邑の減封を願い出た。また従弟の陽都侯彭祖を通じて誠意を口頭で述べた。彭祖は帝が微賤のころ同じ硯席で書を読んだ仲で、帝は親しんでいた。帝は延寿を謙譲の人と認め、平原侯に移封し、戸口は元のままで租税を半減した。
その他
- 使者を烏孫に遣わして車師の前王を求めた。この年、車師王の烏貴靡が烏孫から至り、屋敷を賜って妻子と住まわせた。
- このころ数年続けて豊作で、嘉穀と黒黍が郡国に降り、金色の芝が九本、函徳殿の銅池の中に生えた。九真は珍しい獣を献じ、南郡は白虎を獲てその皮・骨・爪・牙を献じ、神雀はなお集まり続けた。