- 春正月、詔して言った。「書経に『文王は罰を作り、この刑には赦なし』とある。今、吏は身を修め法を奉じているが、まだ称するに足る者がない。朕は深く憫れむ」。天下に恩赦し、精を励まして改めることとした。
- 二月乙丑、皇后に王氏を立て、丞相以下、郎・従官に至るまで差をつけて錦と帛を賜った。
- 王氏の先祖は高祖に功があって関内侯の爵を賜っていた。王皇后の父の奉光は、帝が民間にいたころからの知り合いで、娘があったが、嫁がせようとするたびに相手の男が死んだ。帝は即位すると彼女を後宮に納れ、婕妤とした。
- 当時、寵愛を受けた婕妤には皆子があった。帝は霍皇后が太子を毒殺しようとしたことに懲り、子がなくて寵のある王婕妤を皇后に立て、太子の養母とした。父の奉光は卬城侯に封じられた。
- 夏五月、詔して言った。「吏は法を用いるにあたり、小賢しく律文を二様に解釈し、深浅が不公平で、言葉を加え非を飾って罪をこしらえる。奏上が事実と違えば、上は知りようがない。あるいは勝手に徭役を興し、厨伝を飾って過客をもてなし、職を越え法を越えて名誉を取ろうとする。二千石は皆、官属を調べてこうした者を用いるな」。
- また、民が疫病の災いを受けているとして、被害の甚大な郡国は今年の租を出さないこととした。
- 詔して言った。「古の天子の名は知りにくく避けやすかったと聞くが、今は百姓が上書して諱に触れ罪を犯すことが多い。朕は深く憐れむ」。諱を「詢」に改め、令の発布前に諱に触れた者は赦した。
趙広漢
- 冬、京兆尹の趙広漢が罪を得て腰斬された。広漢は字を子都といい涿郡の人で、無実の者を殺した罪に問われた。
- 丞相がこれを取り調べたが、広漢は丞相の夫人が侍婢を殺したのではないかと疑い、これで丞相を脅そうとした。丞相の追及がいよいよ厳しくなると、広漢は吏を率いて丞相府に踏み込み、その夫人を召して堂下に跪かせ、奴婢十余人を捕らえて事情を取り調べた。丞相は上書して「妻は実際には婢を殺していない。婢に過失があって自殺しただけだ」と申し開きした。
- 丞相司直が「広漢は大臣を辱め、脅して公務を妨げた。不道である」と弾劾し、帝は広漢を廷尉の獄に下した。さらに無実の者を殺した罪も加えて処断された。吏民で闕を守って号泣した者は数万人に及んだ。
- もともと広漢は京兆尹として清廉明察で、強きを抑え弱きを助け、小民は生業を得、吏士は心を尽くした。盗賊や姦邪のことは細かなことまで知り尽くしていた。
- 長安の若者数人が人気のない路地の空き家に集まって強盗を謀ったが、話が終わらぬうちに広漢はこれを察知し、吏に捕らえさせて残らず自白させた。富人の蘇回が郎となったとき、二人がひそかに彼を人質に取った。ほどなく広漢が現れ、賊に諭した。「人質を放して手を出せ。丁重に扱う。運がよければ恩赦に会えよう」。賊は驚いてすぐに出てきて叩頭した。広漢は跪いて礼を述べた。「郎を無事に生かしてくれて、まことにありがたい」。獄に送り、吏に丁重に扱うよう命じて酒肉を給した。冬に処断される際には、あらかじめ官の手で棺と葬具を整えさせたので、賊は「死んでも恨みはない」と言った。
- 広漢がかつて湖の都亭長を召したとき、湖の亭長が西の界上を通ると、界上の亭長がふざけて「私の代わりに趙君に伝えてくれ」と言った。湖の亭長が到着すると、広漢は「界上の亭長が私に礼を言っていたが、なぜ挨拶を返してこないのか」と言った。姦を摘発し伏せた事を暴くこと、いずれも神のごとくであった。
- 広漢は奏請して長安の遊徼と獄の秩を百石とした。以後、百石の吏は皆それなりに身を慎み、法を枉げなくなった。京兆は清く正しく治まり、長老たちは「漢が興って以来、京兆尹で趙広漢に及ぶ者はない」と称え、百姓は追慕して歌った。
- 広漢は初め潁川太守となったとき、大姓の首謀者を誅し、郡中は震え上がって一切が治まり、威名は匈奴にまで伝わった。匈奴からの降者が「匈奴の中でも皆、広漢のことを聞いている」と語ったほどである。ただし新進の若者を好んで用い、その多くは思い切った策を進めて貴戚・大臣を侵したため、ついにこれで身を滅ぼした。
車師と趙充国の出兵論
- 車師王の烏貴靡は初め匈奴と和していたが、のち漢に降った。匈奴の攻撃を恐れて烏孫に逃げた。漢の使者鄭吉は渠黎で屯田しており、車師王の妻子を迎えて長安に送った。手厚く賞賜し、四夷の朝会では常に厚遇して見せつけた。
- そこで車師の太子の軍宿を車師王に立て、渠黎に移り住まわせ、鄭吉らは車師の旧地で屯田した。匈奴はこれを争い、漢の屯田する者を攻めた。
- 趙充国らは、匈奴が衰弱している今こそ出兵して撃つべきだと議した。丞相が諫めて言った。
- 乱を救い暴を誅するのを義兵といい、義兵の者は王となる。敵が自分に加えてきてやむを得ず応じるのを応兵といい、応兵の者は勝つ。小事に恨みを争って憤りを抑えられないのを忿兵といい、忿兵の者は敗れる。人の土地や財宝を利とするのを貪兵といい、貪兵の者は破れる。国の大きさを恃み人民の多さを誇り敵に威を示そうとするのを驕兵といい、驕兵の者は滅びる。これは人事だけでなく天の道である。
- 近ごろ匈奴は常に善意を示し、捕らえた漢の民はそのつど送り返し、辺境を侵していない。車師の旧地の田を争っているとはいえ、中国が意に介するほどのことではない。今、諸将軍が兵を興してその地を奪おうというが、愚かな臣にはこの兵を何と名づけるべきか分からない。
- 今、辺境は困窮しており兵を動かしにくい。軍旅の後には必ず凶年がある。民の愁苦の気が陰陽の和を傷つけるからである。出兵して勝っても必ず後の憂いがある。今、郡国の守・相はおおむね選抜が精密でなく、風俗はことに薄く、水旱は時を失い、郡国の盗賊は多い。手近を憂えず、遠い夷狄にわずかな憤りを晴らそうと兵を出そうとするのは、季孫の憂いは顓臾にあらずして蕭牆の内にあり、というものである。
- 帝はそこで車師の地を放棄した。
- 丞相はまた奏上した。「古には羲和の官があり、四時の節を承けて民の事を敬んで授けた。人君の動静が陰陽に順えば和気が応じて災害が起きない。高皇帝の時から四時を主る官がある。願わくは陛下、経に明るく陰陽に通じた者四人を選び、各一事を主らせ、その職掌を明言させて陰陽に順わせられたい」。帝はこれに従った。
- 丞相は掾吏に命じて郡国の事を調べさせ、休暇から府に帰るたびに四方の得失・珍しい見聞・盗賊・災変を報告させ、そのつど奏上して見聞を広めた。
烏孫
- この年、烏孫の昆弥が上書し、漢の外孫にあたる楚公主の子の元貴靡を後嗣とし、あらためて漢の公主を娶りたいと願い出た。帝は楚公主の弟の子の相夫を嫁がせることとし、敦煌まで送ったところで昆弥の死と元貴靡が立てなかったことを聞き、引き返した。
- 公主の侍者の馮嫽は、常に節を持って漢の公主の使いとして外国に赴き、外国から敬信されて馮夫人と呼ばれていた。帝は馮夫人を召して烏孫の情勢を問い、謁者に軺車で馮夫人を送らせ、節を持たせて昆弥に詔した。烏孫就居を小昆弥とし、元貴靡を大昆弥としたのである。二人の昆弥という制度はここに始まる。