霍光の死と霍氏の驕奢
- 春正月庚午、大司馬将軍霍光が重病となり、帝は自ら見舞って涙を流した。薨じると皇太后が自ら喪に臨み、太中大夫と御史が節を持って喪事を監督し、中二千石が幕府と墓塚を管理した。金銭・繒絮・刺繍の衾百領・衣五十篋を賜り、璧・玉・珠璣、玉含・棺・便房・黄腸題湊を各一具、樅木の外蔵の椁十五具、東園の温明秘器を、いずれも天子の乗輿の制度どおりに与えた。
- 霍光の柩は輼輬車に載せ、黄屋・左纛を付し、材官・軽車・北軍五校の兵を発して軍列を組み茂陵まで葬送した。諡は宣成侯。爵邑はそのまま伝えられ、後世まで蕭何のように免税とされた。
- 子の霍禹が嗣いで左将軍となり、さらに霍光の兄の子の霍雲を侍中・奉車都尉、雲の弟の楽平侯霍山を領尚書事とし、政を専らにしないことを示して霍氏を優遇した。
- 夏四月戊辰、皇太子を立て、天下に大赦した。
- 霍光が薨じたのち、夫人の顕は霍光生前に造らせた墓の制度を改めてさらに壮大にした。三つの出闕を建て、神道を築き、北は昭台に臨み南は罦罳を出し、輦道を華美に飾って永巷に通じさせ、良人・婢妾を閉じ込めて守らせた。屋敷を広く整え、乗輿の駕輦を作って刺繍の敷物を加え、黄金塗りの肘かけと韋絮を敷いた車輪とし、侍婢に五彩の糸で引かせた。顕は屋敷の中で遊び戯れ、霍光の寵臣だった監奴の馮子都と密通した。
- 霍禹・霍山らは屋敷を修築し、馬を走らせて競った。霍山の兄の冠軍侯霍雲は朝謁すべきときにしばしば病と称してひそかに狩りに出、あるいは蒼頭を代わりに朝謁させたが、誰も咎めなかった。顕と娘たちは昼夜、長信宮の殿中を際限なく出入りした。
- 帝が太子を立てると、顕は怒って飲食せず、三日間血を吐き、「これは民間の子だ。どうして立つのか。皇后に子ができたら、かえって王にされるのか」と言った。のち皇后に太子を毒殺するよう教え、皇后はたびたび太子を召して食を賜ったが、傅役が必ず先に毒味をしたので、皇后は毒を懐にしながら実行できなかった。
- 霍氏は御史大夫の家と道を争い、大夫の門を蹴破ろうとした。御史が叩頭して謝ってようやく奴は去った。その放縦ぶりはこの程度であった。
魏相と親政
- 御史大夫魏相が上書して、霍氏の驕奢は次第に大きくなって制しがたくなる恐れがあり、その盛んな権力を削ぎ落として万世の基を固め、功臣の子孫を全うさせるべきだと述べた。
- また、従来は上奏に二通の封書があり、うち一通は尚書に副本として控えられ、先に開かれて、内容が芳しくなければ奏上されなかった。魏相はこの副封を廃して情報が塞がれるのを防ぐよう建言した。帝はこれを善しとし、詔して魏相を給事中とした。魏相は字を弱翁といい、済陰の人である。
- こうして帝は自ら政務を執り、群臣は直接封事を奏上できるようになった。帝は五日に一度朝に臨み、丞相以下がそれぞれ職務に応じて奏事し、その言を採用して功績と能力を試験した。侍中・尚書は功労によって昇進すべき場合でも、厚く賞賜を加えてしばしば入れ替えなかった。枢機は周密で制度も整い、上下は安んじて、その場しのぎの気持ちを持つ者がいなくなった。
- 刺史・郡守・輔相を任命するときは必ず自ら引見して、そのよって来る所を観察し、退いてから行いを調べて言葉と照らし合わせた。名と実が合わない者があれば、必ずその理由を突き止めた。
- 帝はかつてこう言った。「庶民が田里に安んじ、怨恨や嘆息の心を持たないのは、政が平らかで訴訟が正しく裁かれるからだ。私とこれを共にするのは、良い二千石だけである」。長吏は民の本であり、しばしば替えれば下が安んじない。民が上役が長く留まると知れば欺かれる心配がなくなり、民は教化に従う。だから二千石はしばしば転任させてはならないとした。
- 治績のある者には璽書を下して励まし、秩を増し金を賜り、あるいは関内侯の爵にまで進めた。公卿に欠員が出ればその長ずるところを選んで順に昇進させた。こうして民はその土地に安んじ、吏はその務めに励んだ。
王吉の上書
- 当時、武帝の故事をかなり復活させ、宮室・車服は昭帝の時より盛んで、有能な吏を任用していた。諫議大夫の王吉が上書した。
- 今の世俗の吏で民を治める者は、礼義仁信にかなって代々通用させられるものを持たない。ただ刑を設けて取り締まり、それで治めようとするが、その拠って立つ所を知らない。思いつきで各人が場当たりに取るから、百里ごとに風が違い千里ごとに俗が違い、国ごとに政が異なり人ごとに俗が異なる。詐偽が芽生え刑罰に際限がなく、質朴は日々失われ、恩愛は薄れていく。孔子は「上を安んじ民を治めるに礼より善いものはない」と言ったが、これは空言ではない。
- 願わくば陛下は天心を承け大義を発し、大臣・公卿から儒生に至るまでを集めて礼楽を述べ王制を明らかにし、一世の民を仁寿の域に導かれよ。そうすれば治は成王・康王に、寿は高宗に劣ることはない。当世の風潮で道にかなわぬものを、条を分けて奏上する。
- 王吉はさらに言う。世俗では嫁娶が早すぎ、父母たる道も知らぬうちに子を持つ。だから教化が明らかでなく夭折する者が多い。妻を娶り娘を送るのに節度がないため、貧しい者は釣り合わぬことを恥じ、子を育てない者さえ出る。子弟を任用して官とするのは賢を挙げる義に反する。また漢家では列侯が公主を娶り、諸侯や列国が公主を迎えるが、男が女に仕え夫が婦に屈することになり、陰陽の位に逆らう。いずれも改めるべきである。
- 当時、帝は王吉の言を採らなかったので、王吉は病と称して帰郷した。
史論(荀悅曰)
- 公主を娶る制度は人の道の大きな倫理に関わる。昔、堯は二人の娘を嬀汭に降嫁させ虞舜の嬪とした。易には「帝乙が妹を嫁がせ、福ありて大いに吉」とあり、春秋には「王姫、斉に帰ぐ」とある。古の礼に達したありようである。
- 男が退けられ女が凌ぐようになれば、淫乱と暴虐の変が生じる。礼が上から崩れれば、下で乱れる者が多くなる。三綱の第一であるから、慎まぬわけにいかない。
- 大いなる教化を成す者は必ず古を稽え中庸を立て、その本を正すことに努める。およそ王吉の言うところは、古の道である。