石慶と万石君の家
- 春正月戊申、丞相の石慶が薨去した。
- 石慶は石奮の末子で、家は代々淳厚を行いとした。石奮の四人の子はみな孝と謹厳によって二千石に至ったので、景帝は合わせて「万石君」と号した。
- 万石君は宮門の闕を過ぎるときは必ず車を下りて歩き、天子の車馬を見れば必ず車の横木に手をついて礼をした。子孫のうち冠をつける年齢の者がそばにいれば、くつろいだ席でも必ず冠をつけて威儀を正した。召使いはのびのびとしていたが、ただ謹厳であった。武帝が家に食事を賜れば、頭を地につけ伏して食べ、まるで御前にいるかのようであった。喪に服すれば深く悲しみ、子孫も教えに従って同じようにした。その敬謹ぶりは郡国に聞こえた。
- 石奮の長子の石建は郎中令となった。上奏した文書が下げ渡され、石建がそれを読んで「馬」の字の点が一つ足りないのに気づくと、驚き恐れて「死罪だ」と言った。その畏れ方はこのようであった。武帝に申し上げるときは、人払いをしてもらって極めて率直に述べたが、列席の場では口も利けぬかのようであった。
- 石慶が太僕として供をしたとき、武帝が「車に馬は何頭か」と問うた。石慶は鞭で馬を数え終えてから手を挙げて「六頭です」と答えた。石慶は兄弟のうち最も軽やかな性質だったが、それでもこの調子であった。
- 孫たちはみな孝行だったが、なかでも石建が甚だしかった。万石君が没すると、石建は喪中に杖にすがってようやく歩けるほどになり、一年余りで死んだ。
- 石慶はもと斉の相となったが、斉の人はその家風を慕い、言葉を用いずに治まった。丞相となってからは、ただ篤実で謹直なだけであった。
政事と匈奴
- 太僕の公孫賀が丞相となった。
- 二月、河東に行幸して后土を祀り、天下に五日間の大酒宴を許した。膢の祭りを五日行い、門戸を祀ることを臘の祭りと同格とした。
- 夏五月、官吏や民から馬を借り上げて軍馬を補充した。
- 秋、蝗害。
- 峻稽将軍趙破奴を遣わし、二万騎を率いて朔方から出撃して匈奴を撃たせたが、匈奴の八万騎に包囲されて軍は全滅した。趙破奴は匈奴の中に十余年いて、のちに脱走して漢に帰った。
倪寛の生涯
- 冬十二月、御史大夫の倪寛が卒した。
- 倪寛はもと儒学によって身を立てたが、家が貧しく、博士に学ぶあいだは常に弟子たちの炊事係を務め、時には賃仕事をし、経書を腰に帯びたまま鋤を取り、休むたびに誦読した。
- 廷尉の下級役人となったが、実務に慣れないというので従史に落とされ、北地に移されて家畜の世話を数年した。
- 廷尉に戻ったとき、ちょうど判断に迷う奏上案件があり、二度突き返されて掾吏たちは手も足も出なかった。倪寛がその趣旨を述べると、案件はただちに裁可された。のちに武帝が張湯に「先の奏上は掾吏の書けるものではない。誰が書いたのか」と問うと、張湯は「臣の従史の倪寛です」と答えた。張湯はこれ以後、倪寛を奏讞の掾とし、侍御史に移した。武帝に謁見して『尚書』の経義について数事を問われ、太中大夫となり、左内史に昇った。民は倪寛を深く信頼し重んじた。
- のちに軍事の動員があったとき、左内史は粟の租税徴収を滞らせ、成績が最下位で免職に当たることになった。役人も民もこれを聞いて、租を運び、赤子を背負ってまで絶え間なく納めたので、成績は逆に最上位となった。