巡幸と泰畤
- 冬十月、雍に行幸して五畤を祀り、そのまま隴の崆峒に登って帰った。
- 十二月辛巳の朔の朝が冬至にあたり、初めて甘泉に泰畤を立てた。
南越の反乱
- 夏五月、諫議大夫の終軍と使者の安国少季を南越に遣わし、南越王を入朝させて内地の諸侯並みに扱おうとした。終軍は自ら願い出て、「大冠と長い纓の衣を受け、必ず越王の首に縄をかけて宮門の下に引き据えてまいります」と言った。
- 終軍が着くと越王は命に従い、武帝は大いに喜んで、南越王とその大臣に印綬を賜り、一律に漢の法を用いさせ、使者を留めて鎮撫させた。
- 王と太后は身支度を整えて入朝しようとしたが、越の相の呂嘉は内属を望まなかった。もと尉佗が、天子に仕えるからには礼を失わぬようにと言いながら、結局は甘言に釣られて入朝することはできない、それは亡国の道だと考えていた。だから尉佗も入朝しようとして果たさなかったのである。
- 王太后は酒宴を設けて使者と呂嘉らを招き、使者の権威を借りて呂嘉を誅そうとした。だが使者たちは互いに様子をうかがって誰も動かなかった。呂嘉はこれを察して急ぎ退出し、病と称してひそかに乱を企てた。
- 呂嘉は国中に触れを出した。「王は年若く、太后は中国の人で使者の安国少季と密通し、内属することばかり考えて、我ら越の民と社稷の万世の計を顧みない」と。そしてついに太后と王を攻め殺し、使者もことごとく殺した。
- 斉の相の卜式が上書し、父子ともに兵を率いて南越で死に、臣としての節を尽くしたいと願い出た。武帝は派遣はしなかったが立派だとして、関内侯の爵と黄金四十斤、田十頃を賜り、天下に布告した。
南越征討と酎金の事件
- 丁丑の晦、日食があった。
- 秋、宮門の下で蛙とひきがえるが争った。
- 武帝は伏波将軍の路博徳、楼船将軍の楊僕、戈船将軍の厳助、下瀬将軍の祖広明を遣わして南越を撃たせ、別路で咸陽から出撃させ、番禺城の下で合流させた。
- 九月、宗廟の祭祀に献ずる酎金が規定に合わないという罪で、爵を奪われた列侯が百六十人に上った。
- 楽通侯の欒大は欺いた罪で腰斬に処された。
- 西羌の十余万人が反乱し、匈奴と使者を通わせて安定を攻め、枹罕を包囲した。
- 匈奴が五原に侵入して太守を殺した。