前漢紀前漢孝武皇帝紀四 元鼎四年 前113年

后土の祠と周の後裔

  • 冬十月、雍に行幸して五畤を祀り、東へ汾陰に行幸した。
  • 十一月甲子、汾陰に后土の祠を立てた。礼が終わると滎陽に行幸し、帰途に洛陽に至って、詔して周王の後裔を尋ねさせ、庶子の姫嘉を得て周子南君に封じ、周の祭祀を継がせた。
  • 春二月、中山王の劉勝が薨去し、靖王と諡された。劉勝は酒を楽しみ女色を好み、男子が百二十余人もあった。

方士欒大

  • 夏、方術の士である欒大を楽通侯に封じ、位は上将軍とした。
  • 欒大は膠東の人で、方術によって武帝に説いた。「臣はかつて東海に行き、安期生や羨門の類に会いました。臣の師は、黄金は作れる、黄河の決壊は塞げる、不死の薬は得られる、仙人は招き寄せられる、と申しました。しかし臣は文成将軍の二の舞になるのを恐れます。そうなれば方術の士は口をふさいで何も言えなくなりましょう」と。
  • 文成将軍とは斉の人で、姓は李、字は少翁である。方術で取り立てられて文成将軍に拝され、武帝は客の礼で遇した。甘泉宮の中に太一や諸々の鬼神の像を描かせて祭祀を設け、それで神を招こうとしたが、一年余り経ってもその術に効き目がなかった。そこで李少翁は帛に字を書いて牛に食わせ、「牛の腹の中に不思議な書物がある」と偽った。牛を殺して見ると、武帝はその筆跡に見覚えがあり、問い詰めると果たして白状したので誅された。武帝は文成将軍を殺した後で後悔していた。
  • そこへ欒大を得て大いに喜び、欒大は大胆に物を言い、武帝はそれを疑わずに受け入れた。武帝が小さな術を試させると、碁石が自分から触れ合って動いた。
  • 欒大は「師を招き寄せることはできますが、陛下がぜひ招きたいとお望みなら、その使者を貴くし、親族の縁を結び、客の礼で遇されることです」と言った。
  • 武帝は欒大を五利将軍・天士将軍・地士将軍・大通将軍のあわせて四将軍に任じ、四つの印を与え、列侯として最上級の邸宅と奴僕十人を賜り、乗輿や厩の馬、帷帳、器物を与えて家を満たし、衛長公主を妻とし、黄金一万斤を贈った。武帝自らその家に赴き、公主・大臣・将軍・卿相以下がみなその家に酒を持参した。
  • さらに玉印を刻んで「天道将軍」とし、使者が羽衣を着て夜に白茅の上に立ち、欒大も羽衣を着て白茅の上に立って印綬を受け、臣下ではないことを示した。
  • 五利将軍はある夜、自宅で祭りを行って神を降ろそうとした。のち旅装して東海に入り、師を求めると称したが、泰山まで行って海には入らなかった。武帝が人をやって後をつけさせ確かめると、すべて出まかせで効き目がなかった。

李少君・公孫卿と神君

  • これに先立ち、方士の李少君は物を招き寄せ老いを退けられると称した。李少君が武安侯の家に座っていたとき、九十余歳の老人がいた。李少君が「あなたの祖父と狩りをした場所」の話をすると、老人は子どものころにその場所を知っていたので、一座はみな驚いた。武帝が古い銅器を見せて問うと、李少君は「これは斉の桓公十年に柏寝の下に陳列された器です」と答えた。刻まれた銘を調べると果たして斉の桓公の器で、当時、人は李少君を数百歳の人だと言い合った。
  • 李少君は、竈を祭れば物を招き寄せられ、丹砂は黄金に変えられ、その黄金で飲食の器を作れば寿命が延び、蓬莱の仙人に会える、会ってから封禅を行えば不死になる、黄帝がそれだ、と説いた。しかしその後は効かないことが多く、李少君は病死した。道士たちは、化して去ったのであって死んではいないのだと言った。
  • 斉の人の公孫卿は、黄帝は宝鼎を得て神と化して天に登ったと言い、讖書に「漢が興るのはちょうど黄帝の運に当たる。漢の聖徳ある者は高祖の孫にある」とあると説いた。武帝は「ああ、本当に黄帝のようになれるなら、わしは妻子を棄てるのを履を脱ぐようにみなす」と言い、公孫卿を郎に任じて太室で神を待たせた。
  • 当時、神怪や方術を説く者は万を数え、海に入って仙人を求める者は数千人に及んだ。武帝が東萊に行幸したとき、夜に身の丈数丈の大人を見たが、近づくと消え、大人の足跡だけが残っていた。しかしその後、方士たちの言はすべて験がなく、武帝は次第に厭き疲れたが、なお繋ぎ止めて絶やさず、いつか本物に当たることを望んでいた。
  • 武帝がかつて病んだとき、巫が武帝のために神君を招いた。貴い神は太一といい、その次は太禁・司命の類で、みなこれに従うという。姿は見えず声だけが聞こえ、その声は人の声と変わらない。去るときは風が吹きすさぶようであった。夜に来ることも昼に来ることもあり、部屋の帷幄の中にいることもあった。武帝は礼をしてから入り、巫を主人役として取り次がせ、飲食させ、言いたいことを言わせた。
  • また祈禱の官を置き、羽の旗を張り祭具を並べて、神君が居るという所を祀り、その言葉を人に記録させた。だがその内容は世間の者でも知っているようなことで、特別なところはなかった。それでも武帝は内心これを大いに良しとした。その事柄は秘密とされて伝わらず、武帝はそれを神と信じた。

史論(荀悅曰)

  • 『易』には天の道、地の道、人の道があると言う。それぞれがその理にかない、互いに乱れることがない。度を過ぎれば原因があり、気が変じてそうなるのである。
  • 大石がひとりでに立ち、倒れた柳がまた起き上がるのは形の異、男子が女に変わり死人が生き返るのは含気の異、鬼神が人間界にほのかに現れて言葉を発するのは精神の異である。
  • これらは形や神の怪異なのではなく、それぞれ同類のものに感応して起こるのである。善であれば瑞祥となり、悪であれば異変となる。瑞祥は吉を生み、悪は禍を生む。精気の交わりにおける自然の符合である。
  • だから天の理に逆らえば神がその節度を失って妖しい神がみだりに現れ、地の理に逆らえば形がその節度を失って妖しい形がみだりに生じ、中和の理に逆らえば血あるものが節度を失って妖しい物がみだりに生ずる。これが大筋である。
  • 神君の類は精神の異であって、求めたり請うたりして招けるものではなく、まして福を求め災いを祓えるものでもない。当人自身がなぜそうなるのか分からないのに、どうして神たりえよう。およそ物の怪はみなこれと同じである。
  • 『春秋伝』に「事を起こすのに時を得ず、怨みの声が民から起これば、言うはずのないものが言葉を発することがある」とある。武帝の世は賦役が煩雑で民の力は衰え、そのうえ神仙の術を好んだので、荒唐無稽で妖しげな者が四方から集まった。いずれも虚しく実がないもので、だから形のないものが言葉を発するに至ったのである。『洪範』に「僣れば時妖が生ずる」とあるのは、まさに怨みの声から生ずる時妖の類である。
  • ゆえに道に通じ、身を正して万物に応ずれば、精神も形気もそれぞれ本来に立ち返るのである。

その他

  • 秋、渥洼水の中から馬が生じた。
  • 九月辛巳、丞相の趙周が獄に下されて死んだ。丙申、御史大夫の石慶が丞相となった。
  • 常山憲王の劉舜の末子の劉裔を泗水王に立てた。