張湯の死
- 冬十一月、御史大夫の張湯が罪を得て自殺した。
- 御史中丞の李文は張湯と隙があった。張湯が目をかけていた役人の魯謁居がひそかに人をやって李文の不正を変事として告発させ、事件は張湯の手に下されて李文は論罪され殺された。張湯は魯謁居を厚遇し、魯謁居が病むと自ら足を揉んでやった。
- 趙王はかねて張湯を怨んでおり、「張湯は大臣でありながら属吏の魯謁居の足を揉んだ。ともに大それた悪事を働いたのではないか」と上書して告発した。
- 丞相長史の朱買臣らもかねて張湯を怨んでおり、こう言った。張湯が上奏しようとする案件を、寵愛する商人の田信らが事前に必ず知り、物を買い占めて富を成し、それを張湯と分けている、と。
- 武帝が問いただしたが張湯は罪を認めなかった。そこで武帝が使者を遣って厳しく責めさせると、張湯は書を残して謝し、「臣を陥れたのは三人の長史です」と述べて自殺した。
- 兄弟や子らが手厚く葬ろうとしたが、張湯の母は「湯は大臣でありながら悪評を受けて死んだのだ。厚葬など何になろう」と言い、牛車に載せ、棺だけで槨を用いなかった。武帝はこれを聞いて「この母でなければこの子は生まれぬ」と言い、朱買臣らをことごとく誅した。
張湯の人となりと狄山
- 張湯はもと文法を好んで厳酷に流れ、太中大夫の趙禹とともに律令を定めた。趙禹は少府まで進み、やはり厳酷だったが、その心は公に奉ずるにあって孤高を保った。これに対し張湯は才知を諂いに用いて世の主に取り入り、士大夫と交わり、諸公のもとへ寒暑をいとわず伺候して名声を得た。
- 武帝は張湯を深く信任し、朝廷で事を奏すると日が暮れるまで食事も忘れるほどだった。丞相は位を占めるだけで、天下の事はすべて張湯が決した。張湯が病むと武帝は自ら見舞った。
- 匈奴が和親を求めてきたとき、群臣が武帝の前で議した。博士の狄山が和親を良策とすると、張湯は「これは愚かな儒者の無知だ」と言った。狄山は「臣はもとより愚かですが、愚かな忠は、張湯の偽りの忠に勝ります」と答えた。
- 武帝は顔色を変えて「おまえに一郡を任せたら、敵の侵入を防げるか」と問うた。狄山が「できません」と答えると、「一県ならどうだ」と問い、また「できません」と答えた。「一つの砦ならどうだ」と重ねて問われ、狄山は追い詰められて獄吏に下されると悟り、「できます」と答えた。
- そこで狄山は一つの砦を守らされ、一か月余りで匈奴に首を斬られて去られた。これ以後、群臣は張湯を恐れて何も言えなくなった。
張安世
- 張湯の子の張安世は若くして郎となり、給事中・尚書となり、職務に精勤で、休暇にも外出したことがなかった。
- のち武帝が河東に行幸した際、書物三箱を紛失した。詔して問うても誰も分からなかったが、張安世だけがそれを覚えていて内容を書き出した。のちに元の書を買い求めて照合したところ、一字も欠けがなかった。武帝はその才を非凡と見て、抜擢して尚書令とした。
- 張安世は寛大で仁厚であり、父とは違っていた。
その他
- 十二月、丞相の厳青翟が獄に下されて死んだ。
- 春、柏梁台を建てた。三月、大雪が降った。辛亥、太子太傅の趙周が丞相となった。
- 夏、大水が出て、関中の餓死者は千人を数えた。
- 秋九月、詔を下した。仁は遠いからといって差別せず、義は困難だからといって辞さない。江陵が飢えて凍えているので、巴蜀の穀物を下して江陵に届けよ、と。博士を遣わして手分けして天下を巡らせ、飢えて困窮する者を救える官吏や民があれば、ことごとく挙げて報告させた。