前漢紀前漢孝武皇帝紀四 元鼎元年 前116年

宝鼎と吾丘寿王

  • 夏五月、天下に大赦し、五日間の大酒宴を許した。
  • 六月、河東の汾水のほとりで宝鼎を得た。宗廟に献じて示し、甘泉宮に納めた。鼎は差し渡し八尺一寸、高さ三尺六寸であった。
  • 群臣は伏して「陛下は周の鼎を得られました」と賀したが、侍中光禄大夫の吾丘寿王だけは「周の鼎ではありません」と言った。武帝が怒って召して問うと、寿王は答えた。「周に明徳があったので上天が報い、鼎は周のために現れました。だから周の宝だったのです。いま陛下は大業を盛んになさり、天の瑞祥がそろって現れています。昔、秦の始皇帝は自ら彭城県で鼎を引き上げようとしましたが得られませんでした。天は徳ある者を祝福し、宝鼎はおのずと現れるのです。これは天が漢に与えたもの、すなわち漢の宝であって周の宝ではありません」と。武帝は「よろしい」と言い、黄金五十斤を賜った。

弓弩禁止の議

  • これに先立ち公孫弘が、民が弓や弩を持つことを禁ずるよう奏上した。「一人の賊が弩を引けば、百人の役人も前へ出られない。だから盗賊を取り締まりにくいのだ」と。武帝は上下に議論させた。
  • 吾丘寿王は答えた。「大射の礼は天子から庶人まで行き渡るもので、三代の道です。聖人は射礼を整えて人を教えたとは聞きますが、弓矢を禁じたとは聞きません。奪い取る罪は死罪ですがそれでも止みません。人の悪事は重く罰しても避けられないのです。臣が恐れますのは、悪人は隠し持って役人が止められず、良民のほうは自衛のために罪に問われ禁を犯すことになり、これでは賊の威をほしいままにさせて民の助けを奪うことになります。ひそかに思いますに、悪事を禁ずる効果はなく、射を学ぶ者はその業を修められなくなり、まことに不都合です」と。武帝はこれで公孫弘を難詰し、公孫弘は屈服した。
  • 吾丘寿王は字を子贛といい、涿郡の人である。のち事件を起こして誅された。

徐偃の矯制と終軍

  • 済東王の劉彭離が罪を得て廃され、上庸に移された。
  • 博士の徐偃は天下の郡国を巡行する使者となったとき、詔勅を偽って膠東と魯国で塩と鉄の鼓鋳を行わせた。御史大夫の張湯が弾劾して、法により死罪に当たると奏した。
  • 徐偃は答えた。「『春秋』の義では、大夫が国境を出たとき、社稷を安んじ国家を利し万民を存らえられることであれば、独断で行ってよいのです」と。張湯はその論を屈服させられなかった。
  • 詔により中謁者の終軍が事情を問うことになった。終軍は徐偃に言った。「古は諸侯の国ごとに政も習俗も異なり、安危の情勢は息をつく間に変わったので、独断の義もあった。いま天下は一つであり、『春秋』の義では王者に外はない。おまえは封域の内を巡っていながら『国境を出た』と言うのはなぜか。それに塩と鉄は郡国に十分な蓄えがあり、二国で操業しなくとも害にはならない。それを社稷を安んずるためだと言い訳している。 おまえは先に挙げた三つの条件がそろわないのに、詔勅を偽って威福を独断した。これは明王が必ず誅を加えるところだ。そもそもおまえが鉄を鋳たのは、春の耕種に間に合わせて民に農具を行き渡らせるためだと言うが、いま魯で鼓鋳するには先に設備を整えねばならず、秋になってようやく火を入れられる。言うことと実際が食い違っている。 一尺を曲げて八尺を伸ばすことすら孟子は不可としたのに、いまおまえの犯した罪は重く、得られるものは少ない。おまえは必ず死ぬと分かっていてやったのか。それとも誅されまいと当てにして名声を取ろうとしたのか」と。
  • 徐偃は言い返せず、御史大夫のもとに下って罪に服した。
  • 終軍は済南の人である。十八歳で博士に選ばれ、郡府に着いて派遣の手続きを受けたとき、太守が賢者と認めて友として遇したが、終軍は太守に一礼しただけで去り、移って関に入った。関の役人が繻(通行の割符)を渡し、「帰るときに合わせるのだ」と言うと、終軍は「大丈夫が西へ旅立つのだ、むなしく帰りはせぬ」と言って繻を捨てて行った。のち終軍が謁者として郡国を巡る使者となり、節を立てて東へ関を出たとき、その役人は彼を見知って「これがあの、以前に繻を捨てた書生の使者だ」と言った。