前漢紀前漢孝武皇帝紀四 元狩六年 前117年

皇子の封建

  • 冬十月、雨が降ったが氷は張らなかった。
  • 夏四月乙巳朔、皇子の劉閎を斉王に立て、策書を賜った。その趣旨は次のとおりである。元狩六年夏四月乙巳、皇帝は御史大夫張湯を廟に遣わして皇子閎を斉王に立てる。ああ、若き閎よ、この青色の土を受けよ。朕は天の序を承け、古を尊んで稽え、汝の国家を建て、東の地に封ずる。代々漢の藩屏となれ。ああ、心せよ。朕の詔を敬んで受けよ。天命は常に一定ではない。人が明徳を好めばそれが顕れ、善からぬことがあれば、国に凶をもたらし、汝の身を害する。ああ、国を保ち民を有つのに、慎まずにいられようか。王よ、努めよ、と。
  • 皇子の劉旦を燕王、劉胥を広陵王に立て、いずれにも策書を賜った。
  • 六月乙卯、詔して博士六人を遣わし、手分けして天下を巡らせ、孤児や寡婦を見舞い、廃疾者を憐れみ、窮乏者を賑わし、孝悌を勧め、志を守る君子を推挙させた。

霍去病の死

  • 秋七月、大司馬驃騎大将軍の霍去病が薨去した。属国の兵を動員して黒い甲冑の列を長安から茂陵まで並べ、墓は祁連山に象って築き、景桓侯と諡した。
  • 霍去病は将として敢えて深く攻め入り、利があれば困難を顧みなかった。ただし士卒に糧食が欠けることもあった。武帝がかつて孫子・呉子の兵法を教えようとしたところ、「要は方略がどうかというだけです」と答え、古の兵法を踏襲しなかった。武帝が邸宅を造ってやろうとしたときは、「匈奴がまだ滅びていないのに、臣が家など構えていられましょうか」と答えた。
  • 霍去病が後に非常な寵貴を得ると、衛青の勢いは次第に衰え、賓客や旧友はみな衛青を去って霍去病に仕えた。ただ元の益州刺史の任安だけは去らなかった。
  • 霍去病は成人してから自分が霍仲孺の子だと知った。驃騎将軍として匈奴を撃つ途中、道が河東を通ったので霍仲孺を迎えて対面し、田宅と奴婢を多く与えて去り、帰りにまた立ち寄った。
  • 霍仲孺の末子の霍光、字は子孟は、当時十余歳であった。霍去病は霍光を連れて西へ関に入り、郎に取り立て、のち侍中に昇進させた。
  • 霍去病の死後、霍光は奉車都尉・光禄大夫となり、外出には同車し、宮中では側近くに侍り、禁門を出入りすること二十余年、小心謹慎で一度も過ちがなく、深く信任された。