推恩の令と主父偃の献策
- 冬、淮南王と淄川王に肘掛けと杖を賜り、朝見を免除した。
- 春正月、諸侯王が領邑を子弟に分与できるようにした。これによって藩国の子弟はことごとく侯となった。
- このとき主父偃が武帝に説いた。古代の諸侯の領地は百里を超えなかったが、いまの諸侯は数十城を連ね領地は千里四方に及ぶ。寛大にすれば驕り、厳しくすれば恨んで叛く。法によって削れば晁錯のときのように邪心・逆心が芽生える。いま諸侯の子弟は十数人もいるのに、嫡子が跡を継ぐだけで他は一尺の土地も得られない。陛下が諸侯に恩を推し及ぼして子弟に分与させれば、皆が望みを得て喜び、国を割いたわけでもないのに次第に弱まっていく、と。
- また主父偃は、茂陵が完成したのだから、天下の豪傑や土地を兼併する家をそこへ移せば、内には都を充実させ、外には悪辣な者を消せる、と説いた。
河南の地を取る
- 匈奴が上谷・漁陽に侵入した。将軍衛青・李息を雲中から出撃させ、西は符離に至って数千級の首級・捕虜を得、河南の地を収めて、北に朔方郡・五原郡を置いた。
- 衛青を長平侯に封じた。校尉の蘇建は功により平陵侯に封ぜられ、朔方城を築いた。校尉の張次公は功により岸頭侯に封ぜられた。
- 二月乙亥の晦、日食があった。
- 夏、民を募って朔方へ十万戸を移し、郡国の豪傑を茂陵に移した。
諸侯王の断絶と主父偃の族滅
- 秋、燕王の劉定国が罪を犯して自殺し、跡継ぎがないので国を除いた。定国は父の康王の姫と姦通して男子一人をもうけ、弟の妻を奪って姫とし、さらに自分の娘三人と姦通したため誅された。
- 斉王の劉次昌が自殺し、跡継ぎがないので国を除いた。これに先立ち主父偃は娘を斉の王宮に入れようとしたが、王太后が承知しなかった。当時斉王の宮中は淫乱であり、主父偃がこれを武帝に告げると、武帝は主父偃を斉の相に任じてこの件を正させた。主父偃が後宮の宦官を取り調べて斉王が姉妹と姦通したという供述を得、人をやってそれで王を揺さぶったところ、王は年若く恐れおののいて自殺した。
- 公孫弘は、斉王が憂えて死に後嗣が絶えたのは主父偃が元凶であり、主父偃を誅さねば天下に申し訳が立たぬと主張し、ついに主父偃は一族もろとも誅された。
- 主父偃は斉の人である。もとは山東で遊説したが用いられず、「男子たる者、生きて五鼎の食を並べられぬなら、死んで五鼎で烹られるまでだ」と言って西へ関に入った。貴顕の寵を得ると賓客が押し寄せたが、死ぬと誰も遺骸を引き取らず、ただ孔奢だけが葬った。武帝はこれを聞いて孔奢を長者だと評した。