- 冬、はじめて郡国に孝廉各一人を貢すよう命じた。董仲舒の議がはじめて用いられたものである。
董仲舒
- 董仲舒は廣川の人である。はじめ景帝の時に博士となり、帷を下ろして読書し、弟子は順に業を伝え合ったので、顔を見たことのない者もいた。三年のあいだ庭を覗かなかったほど精専であった。進退や物腰は礼によらぬことがなく、学士はみな師として尊んだ。
- のち賢良の挙に応じ、天子が策問して言った。文を守る君や政の中枢にある士で、先王の道を明らかにして世の主を輔けようとする者は甚だ多い。それでも成し遂げられない。操り持つところが統を失っているからか。それとも天が下した命は覆せないのか。必ず大いなる中庸に至ってはじめて止むのか。三代が命を受けた符はどこにあるのか。災異の変は何によって起こるのか。性命の情には夭折もあれば長寿もあり、仁もあれば鄙もある。その名は聞き慣れているが理は明らかでない。今、風を流し令を行き渡らせ、刑を軽くして姦を改めさせたい。何を修めればここに至るのか。詳しく述べて朕の意に応えよ、隠すところがあってはならぬ、と。
- 董仲舒が対えた。臣が謹んで春秋によって天と人の関わりを見るに、甚だ畏るべきものがある。国家が道を失って敗れようとするとき、天はまず災害を出して譴め告げる。それでも自ら省みなければ、さらに怪異を降して驚かせる。それでもなお改めなければ、傷敗が至る。大いに無道な世でない限り、天は扶け持って全く安んじようとしている。要は勉め強めることにある。勉め強めて学問すれば見聞は広く智は明るくなり、勉め強めて道を行えば徳は日々起こって大いに功がある。詩に「夙夜懈らず」といい、書に「懋めよ、懋めよ」というのは、みな勉め強めることを言う。
- 昔、周の道は幽王・厲王で衰えたが、道が亡んだのではなく、幽・厲が道によらなかったのである。宣王が文武の業を修めると周の道は輝いて再び至った。天の下した命が覆せぬのではなく、操り持つところが誤って統を失っていたのである。
- 人力によらずして自ずから至るもの、これが命を受けた自然の符である。天下が心を同じくして帰することが、子が父母に帰するようであるのも、命を受けた符である。天の瑞は精誠に応じて至る。書に「白魚が王の舟に入り、火が王の屋に返って流れて赤烏となった」というのは、命を受けた符であろう。
- 末代が衰微して徳義を廃し刑罰に任せると、刑罰が当を得ず邪気が生じる。邪気が下に積もり怨悪が上に蓄えられ、上下が和さなければ陰陽は乖き、妖孽が生じる。これが災異の起こるゆえんである。
- 命とは天の令、性とは生まれつきの質、情とは人の欲である。夭折も長寿も、仁も鄙もあるのは、陶冶されて成るものが純粋になりきれず、また治乱の生ずるところでもあって、一様にはできないからである。堯舜が徳を行えば民は仁で長寿となり、桀紂が暴を行えば民は鄙で夭折した。下が上に従うのは、泥が轆轤の上にあって陶工のなすがままになるようなものだ。「これを綏んずればすなわち安く、これを動かせばすなわち来る」とはこのことである。
- 臣が謹んで春秋によって王道の端を求めるに、それは「正」にある。正は王に次ぎ、王は春に次ぐ。春は天のなすところ、正は王のなすところである。その意は、上は天のなすところを承け、下は自らのなすところを正すというものだ。とすれば王者のなすことは必ず天道に則らねばならない。天道の大なるものは陰陽にあり、陽は徳、陰は刑である。刑と徳が失われなければ歳の功が成る。今、先王の徳教の官を廃して法を執る吏だけに任せ、それで徳化が四方に及ぶことを望むのは、まことに成りがたい。
- 春秋は「一」を「元」という。一は万物の始まるところ、元は言葉として本を意味する。一を元というのは、大いに治めるにはその本を正そうとする意を示すものである。だから人君たる者は、まずその本心を正して朝廷を正し、朝廷が正しくなって万民を正し、万民が正しくなって四方を正す。四方が正しくなれば遠近みな正しくならぬものはない。そうすれば陰陽は調い風雨は時に従い、群生は和し万物は育ち、福祥がことごとく至って王道が成る。
- 孔子は「鳳鳥至らず、河、図を出さず。われ已んぬるかな」と言った。これらを致せぬことを自ら傷んだので、身が卑賤で致せなかったのである。今、陛下は致し得る位に居られ、致し得る資質もお持ちである。それなのに天地がまだ一つに応じ瑞を示さないのは、ひとえに教化が立たず万民が正しくないからである。
- 民が利に走るのは水が低きに走るようなもので、教化の堤防がなければ禁じられない。聖人が乱世を継ぐときは、その跡を掃き除いて去り、改めて教化を修めて興す。秦は先聖の道を滅ぼして苟且の治を行ったから、立って十四年で亡んだ。その遺毒と余弊は今なお滅びていない。琴瑟の調子が甚だしく狂えば必ず弦を解いて張り直す。政を行って甚だしく行われなければ必ず変えて改め化す。漢は暴秦の後を承けたのだから、その跡を変えてこそよく治められる。
- 三代は互いに救い合った。夏は忠を尚び、商は敬を尚び、周は文を尚んだ。今、漢は周の文をやや減らし、夏の忠を用いるのがよい。王者には制を改める名はあっても道を変える実はない。祖とするところが異なるのは、病を救い衰えを扶けるためで、遭遇した変によるのである。
- また言う。古に功というのは、官に任じて職に称うことを美とし、日を積み年を重ねることを言わなかった。才の小さい者は日を重ねても小官を離れず、賢才は年浅くとも宰相となって差し支えない。だから有司は務めを尽くし業を治めた。今はそうではない。日を重ねて貴を取り、年を積んで官に至る。だから賢と不肖の実が明らかにならない。日月を功とせず、まことに賢能を実とすべきである。郡国にそれぞれ吏民の賢者を選ばせ、毎年一人を貢して宿衛に充てる。貢した者が賢ければ賞し、不肖なら罰する。こうすれば天下の賢能を率いて官に得られる。
- また言う。小を積む者は大となり、微を慎む者は著れる。善が身に積もるのは、日が長くなるように次第に増して人が気づかない。悪が身に積もるのは、火が膏を消すように人が見えない。情性に明るく流俗を察する者でなければ、誰がこれを識れよう。天が分け与えるところ、歯を与えたものには角を除き、翼を与えたものには足を二本にする。大きなものを受けた者は小さなものまで取ってはならないのだ。古の禄を食む者は民の力によって食わなかった。これが天意に適う。昔、公儀休は魯の相となって織り婦を去らせ、園の葵を抜いて言った。この身はすでに禄を食んでいる。その上に園夫や織女の利まで奪うのか、と。あくせくと財利を求めて常に不足を恐れるのは庶人の心である。あくせくと仁義を求めて常に民を化せぬことを恐れるのが大夫の心である。易に「負い且つ乗る、寇の至るを致す」という。君子の位にある者は庶人のように行ってはならぬということである。
- また言う。春秋は一統を大とする。一とは天地の常経であり、古今の通義である。今は師ごとに道を異にし、人ごとに論を異にし、百家は方向を異にして趣旨が同じでない。だから上は一統を保つすべがなく、法制はたびたび変わり、下は守るべきところを知らない。臣が愚かに考えるに、六芸の科にあらず孔子の術にあらざるものは、みなその道を絶ち、並び進ませてはならない。邪僻の説が滅び息んでこそ、統紀は一つにでき、法度は明らかにでき、民は従うところを知る、と。
- 董仲舒は対策によって江都の相に抜擢された。当時、易王は甚だ驕り勇を好んだ。仲舒に問うて言った。越王は大夫の種・后庸・范蠡と謀って呉を伐ち、ついに滅ぼした。孔子は殷に三仁ありと称えたが、寡人は越にも三仁があると思う、と。
- 仲舒は答えた。魯の君が齊を伐とうとして柳下惠に問うたとき、「なりません」と答え、帰ってから憂え顔で「国を伐つ相談を仁人にしてはならぬと聞く。この問いがなぜ私のところに来たのか」と言ったといいます。ただ問われただけでも恥じたのです。まして詐りを設けて呉を伐つとなればなおさら。ここから言えば越にはただの一仁もありません。仁人とは、その義を正して利を謀らず、その道を明らかにして功を計らない者です。だから仲尼の門では五尺の童子でも五覇を口にするのを恥じました。彼らが詐力を先にして仁義を後にしたからです、と。王は「よいことを言う」と言った。
- 仲舒は位を去って家に居ると、家産のことを一切問わず、学を修め書を著すことを事とした。著述は全部で百三十篇、春秋を説いた事どもがさらに数十篇ある。朝廷に大きな議があると、使者がその家に赴いて問うた。国家の大議は多く仲舒から発したものである。
その他の出来事
- 春二月丙辰の晦、日食があった。
- 車騎将軍の李廣が雲中に、車騎将軍の程不識が鴈門に屯して匈奴に備え、六月に解いた。
- 李廣は隴西の人である。将として士卒の心を得た。部曲や行陣を定めず、水草のよい所に宿営し、各人が思い思いに休み、刁斗を打って自衛せず、幕府の文書も少なかった。程不識は行伍・部曲・営陣を正し、刁斗を打って自衛し、吏が軍簿を極めて明確に整え、士卒は勝手にできなかった。それでいて二人とも名将であった。
- 夏四月、天下に赦を行い、七国の宗室で属籍を削られ絶えた者を復した。
- 五月、詔して賢良を挙げさせた。
- 秋七月癸未、晦の前日に日食があった。
- この年、天の星がすべて揺れ動いた。天子が星を候う者に問うと、「星が揺れるのは民が労するしるしです」と答えた。