- 春正月己巳朔、日食があった。
- 半両銭を行い、三銖銭を廃した。
- はじめて五経博士を置いた。博士はもと秦の官で古今に通じることを掌り、員数は数十人に及んだが、漢では五経に限って置いた。太常が十八歳以上で学を好む者を選んで弟子とし、郡国で文学を好み郷里を敬う者があれば、計吏とともに上京させて業を受け、弟子を補った。一年ごとに課試し、経の一芸に通じた者は文学掌故に補し、優秀な者は郎中とした。特に秀でた者は太常が名を報告し、才の劣る者や学に励まぬ者は退けた。
- 当時、廬江の人の文翁が蜀郡太守であった。学を愛し教化を好み、蜀の地が辺鄙で蛮夷の風があるのを見て、郡県の小吏で才器のある者を選び、費用を給して博士のもとに送って学ばせた。帰ればみな高い職に就け、察挙にも用いた。また城中に学宮を建て、学ぶ者の徭役を免じた。常に学宮の童子を選び、行く先々で身近に侍らせて書を授け、県を巡るたびに諸生を連れ、経を明らかにし行いを修めて教えを伝えた。県邑を出入りする姿を人々は見て名誉と思った。こうして蜀は大いに教化され、学ぶ者は齊魯に比べられるほどになった。郡国の学校官は文翁に始まる。
- 夏四月、平原君が薨去した。
- 五月、大蝗害があった。
- 秋八月、廣川王越が薨去し、清河王乘が薨去した。