前漢紀前漢孝景皇帝紀 後元元年 前143年

  • 春正月、詔を下した。獄は重大な事である。疑わしい獄について上申を命じたが、上申した結果が当たらなかったとしても、上申したことを過失としない、と。
  • 三月、天下に赦を行い、民に爵一級を賜った。中二千石と諸侯の相には右庶長の爵を賜った。
  • 夏、五日間の大酺を許した。
  • 五月、地震があった。
  • 秋七月丙午、丞相の周舎が免ぜられた。乙巳、晦の前日に日食があった。
  • 八月壬辰、御史大夫の衛綰が丞相となり、衛尉の直不疑が御史大夫となった。直不疑は南陽の人で黄老の術を好み、名を隠して目立たなかった。はじめ郎であったとき、同宿の郎で帰省する者が誤って別の同宿の郎の金を持って行った。金を失った郎が直不疑を疑うと、直不疑は金を買って償った。のち帰省した者が戻って事情がわかった。またある者が直不疑は兄嫁と密通していると誹ったが、直不疑は「私には兄がいない」と言うだけで、最後まで自ら弁明しなかった。呉楚が反したときは将軍となり、塞侯に封ぜられた。

周亞夫の最期

  • 條侯周亞夫が獄に下されて死んだ。父のために尚方工官の甲盾五百枚を葬具として買い、雇い人に手入れをさせて手間賃を払わなかった。雇い人が怒って変事として上告し、事は亞夫に及んだ。廷尉に召されて「君侯は反する気か」と責め問われた。亞夫は「臣が買ったのは葬具です。どうして反すると言われるのか」と答えた。吏は「君侯は地上で反さなくとも地下で反すつもりだろう」と言った。
  • 亞夫は捕えられる際に自殺しようとしたが夫人が止めた。廷尉に至ると五日間食を絶ち、血を吐いて死んだ。
  • 亞夫が河内太守だったころ、許負が人相を見て言った。君侯は三年で侯となり、八年で将、九年で相となり、人臣として並ぶ者なき貴さになる。その後は餓死するだろう。縦の筋が口に入っているのは餓死の相である、と。三年して兄の勝が罪を得て免ぜられ、文帝は亞夫を封じて絳侯の後を継がせた。その後はことごとく許負の言った通りになった。
  • 天子が栗姫の子の太子を廃そうとしたとき、亞夫は強く争ったが容れられなかった。天子はこれ以来、亞夫を遠ざけた。また梁孝王は呉楚に囲まれたとき亞夫が救わなかったことを怨み、朝するたびに太后に亞夫の短所を言った。
  • 太后が兄の王信を封じたいと言うと、天子は謙譲して許さなかった。太后は「人はそれぞれ時に応じて事を行うものだ。竇長君は在世のとき侯になれず、死んでから子の彭祖が侯になった。私はこれを甚だ恨んでいる。帝は早く信を侯にしなさい」と言った。天子は「丞相と相談させてください」と答えた。亞夫は言った。高皇帝は約して、劉氏でなければ王とせず、功がなければ侯としない、約に従わぬ者は天下が共にこれを撃つ、とされました。約に外れます、と。天子は黙り、封じなかった。

史論(荀恱曰)

  • 高皇帝は白馬を刑して盟い、劉氏でなければ王とせず、功がなければ侯とせず、約に従わぬ者は天下が共にこれを撃つ、と言った。これは下が上を犯して兵を興すことを教えるものであり、乱の階梯である。もし後の人がこれを修めなければ、盟約は行われないことになる。書に「法は上に行われ、下に行われるのではない」という。これを典範とするのは通らない。

  • 匈奴の徐盧ら五人が降り、天子はこれを封じようとした。亞夫は言った。彼らは自分の王に背いた。陛下がこれを封じたら、どうして人臣に節を守れと責められましょうか、と。天子は「丞相の議は用いられない」と言い、五人ともことごとく封じた。

史論(荀恱曰)

  • 春秋の義では、夷狄に許すのは一度で十分とはしない。もし利害でこれを決めるなら、功によって封ずるとして、逃亡してきた臣にも等差をつけて賞せばよく、土地を分け与える必要はない。

  • 天子はあるとき禁中にいて亞夫を召し、食を賜ったが、大きな肉の塊だけを置いて切り分けず、箸も置かなかった。亞夫は心中不平で、席を掌る者を顧みて箸を取らせ、亞夫は前に進んで食べた。退出した後、天子は目で見送って「あれは不満げで、幼い主の臣ではない」と言った。亞夫はしばしば天子の意に逆らったので罪を得たのである。