前漢紀前漢孝景皇帝紀 後元二年 前142年

  • 冬十月、詔して列侯を国に赴かせる数を減らした。
  • 春、匈奴が鴈門に侵入し、太守の馮敬が戦って死んだ。車騎と材官を発して鴈門に屯させた。この年は不作だったので、馬に粟を食わせることを禁じ、馬に粟を食わせた者は没収した。
  • 皇后の兄の王信を蓋侯に封じた。
  • 夏四月、詔を下した。彫文刻鏤は農事を損なうもの、錦繡纂組は女工を害するものである。農事が損なわれれば飢えの根本となり、女工が害されれば寒さのもととなる。飢えと寒さが同時に至れば、非を犯さずにいられる者は稀である。朕は自ら耕し、后は自ら桑を摘んで宗廟の粢盛と祭服に供し、天下の先とした。献上を受けず、太官の費を減らし、徭役と賦を省いた。天下が農桑に努め、常に蓄えを持って災害に備え、強者が弱者を凌がず、多数が少数を虐げず、老人が天寿を全うし、孤児幼児が育つようにと願ってきた。
  • 今、年によっては不作で民の食が乏しい。その咎はどこにあるのか。偽って吏となり、賄賂で取引し、百姓から盗み奪い、万民を侵し侮る者がいる。県丞や長吏が姦法を放置して盗と同罪なのは、まことに言語道断である。二千石はそれぞれその職を修めよ。職務を果たさず乱れさせる者は、丞相が奏上してその罪を請え。天下に布告して朕の意を明らかに知らせよ、と。
  • 漢の初めから農を勧めることに努め、代を重ねて業を継ぎ、この頃になってはじめて天下は富み栄え、家々に足り人々に余裕ができた。京師の銭は数百億に積まれ、貫き縄が朽ちて数えられず、太倉の粟は満ちあふれて外に露積みされ、腐って食べられないほどであった。庶民は街路に馬を持ち、田の畦の間には馬が群れをなした。里門を守る者すら上等の穀と肉を食べ、吏となった者は子孫の代まで同じ職にあり、官にある者はその官を姓や号とした。人々は自らを大切にして法を犯すのを重んじ、仁義が興った。