- 冬、匈奴の老上単于が辺境を侵し、十四万騎で蕭関に入り、北地都尉の卬を殺した。彭城まで至り、騎兵を入れて回中宮を焼いた。斥候の騎が雍にまで達し、烽火が甘泉まで通じた。
- 天子は王将軍を遣わして隴西・北地・上郡に屯させ、中尉の周舎を衛将軍、郎中令の張武を車騎将軍として渭北に軍を置いた。単于に対する備えとして騎卒十万を動員し、天子は自ら軍を労い、兵車を整えて吏卒に賜与した。
- 天子は自ら匈奴を征そうとし、群臣が諫めても聞かなかったが、皇太后が強く止めたのでやめた。東陽侯張相如を大将軍とし、内史の欒布らを将軍として匈奴を撃ち、塞を出て軍は帰還した。
馮唐の直言
- そのころ天子が輦で郎署を過ぎ、七十余歳の郎署長である馮唐を見かけて、なぜ郎などしているのか、家はどこかと尋ねた。趙の者だと答えると、天子は言った。私が代にいた頃、尚食監の高袪がしばしば趙の将李齊の賢さと鉅鹿の戦いを語った。食事のたびに思いは鉅鹿にある。老人はそれを知っているか、と。
- 馮唐は、李齊は廉頗・李牧の将としての器には及ばない、祖父は趙で将卒として廉頗に親しみ、父は代郡の将として李牧に親しんだので人柄を知っている、と答えた。天子は「ああ、廉頗・李牧のような将を得られたら匈奴など憂えぬのに」と嘆いた。馮唐が「陛下は得ても用いることはできますまい」と言うと、天子は怒って禁中に入った。
- しばらくして馮唐を召し、「衆人の前で私に恥をかかせたな。人のいない場所もあったろうに。なぜ私が用いられぬと言うのか」と問うた。馮唐は謝ったうえで答えた。
- 古の王者が将を遣わすときは、跪いて車の轂を推し、閫(門の内)は寡人が制し、閫の外は将軍が制する、軍功と爵賞はすべて外で決すると言った。李牧が趙の将として辺境にいたときは軍市の税をすべて自分で用いて士卒をもてなし、賞賜は外で決して中央に伺いを立てなかった。任せて成果を責めたので、李牧は智力を発揮し、北は単于を逐い東胡を破り澹林を滅ぼし、西は強秦を抑え、南は韓・魏を防いだ。この時、趙はほとんど覇者となるところであった。ところが趙王遷が立って郭開の讒言を用い李牧を殺したため、秦に滅ぼされた。
- 今、魏尚が雲中守として軍市の税をことごとく士卒に給し、私財を出して五日ごとに牛を殺して士卒をもてなしたので、匈奴は遠く退いて雲中の塞に近づかなかった。虜が大挙して侵入したときも魏尚は車騎を率いて撃ち、多く殺傷した。しかし幕府に功を報告する際、首級の数を六つ誤ったため、文吏が法をもって縛り、陛下はこれを吏に下して爵を削り罰した。賞は行われず、吏は法を必ず適用する。陛下は賞が軽すぎ罰が重すぎる。ゆえに廉頗・李牧を得ても用いることはできますまい、と。
- 天子は喜び、その日のうちに馮唐に節を持たせて魏尚を赦し、再び雲中守とした。馮唐は車騎都尉に任じられ、中尉および郡の車騎士を統べた。景帝の時に楚の相となり、名臣として終わった。
史論(荀恱曰)
- 孝文のような明君、治まった朝廷、賢い百寮のもとで、賈誼は退けられ、張釋之は十年顧みられず、馮唐は白髪になるまで郎署に屈していた。惜しむべきことである。絳侯周勃ほどの忠功で社稷を存らえた者すら疑われた。痛ましい。賢を知るのは難しく、人を用いるのは易くない。忠臣の道は古来難しく、明るい世でさえこうなのだから、乱れた君や暗い主のもとでは言うまでもない。それを思えば屈原が湘水に身を投げ、伍子胥が革袋に入れられて江に沈められたのも、恨むには足りない。
- 周勃は質朴忠誠で、高祖は劉氏を安んじる者は必ず勃だと言った。漢室を定めて明主を立てた、その篤い心に変わりはない。それが失脚して囚われ、首を垂れ襟を撫でて獄吏に屈した。哀れなことである。
- 忠臣が主に仕えるのは孝子が親に仕えるのと同じで、心を尽くし力を尽くす。進んで喜ぶのは地位を貪るのではなく、退いて憂えるのは寵を懐かしむのではない。心に志を結び、慕う思いが尽きない。時を得て進めばその道を行うのを楽しむ。だから仲尼は魯を去るとき「遅々として行く」と言い、孟軻は齊を去るとき三泊してから境を出た。まことに仁聖の心である。
- 賈誼が湘水を過ぎて屈原を弔い、痛切に嘆いたのも、ただの憤りや怨みではない。地位を失うことばかり気にする者とは種類も心も違う。梁王の傅となり、王が薨じて泣いて後を追ったのは、忠でないと言えようか。それを人主が察しないのは悲しいことである。釋之が屈して帰郷を思い、馮唐が困窮して後にようやく世に出たのも、痛ましい。これが忠臣の血涙し、賢俊の傷心するゆえんである。
晁錯の兵事上書
- 天子が匈奴を憂えていたところ、太子家令の晁錯が兵事について上書した。
- 用兵で刃を交える際の急所は三つ、地形を得ること、卒が訓練に習熟していること、器物が精良であることである。兵法に言うとおり、深い溝や水、山林・積石・丘阜・草木のある地は歩兵の地で、車騎は二をもって一に当たらない。土山や平陵が連なる平原広野は車騎の地で、歩兵は十をもって一に当たらない。見通しが遠く山谷幽澗で高きから低きを臨む地は弓弩の地で、短兵は百をもって一に当たらない。両陣が近く平地で草の浅い地は長戟の地で、剣楯は二をもって一に当たらない。葦や竹、草木が茂り枝葉の重なる地は矛鋋の地で、長戟は二をもって一に当たらない。曲がった道で伏兵が潜み険阨が迫る地は剣楯の地で、弓弩は三をもって一に当たらない。
- 士が選練されず卒が習熟せず、起居が精しからず動静が揃わず、利に進むのが遅く難を避けるのも徹底せず、前が撃っても後ろが崩れ、金鼓の指図と食い違う。これは卒を訓練していない過ちで、百をもって十に当たらない。
- 兵器が鋭利でなければ素手と同じ、甲が堅密でなければ裸と同じ、弩が遠くに届かなければ短兵と同じ、射ても当たらなければ矢がないのと同じ、当たっても貫かなければ鏃がないのと同じである。これは将が兵を点検しない禍で、五をもって一に当たらない。
- 兵法に言う。器械が鋭利でなければ卒を敵に与えるのに等しく、卒が使えなければ将を敵に与えるに等しく、将が兵を知らなければ主を敵に与えるに等しく、君が将を選ばなければ国を敵に与えるに等しい。この四つが用兵の要である。
- また、大小で形が異なり、強弱で勢いが異なり、険易で備えが異なる。身を尽くして強者に仕えるのは小国の形であり、蛮夷をもって蛮夷を攻めるのは中国の形である。
- 今、匈奴は地形と技芸が中国と異なる。山坂を上り下りし渓澗を出入りするのは中国の馬が及ばず、険しい道を傾きながら馳せつつ射るのは中国の騎が及ばず、風雨や疲労・飢渇に苦しまないのは中国の人が及ばない。これが匈奴の長技三つである。
- 平原の平坦な地で軽車と突騎を用いれば匈奴の衆は乱しやすい。勁弩と長戟で疎らに遠くまで射れば匈奴の弓は防げない。堅甲利刃で長短を交え、遊弩が往来し什伍がそろって前進すれば匈奴の兵は当たれない。材官が一斉に矢を放って的を同じくすれば匈奴の革の楯や木の楯は支えられない。下馬して地上で戦い剣戟を交えて迫れば匈奴の足は追いつけない。これが中国の長技五つである。
- 匈奴の長技は三、中国の長技は五。陛下が数十万の衆を挙げて数十万の匈奴を討つのは、多寡の計算では一をもって十を撃つ術である。
- とはいえ兵は凶器、戦は危事である。大が小となり強が弱となるのは一瞬のことだ。小人が死をもって勝ちを争って躓き、立ち直れなくなれば悔いても及ばない。帝王の道は万全から出るべきである。
- 今、降った胡や義渠など蛮夷で帰順した者が数千人いる。飲食も長技も匈奴と同じである。彼らに堅甲・絮衣・勁弩・利矢を賜い、辺郡の良騎を加え、その習俗を知り心をまとめられる明将に率いさせる。険阻な地ではこれを当て、平地の通じた道では軽車と材官で制する。両軍が相対したとき、表裏それぞれの技を用い、さらに衆をもって加える。これが万全の術である。
- 伝に「狂夫の言も明主は択ぶ」という。愚陋な臣錯は死を冒して狂言を奉る、陛下の裁択を願う、と結んだ。
- 天子はこれを嘉し、璽書を賜って厚く答えた。「皇帝、敬んで太子家令に問う。述べた兵の要は聞き届けた。書に『狂夫の言も明主は択ぶ』というが、今はそうではない。言う者が狂でなく択ぶ者が明でないので、万を聞いて万が当たらないのだ」と。
晁錯の辺境屯田策
- 晁錯は再び上言した。遠方の士が塞を守っても一年で交代し、胡人の能力を知らない。常住する者を選び、家族と田作の道具を備えさせて防備に当てるがよい。便のよい地に高城と深い塹を築き、その外にもう一つ城を作り、内城との間を百五十歩とする。要害の地で山川の道が通じるところに城邑を調え立て、千家を下らぬ規模とし、中国のための垣根とする。まず家屋を作り、次に農具を備える。罪人や、刑期を終えて労役に服す者を募って住まわせる。足りなければ、奴婢一人で罪を贖う者や、奴婢を献じて爵を得ようとする者を募る。それでも足りなければ、行くことを望む民を募り、みな高爵を賜い、その家の賦役を免じ、冬夏の衣服と食糧を給し、自給できるようになれば止める。郡県の民には爵を買って自分の爵を増すことを許す。
- 夫のない者、妻のない者には県官が買って与える。人情として配偶者がなければ長く安んじて住めない。塞下の人は禄利が厚くなければ危難の地に長く居させられない。胡人が侵入して人畜を駆り去ったとき、それを止めた者にはその半分を与え、県官がその民を贖う。こうすれば邑里は互いに救い合い、死を恐れず胡に立ち向かう。上に恩を売るのではなく、親戚を全うし財を利するためである。これは地勢に不慣れで心中胡を畏れる東方の戍卒に比べて、功は万倍になる。天子はこれに従った。
- 晁錯はさらに述べた。古の遠方への移民で空虚を実たしたときは、陰陽の和を見、土地の適否を審らかにしてから邑城を営み、田作の道を通じ、阡陌の界を正した。まず住まいを築き、一堂二室、門戸の開閉を備え、器物を置いた。移住する者に居所と用具があってはじめて、民は故郷を軽く去って新しい邑に赴く気になる。医者と巫を招いて疾病を救い、祭祀を修め、男女には婚姻があり、死生に助け合い、墳墓を並べ、家が安らかである。こうして民はその地を楽しみ、長く住む心を持つ。
- また古の辺県の制は敵に備えるためのものであった。五家を伍として長を置き、十長で一里、里に假士を置き、四里で一連、連に假率を置き、十連で一邑、邑に假侯を置く。いずれもその邑の賢才で地形に習熟し民情を知る者を選ぶ。居れば射法を習い、出れば民に応敵を教える。伍が内に成れば軍の統制が外で定まる。習熟して成ったら移住させてはならない。幼い頃から共に遊び、長じて共に事に当たれば、夜戦では声で互いを知って救い合え、昼戦では目で互いを見て識別でき、愛し合う心は互いのために死ねるほどになる。そのうえで重賞で励まし重罰で威せば、踵を返さず死ぬ。
徳運の議論
- 春三月、詔を下した。昔の先王は広く施して報いを求めず、望祠して福を祈らなかった。賢を右にし縁者を左にし、民を先にし己を後にした。至って明らかな極みである。今聞けば祠官の祝釐はみな福を朕一身に帰し、百姓のためにしていない。朕は甚だ恥じる。これは朕の不徳を重ねるものだ。祠官には敬を致すだけで祈るところのないようにせよ、と。
- 魯の公孫臣が上書し、秦は水徳であり、これに勝てないものからすれば漢は土徳に当たるはずで、その符瑞として黄龍が現れるだろうと述べた。丞相の張蒼は律歴を好み、漢を水徳とし、黄河が金堤を決したのがその符だとして、公孫臣の説は誤りだとしてこれを退けた。そこで張蒼の議に従い、色は外を黒、内を赤とし、水徳に従うこととした。