前漢紀前漢孝文皇帝紀下 十三年 前167年

  • 夏、祕祝の官を廃した。詔に言う。祕祝の官は天子の過ちを下々に転嫁するもので、朕はこれを取らない、廃止せよ、と。
  • 名山大川のうち諸侯の封内にあるものは各自が祀ることとし、天子の官は管轄しないこととした。齊と濟南の国が廃されたため、太祝に命じて時節ごとに赴いて祀らせた。

肉刑の廃止

  • 夏五月、肉刑を廃する詔を下した。当時、齊の太倉令である淳于公が罪を得て刑に当たった。淳于公には娘五人がいて男子がなく、かつて娘たちを罵って「女ばかりで男が生まれぬ、いざという時に役に立たぬ」と言っていた。
  • 末娘の緹縈は嘆き泣いて父に従って長安に至り、上書した。父は吏として齊国で廉直公平と称されたのに、今法に触れて刑に当たる。死んだ者は生き返らず、刑を受けた者は元に戻せない。過ちを改めて出直そうにもその道がない。自分が官の奴婢となって父の刑を贖い、父に再起の道を与えてほしい、と。
  • 天子はその志を哀れみ、令を下した。教え導きが行き届かず愚民が罪に陥る。行いを改めて善に向かおうとしても道がない。刑は手足を断ち肌膚を刻み、生涯もとに戻らない。何と痛ましく道理に合わぬことか。肉刑を廃し、これに代わるものを設けよ、と。こうして律を改定した。
  • 六月、民の田租を免除する詔を下した。

史論(荀恱曰)

  • 古は十分の一を税とし、これを天下の中正とした。今の漢の民は百分の一の税であり、軽いと言える。しかし豪強や富人が過度に土地を占有し、小作の民はその収穫の大半を地主に納めている。官は百分の一を取り、民は大半を私人に取られる。官の恩恵は三代より優れているのに、豪強の暴虐は亡秦より酷い。これは上の恩恵が通らず、威福が豪強に分たれているということである。
  • 根本を正さずに租税の免除だけに努めるのは、富強な者を利するだけである。土地は天下の根本であり、春秋の義では諸侯は勝手に封を立てられず、大夫は勝手に土地を持てない。今の豪民は数百千頃を占め、富は王侯を超える。これは自ら封を立てるに等しく、売買を自由にするのは自ら土地を専らにするに等しい。
  • 孝武の時に董仲舒が民の占田を制限すべきだと述べ、哀帝の時にようやく三十頃を上限としたが、制度はあっても結局施行されなかった。そもそも三十頃という上限自体も公平ではない。
  • 井田の制は民が多い時に適する。土地が広く民が少なければ行わなくてよい。しかし民の少ない時に廃し、民の多い時に立てようとすると、既に土地は豪強の手にあり、これを取り上げれば怨みが生じて紛乱を招き、制度は行いにくい。
  • そこから見れば、高帝が天下を定めた初めや光武の中興の後のような人口の少ない時期であれば立てやすかった。井田の法をすべて備えられずとも、人口に応じて占田の上限を科として定め、民に耕作は許して売買は禁じ、弱い民を養い兼併を防ぐべきである。それが制度の基礎を作ることになる。古今で制度は異なり時に応じて増減はあっても、大綱の趣旨は一つである。

史論(本志曰)

  • 古は歩と畝を定めた。六尺を一歩、百歩を一畝、百畝を一夫、三夫を一屋、三屋を一井とし、井は一里四方で、九夫を八家で共有した。一夫一婦は私田百畝と公田十畝を受け、合わせて八百八十畝、残る二十畝を廬舎とした。出入りに行き交い、望めば互いに見え、病めば助け合った。
  • 民の受ける田は、上田は一夫百畝、中田は二百畝、下田は三百畝で、毎年場所を入れ替えた。家に男子が多ければ余夫として同じく人数に応じて田を受けた。士・工・商の家は五人でようやく農夫一人分の田を受けた。
  • 賦と税があった。税とは公田の十分の一および工商・山林川沢に携わる者から取るもの、賦とは車馬・兵士・徒役を供するものである。民は二十歳で田を受け、六十歳で返した。
  • 穀は必ず五種を混ぜて災害に備え、田の中に樹を植えて五穀を妨げてはならない。力を尽くして耕し何度も草を取り、収穫は賊が来たかのように急いだ。廬に帰れば桑を植え、菜を畦に作り、瓜・瓠・果蓏を畔に植え、鶏・豚・狗・豕を時節を失わずに養った。女は蚕と機織りに励んだ。五十歳で絹を着られ、七十歳で肉を食べられた。
  • 五家を比、五比を閭、四閭を族、五族を党、五党を州、五州を郷とし、郷は一万二千五百戸。比長は下士の位で、上に行くごとに一級ずつ上がり、郷に至って卿となる。閭には序、郷には庠があり、序で教えを明らかにし、庠で礼を行って教化を示した。
  • 春は民をことごとく野に出す。その詩に「同我婦子、饁彼南畝、田畯至喜」という。冬はことごとく邑に入れる。その詩に「嗟我父子、曰為改歳、入此室処」という。春に民を出すときは、閭の長が夜明けに右の畔に、比長が左の畔に座り、皆が出てから帰る。夕も同様で、帰る者は必ず薪を持ち、重さは分け合い、白髪の者には持たせない。
  • 冬に民が入ると、婦人は同じ路地で夜に糸を紡ぎ、女工は一月に四十五日分の仕事を得た。必ず集まってするのは、灯火の費用を省き、巧拙を揃え、習俗を合わせるためである。男女で境遇に恵まれぬ者があれば、歌を詠み合って心情を述べた。
  • この時期、成年前の子は序室にいる。八歳で小学に入って六家・四方・五行・書計を学び、十五歳で大学に入って先王の礼楽と君臣の礼を学ぶ。秀でた者は郷学に移り、庠序で優れた者は国学に移る。諸侯は毎年小学の優秀者を貢し、天子の学に移して太学で学ばせ、造士と名づけ、その後に爵と官を与えた。
  • 孟春の月には諸侯が民を散じ、行人が木鐸を振って路を巡り詩を採る。これを太師に献じ、音律を整えて天子に聞かせた。
  • 三年耕せば一年分の蓄えが余る。ゆえに三年で成果が出る。王者が三年ごとに功績を考課し、三回の考課で黜陟を行うのはこのためである。九年耕せば三年分の食が余り、業が日々進む。これを升平という。三たび升れば泰といい、二十七年で九年分の食が余る。これを大平といい、王業が完成し、刑罰は置かれたまま用いられず、王道が興る。ゆえに「王者あらば必ず一世を経て後に仁なる」といい、書に「天秩に礼あり、天罰に罪あり」という。聖人は天秩によって五礼を制し、天罰によって五刑を制した。
  • 司馬の官を置き六軍の衆を設け、井田によって軍賦を定めた。一里四方を井、十井を通、十通を成(成は十里四方)、十成を衆、十衆を同(同は百里四方)、十同を封、十封を畿(畿は千里四方)とする。四井を邑、四邑を丘とし、丘(十六井)は戎馬一匹と牛三頭を出す。四丘を甸とし、甸(六十四井)は戎馬四匹・兵車一乗・牛十二頭・甲士三人・歩卒七十二人を出し、干戈を備える。これを司馬の法という。
  • 一同は百里、堤封して一万井、山川・坑塹・城池・邑居・園囿・街路の三千六百井を除き、賦を出すのは六千四百井、戎馬四百匹・兵車百乗。これは卿大夫の采地の大なるもので、百乗の家という。一封は三百六十六里、堤封十万井、賦を出すのは六万四千井、戎馬四千匹・兵車千乗。これは諸侯の大なるもので、千乗の国という。天子の畿は千里四方、堤封百万井、賦を出すのは六十四万井、戎馬四万匹・兵車万乗である。
  • 戎馬・兵車・徒卒・干戈は平素から備え、春は振旅して蒐、夏は茇舍して苗、秋は治兵して禰、冬は大閲して狩を行う。いずれも農閑期に軍事を講じた。
  • 五国を属として長を置き、十国を連として率を置き、三十国を卒として正を置き、二百十国を州として牧を置く。連と卒の長は毎年車徒を検閲し、卒正は三年ごとに輿徒を、群牧は五年ごとに大規模に輿徒を検閲した。これが先王が土地を定め、業を定め、民を組織し、教えを立て、武を立て兵を足らしめた大法である。

張釋之の裁き

  • 天子が渭橋を過ぎたとき、橋の下にいた者が飛び出して乗輿の馬が驚いた。捕らえて廷尉に下し、釋之が取り調べた。男は遠方の県の者で、蹕(通行止め)を聞いて橋の下に隠れ、長く待って通り過ぎたと思って出たところ車騎を見て走り出しただけだと答えた。釋之は蹕を犯した罪として罰金を科すと上奏した。
  • 天子は怒り、「この者が私の馬を驚かせた。馬がおとなしかったからよいが、他の馬なら私は怪我をしていたはずだ」と言った。釋之は答えた。法は天子が天下と共有するものである。今これを重くすれば法は民に信じられなくなる。廷尉は天下の公平の要であり、ここが一たび傾けば、天下の法の運用はみな軽重が狂い、民は身の置きどころを失う、と。天子は「よし、廷尉はそうあるべきだ」と言った。
  • のち高廟の坐前の玉環を盗んだ者があり、廷尉に下された。釋之は棄市に当たると上奏した。天子は激怒し、「無道にも先帝の器を盗んだのだ、一族を誅したい」と言った。釋之は、法ではこれで十分である、万一愚か者が長陵の土を一杯掘ったなら、陛下はそれ以上どんな法を加えるのか、と述べた。天子は納得し、「廷尉はそうあるべきだ」と言った。
  • 釋之は法の議論が公平であることで朝廷に重んじられた。あるとき公卿が大勢集まって庭に立っていたところ、黄老の言に通じた老いた処士の王生が召されて出席し、釋之を顧みて「私のために靴下を結んでくれ」と言った。釋之は跪いて結んだ。散会後、ある者が王生を責めると、王生は答えた。私は老いて身分も低く、張廷尉に何の益もない。張廷尉は今まさに名臣である。だから靴下を結ばせて、その名を重からしめようとしたのだ、と。