前漢紀前漢孝文皇帝紀上 二年 前178年

節倹の政

  • 冬十月、丞相の陳平が薨じた。諡は献侯。
  • 十一月乙亥、周勃が再び左丞相となった。
  • 癸卯の晦、日食があった。詔して賢良方正・直言極諫の士を挙げさせた。
  • このころ上は政事に励み、身をもって節約を行い、百姓を安んずることを思った。身には粗い黒絹を着、寵愛する慎夫人の衣は裾を地に曳かず、幃帳に文様はなかった。かつて露台を作ろうとして費用が百金と見積もられると、「これは中流の民十家の財産だ」と言って取りやめた。

賈誼の農本論

  • 太中大夫の賈誼が説いた。「管子に『倉廩が満ちて礼節を知る』とあります。民が足りないのに治まった例は聞いたことがありません。古人は『一人の男が耕さなければ誰かが飢え、一人の女が織らなければ誰かが凍える』と言いました。生産には時があるのに消費に限度がなければ、物力は必ず尽きます。かつ凶作は天の常のこと。もし不幸にして方二三千里に及ぶ旱が起これば、国は何をもって救うのか。にわかに辺境に急変があれば、数百万の兵に国家は何を送るのか。今の急務は、末端の技芸と遊んで食う者の小細工を断ち、民を農に帰すことです」。

鼂錯の貴粟の議

  • 太子家令の鼂錯もまた説いた。「今の土地と人民は古に劣らず、堯・湯のような水旱の災もないのに、蓄えが古に及ばぬのはなぜか。土地に余った利があり、民に余った力があり、穀を生む土地がまだ耕し尽くされず、山沢の利も出し尽くされず、遊食の士がまだ農に帰していないからです。
  • 飢えと寒さが肌に迫れば、慈母でも赤子を守れません。まして君主がどうして民を保てましょう。金玉宝貨は飢えても食えず寒くても着られませんが、人がこれを貴ぶのは上が用いるからです。物として軽く小さく蔵しやすく、掌に握って海内を巡っても飢寒の心配がない。これでは臣下は主に背くのを軽んじ、民は郷里を去るのを容易にし、盗賊は勢いづき、逃亡者は手軽な元手を得ます。
  • 粟や米、布や帛は地に生じ時に従って育ち市に集まるもので、一日では作れません。一日得られなければ飢えと寒さが同時に襲います。だから明王は五穀を貴び金玉を賤しむのです。
  • 今、農夫五人の家では働ける者は二人を超えず、耕せるのは百畝を超えず、百畝の収穫は三百石に過ぎません。春に耕し夏に植え秋に収め冬に蔵し、四季を通じて休む日がない。そのうえ官に納め徭役に応じ、病や難儀に苦しむ。これほど勤め苦しんでも、時に水旱や蝗の災に遭い、厳しい政と過酷な賦、朝に令が出て夕には取り立てられる。持つ者は高く売り、持たぬ者は倍の利で借りる。こうして田宅を売り子孫を売って借財を償う者が多いのです。
  • 一方、商人は大きな者は買い占めて倍の利を得、小さな者は店を並べて売り買いする。その男は耕さず女は蚕を飼わず、衣は必ず重ね染めの綵、食は必ず何品もの肉。農夫の苦労なしに百倍千倍を得る。その富にまかせて王侯と交わり、力は吏の権勢を凌ぎ、利で人を傾け、良馬に乗り肥えた馬に鞭打って千里を遊び歩く。これが商人が農民を併呑し、農民が流亡する所以です。
  • 今、漢の法律は商人を賤しむのに商人はすでに富貴であり、農夫を尊ぶのに農夫はすでに貧賤です。主の貴ぶものが世俗の賤しむもの、法の卑しむものが吏の尊ぶもの。上下が相反し好悪が食い違ったままで、国を富ませ法を立てようとしても得られません。
  • 今の急務は農を本とし、民に生業を励ませることに尽きます。人に農を務めさせるには粟を貴くすること、粟を貴くする道は民に粟をもって賞罰を受けさせることです。今、天下に募って辺塞の下に粟を納めさせ、爵を授け罪を免じられるようにすれば、富人は爵を得、農民は粟のはけ口を得、粟が動いて国の用は足ります。三年とかからず塞下の粟は必ず多くなるでしょう」。上はこれに従った。

史論(荀恱曰)

  • 聖王の制は綱紀を立て、その道義を明らかにすることにある。一時しのぎの策は、必ずその公の義を推し量り、時宜を測ったうえで、やむを得ないときにだけ用いる。大きな事故がなければ用いないものである。

富商の跋扈

  • 春正月、詔して籍田を開いた。
  • 漢の初めは国家が簡素で制度が備わらず、衣食や資糧に制限がなかったので、富める者は有り余り、貧しい者は足りなかった。
  • 蜀郡の卓氏は家僮千余人、程鄭は七、八百人を擁し、いずれも山川の銅鉄の利を独占し、算盤をはじいて上は王者の利を争い、下は庶民の生業を占めた。宛の孔氏の類は車騎を連ねて王侯と交わり、財貨や賄賂を売買し、悠然と手を垂れたまま座して百倍の利を得た。みな王の禁を犯し、不軌に陥っていた。

史論(荀恱曰)

  • 先王が政を立てるには制度を本とした。三正・五行・服色・暦数は天の制を承けるもの。国を経営し民を秩序づけ、官を並べ職を配り、土地を区画して種類を分け、方位を弁じ物を定めるのは人倫の度である。上から下まで段階をつけて順序がある。
  • 上に定まった制があれば政は偏らず、下に定まった制があれば民は二心を抱かない。官が度を越さなければ事は乱れず、民が度を越えた贅沢をしなければ生業は廃れない。貴い者が寵を独占せず、富める者が独り奢らなければ、民は財を積んでも使い道がない。ゆえに世俗は満ち足りやすく情は溢れず、悪事は起こらず禍乱も生じない。これこそ先王が天下を綱紀し、大業を統べ成し、徳を立て功を興した、政の徳である。
  • ゆえに「権量を慎み、法度を審らかにし、廃れた官を修めれば、四方の政は行われる」というのである。

先王の制度(本傳の説)

  • 「本伝」に言う。先王の制では、天子・公侯・卿大夫以下、門番や夜回りに至るまで、爵禄・奉養・死生の制にそれぞれ等級があり、小は大を僭さず、賤は貴を越えなかった。だから上下に序があり、民の志は定まった。
  • そのうえで土地の適性に応じて分け、種を播き家畜を養うことを教え、時に従って節度をもって用いた。草木がまだ落葉せぬうちは斧を山林に入れず、豺や獺がまだ獲物を供えぬうちは網を野や沢に張らず、鷹隼がまだ撃たぬうちは矢を小道に仕掛けなかった。時に順って物を取り、そのうえ山では若芽を刈らず、田では幼い獣を狩らず、豚・魚・小鹿・卵にもみな常の禁があった。時に順って気を巡らせ、諸物を殖やし、用を足すためである。
  • こうして備えたうえで四民を働かせ、土地に適したものに従わせ、その知力に任せ、住まいに安んじ生業を楽しませ、食を甘しとし衣を美しとさせた。欲は少なく事には節度があり、財は足りて争わなかった。
  • 周室の道が衰えると礼法は崩れ、諸侯は垂木を彫り柱を朱に塗り、大夫は斗栱を山形にし梁の束柱に藻を描き、その流れは士や庶人にまで及んで、誰もが制度を離れた。耕す者は減り商う者が増え、穀は不足し貨は余った。
  • 衰えは桓公・文公の後に及んで礼義が大いに壊れ、上下は互いに冒し、国ごとに政が異なり家ごとに俗が違い、奢侈に歯止めがなく僭越に限りがなくなった。そこで商人は得難い品を通わせ、工人は無用の器を作り、士は道に背く行いを設けて時流の好みを追い世の資を得、偽りの民は実を捨てて名を求め、姦悪の徒は危険を冒して利を求めた。簒奪し殺して国を取った者が王公となり、脅し奪って家を成した者が侯伯となった。礼義は君子を制するに足りず、刑戮は小人を威すに足りなかった。
  • 富める者は木や土まで文繡で覆い、犬馬に豆や粟を飼い、貧しい者は短い粗衣も満足でなく、粗末な物を食い水を飲んだ。同じ編戸の民でありながら財力で追い詰め合い、下僕同然にされても怒りの色さえ見せない。
  • こうして偽り欺いて悪事をなす者は一代のうちに満ち足り、道を守り理に従う者は飢寒の憂いを免れない。この風潮が上から起こったのは、法度に限りがなかったからである。
  • ゆえに『易』に「君は財を成し天地の宜しきを助けて民を導き、物を備えて用を致し、象を立て器を成して天下の利とする」とある。制度を立てることを言うのである。

人事と誹謗の罪の廃止

  • 太子太傅の張相如が免ぜられ、太中大夫の石奮が太子太傅となった。石奮は趙の人で、はじめ小吏として高帝に仕え、恭敬謹慎で厚い信任を受けていたので、選ばれて太子の傅となった。
  • 趙王遂の弟の辟強を河間王、朱虚侯章を城陽王、東牟侯興居を済北王に立て、皇子の武を代王、参を太原王、揖を梁王に立てた。
  • 夏五月、詔を下した。「古には誹謗の木があり、諫言を通す道であった。今の法には誹謗・妖言の罪がある。これでは臣下は心を尽くさず、上は自分の過ちを聞く手立てがない。今これを廃す」。
  • 秋九月、初めて郡守に対して銅の虎符と竹の使符を作った。