周勃の帰国と辟陽侯の死
- 冬十月丁酉の晦、日食があった。十一月乙卯の晦、また日食があった。
- 詔を下した。「先に列侯に国へ行くよう命じたが、辞して行かぬ者がいる。丞相は朕の重んじる者である。朕のために列侯を率いて国へ行け」。そこで周勃を免じて国へ行かせた。
- 十二月、太尉の灌嬰を丞相とし、太尉の官を廃した。
- 四月、城陽王の章が薨じた。
- 淮南王長が辟陽侯の審食其を殺した。もと高帝八年に趙を通ったとき、趙王が美人を献じ、寵を得て身ごもり、厲王長を生んだ。趙王は敢えて宮中に入れず、外宮を築いて住まわせた。貫高の事件で王家がことごとく捕らえられたとき、厲王の母も拘禁された。その弟の趙廉が辟陽侯を通じて呂后に取りなしを求めたが、呂后は嫉妬して口添えせず、辟陽侯も強く争わなかった。厲王が生まれると、母は憤って自殺した。趙廉が厲王を長安に送り届け、高帝は憐れんで呂后に母代わりをさせた。
- 厲王は才力があり、鼎を持ち上げるほどの力があった。辟陽侯が母を救わなかったのを恨み、辟陽侯を訪ねて袖から金槌を出して打ち殺し、闕に馳せて肌脱ぎになり罪を請うた。上は赦して罪に問わなかった。
匈奴の侵入と済北王の反乱
- 五月、匈奴が北地・河内を侵した。丞相の灌嬰がこれを撃ち、衛将軍は長安に駐屯した。上は自ら高都に至り、ついでに太原に行幸して群臣や旧知の者に会い、みなに下賜し、功を挙げて賞を行い、晋陽と中都の民の租を三年免除した。太原に留まって十余日遊んだ。
- 済北王の興居は上が自ら胡を撃つと聞いて兵を発し、反した。
- 秋、大旱。七月、上は太原から帰還した。八月、将軍の柴武が済北王興居を撃ち、興居は自殺した。興居に与して反した者は赦した。