代王の迎立と即位
- はじめ大臣が代に王を迎えに来たとき、郎中令の張武は「大臣は信用できない。王は病と称して行かず、変化を見るべきだ」と論じた。
- 中尉の宋昌は「群臣の議はみな誤りです」として三つの理由を挙げた。第一に、秦が政を失って豪傑が並び起こったが、ついに天子の位に即いたのは劉氏であり、天下は他への望みを絶っている。第二に、高帝が子弟を王として犬の牙が噛み合うように制し合わせた、いわゆる盤石の宗室があり、天下はその強さに服している。第三に、漢が興って秦の苛政を除き、人々は安んじていて動揺させにくい。
- さらに宋昌は「今、大臣が変を起こそうとしても百姓は使われず、その一味とてどうして一つにまとまれましょう。かつ内には朱虚侯・東牟侯という親族があり、外には諸侯の強さがある。異心はありますまい。高帝の子は淮南王と大王だけで、大王は年長であり、賢聖の評判は天下に聞こえている。だから大臣は大王を迎えたのです。お疑いなさいますな」と述べた。
- 卜うと大横の兆が出た。占いに「大横は庚庚たり、われは天王となり、夏の啓のように輝く」とあった。
- 王は舅の薄昭をやって太尉周勃に会わせ、戻ってから出発した。群臣は渭橋で迎えた。太尉周勃が進み出て「左右を退けて申し上げたい」と言うと、宋昌が「公のことなら公の場で言え。私のことなら、王者に私はない」と言った。周勃は跪いて天子の璽を捧げた。王は辞退して「邸に着いてから議そう」と言った。
- 閏月の朔、代の邸に赴き、王は西を向いて帝位を三度辞退し、南を向いて二度辞退し、ついに皇帝の位に即いた。宋昌を衛将軍として南北の軍を統べさせた。天下に赦し、民に爵一級を賜り、五日間の酒宴を許した。
論功行賞と太子の擁立
- 冬十月、皇帝が高廟に謁した。車騎将軍の薄昭が皇太后を代から迎えた。
- 太尉周勃に一万戸と金五千斤、丞相陳平と将軍灌嬰にそれぞれ邑三千戸と金三千斤、朱虚侯章と襄平侯通に二千戸と金千斤を賜った。
- 十二月、趙の幽王の子の遂を趙王に立て、琅邪王の沢を燕王に移した。妻子を没収し連座させる法を廃した。
- 春正月、有司が早く太子を立てるよう請うたが、上は謙譲して聴かなかった。有司が固く請うと、上は「諸侯王や功臣には賢者が多く、必ずしも自分の子とは限らぬ。朕が賢者や有徳の者を忘れて自分の子に決めたと思われては、天下を憂える所以でない」と言った。
- 有司は「嗣を立てるのに子とするのは古くからのならわしです。今、嫡子を立てるべきなのに諸侯や宗室に求めるのは高帝のお志ではありません。子の啓は最年長で敦厚慈仁です。太子にお立てください」と請い、上は許して立てた。
- 将軍の薄昭を軹侯に封じた。
竇皇后
- 三月、皇太子の母の竇氏を皇后に立てた。
- もと孝恵のときに宮女を出して諸王に五人ずつ賜ったことがあった。竇姫の家は清河にあったので、係の吏に賄して趙へ行きたいと願ったが、吏が誤って代の組に入れた。竇姫は泣きながら赴いたが、代に至って主君の寵を得て景帝を生んだ。代の皇后とその四人の子はみな先に亡くなったので竇姫が皇后となった。
- 兄を長君、弟を広国、字を少君といい、長安に住んだ。絳侯らは「我らの命はこの二人にかかっている」と言い、賢者を選んで同居させた。そのため二人はみな謙譲な君子となった。
貧民救済と人事
- 詔を下した。「今まさに春が和らぎ、草木も群れ生きる物もみな自ら楽しむものがある。ところがわが百姓のうち、身寄りのない者や困窮した者はみな死に瀕しているのに、誰も顧み憂えない。朕は民の父母である。どうすべきか。救い貸し与える方法を議せよ」。そこで布帛・米・肉を下賜した。ただし肉刑や死罪以上の者にはこの令を適用しなかった。
- 楚の元王交が薨じた。
- 丞相陳平が病んで太尉周勃に位を譲り、周勃が左丞相で位は第一、陳平が右丞相で位は第二となった。大将軍の灌嬰が太尉となった。
- 上が周勃に「天下で一年に裁く訴訟と、銭穀の出入りはどれほどか」と問うと、周勃は知らないと謝し、大いに恥じ入った。上が陳平に問うと、陳平は「陛下が訴訟のことをお尋ねなら廷尉に、銭穀のことなら治粟内史にお責めください」と答えた。上が「では君の主るのは何事か」と問うと、「陛下は臣の駑鈍を知らずに宰相の任に置かれました。宰相は上は天子を助けて陰陽を調え、下は万物の宜しきを遂げさせ、外は四夷を鎮撫し、内は百姓を親しませ、公卿大夫にそれぞれの職を得させるものです」と答えた。上は「よし」と言った。
- 周勃は退出して陳平に「君は日ごろわしに教えてくれなかった」と言い、陳平は「その位にありながら、その任を知らずにおられたのですか」と答えた。
- ある者が周勃に「あなたは諸呂を誅して代王を立て、威は天下を鎮め、厚い賞を受けて尊位にある。長く続けば禍が身に及ぶ」と言った。周勃は病と称して相の印を返し、陳平が右丞相に転じた。
南越との和解
- 太中大夫の陸賈を越に使いさせ、上は尉佗に書を賜った。「朕は近ごろ南越王が自ら治めるにまかせてきた。とはいえ王が帝を号し、二人の帝が並び立ちながら一台の使者も道を通わさぬのは争いである。争って譲らぬのは仁者のすることではない。王の兄弟は真定にいる。すでに人をやって見舞わせ、王の先祖の墓を修めさせた。王とともに前の憂いを捨て、今後は元どおり使者を通わせたい」。そこで陸賈を遣わして意を伝えさせた。
- 南越の蛮夷大長老夫の臣佗はこう答えた。「高后が讒臣を信じて蛮夷として区別されたので、号を改めてしばらく自ら慰めたにすぎません。自分の国で帝を称しましたが、天下に害をなすつもりはありません。老夫が早く起き夜遅く寝み、寝ても席が安からず、食べても味がしなかったのは、漢に仕えられなかったためです。陛下が幸いにも臣を哀れみ、元どおり使者を通わせてくださるなら、老夫は死んでも骨は朽ちません。もはや帝を称しません」。そして謹んで北面し、使者に託して献上した。
災異と恩賞
- 夏四月、斉と楚で地震があり、二十九か所で同日に山崩れが起こり、大きく崩れて水が湧き出た。「本志」は水が土を害するしるしだとする。
- 六月、郡国に献上物を送らせぬよう命じた。衛将軍の宋昌を壮武侯に封じた。また高帝に従って蜀・漢に入った列侯にはみな邑を加増し、二千石以上の吏で高帝に従った者にはみな食邑を与えた。
- 斉王襄が薨じた。