前漢紀前漢髙后紀 元年 前187年

高后の臨朝と諸呂の封王

  • 高后は孝恵の張皇后に後宮の美人の子を取って養わせ、その生母を殺して太子とし、皇帝に立てた。皇帝は幼く、高后が朝に臨んで称制した。
  • 兄の子の呂台を楚王、台の弟の呂産を梁王、呂禄を趙王とし、諸呂六人を列侯に封じた。
  • 高皇后が諸呂を王にしようとして右丞相の王陵に諮ると、王陵は「高皇帝は天下を定めたとき白馬を殺して盟い、劉氏でない者が王となれば天下が共にこれを撃つ、と仰せられました」と答えた。左丞相の陳平と太尉の周勃に諮ると、二人は「高帝は天下を定めて劉氏を王とされました。今、陛下が称制して呂氏を王とされるのも差し支えありません」と答えた。后は喜んで朝を退けた。
  • 王陵が陳平・周勃を責めて「諸君は盟約に背いた。どの面下げて地下の高帝にまみえるのか」と言うと、周勃は「面と向かって朝廷で争うことでは臣はあなたに及ばぬ。だが漢の社稷を安んずることではあなたは臣に及ばぬ」と答えた。
  • 后は王陵を帝の太傅に左遷して、実質的に丞相の権を奪った。王陵は病と称して免ぜられ、門を閉ざして出なかった。

審食其と朱建

  • 冬十一月、丞相の陳平を右丞相に移し、辟陽侯の審食其を左丞相とした。食其は沛の人である。呂后が楚に捕らわれていたとき、食其は舎人として仕えて寵を得た。丞相となっても政務を執らず、宮中の事を監督し、郎中令を兼ね、群臣はみな彼を通じて事を決した。
  • 以前、食其を惠帝に讒言する者があり、惠帝が誅そうとした。平原君の朱建が惠帝の寵臣である閎籍孺に説いた。「あなたが帝に寵愛されていることは天下に知れ渡っている。今、辟陽侯は太后の寵臣でありながら獄に下された。世間はみなあなたが讒言したと言っている。今日、辟陽侯が誅されれば、明日は太后が怒りを含んであなたを誅すだけだ」。籍孺は恐れて帝に取りなし、食其は釈放された。
  • 朱建はもと黥布の相で、黥布が反したとき諫めて止めようとした。高帝は朱建に平原君の号を賜った。朱建は弁が立ち、はじめは廉直で妥協しない人物と評判だった。辟陽侯が交際を求めても応じなかった。
  • 朱建の母が死んだとき、家が貧しくて葬れなかった。陸賈が辟陽侯に会い「平原君の母君が亡くなりました」と告げた。辟陽侯が「なぜ私に祝いを言うのか」と怪しむと、陸賈は「平原君があなたと交わらなかったのは母君のためです。今その母君が亡くなり、葬る資がない。あなたが手厚く葬儀を助ければ、彼はあなたのために死ぬでしょう」と説いた。食其は百金を贈り、列侯や貴人も食其の縁で贈って合わせて百金となり、朱建はこれを受けた。
  • 呂氏が誅されたとき、食其がついに命を全うできたのはみな朱建の力である。後に淮南厲王長が食其を誅したとき、朱建は食其の食客であったために累が及び、自殺した。

元年の施策

  • 春正月、詔を下した。「孝恵帝は三族に及ぶ罪と妖言の罪を廃そうとされたが、議が決しないうちに崩じられた。今これを廃す」。民に一戸あたり一級の爵を賜った。
  • 夏五月丙申、趙王の宮中の叢台に火災があった。
  • 孝恵の美人の子五人を立て、強を淮陽王、不疑を恒山王、弘を襄城侯、朝を軹侯、武を壺関侯とした。
  • 秋七月、桃と李が花を咲かせた。
  • 高后は御史大夫の趙堯がかつて趙王のために策を立てたことを怒り、堯を免じて罪に問い、上党太守の任敖を御史大夫とした。