築城と献果
- 十月、雷が鳴り、桃・李・杏・棗が実った。暑さが続いたためである。
- 春正月、京師から六百里以内の男女十四万五千人を徴発して長安城を築き、三十日で解散させた。
- 三月、帝が離宮に遊んだ折、叔孫通が「古は春に果物を献ずるならわしでした。今ちょうど桜桃が熟しています。どうか陛下、これを取って宗廟に献じてください」と言った。諸種の果物を献ずるのはこれに始まる。
叔孫通の来歴と礼制
- 叔孫通は秦のとき待詔として召されていた。陳勝らが挙兵すると二世皇帝が群臣・博士に問い、群臣・博士はみな「君主や親に対しては謀反の意を抱くだけで必ず誅す。急ぎ兵を出して反賊を撃つべきです」と答えた。二世は怒った。叔孫通が進み出て「今、明主が上におられ法令は下に行き届いています。どうして反賊などおりましょう。あれは犬泥棒鼠泥棒の類にすぎません」と言うと、二世は「反」と言った者たちを取り調べて誅し、叔孫通を博士に任じた。叔孫通は退出して「危うく虎口を逃れた」と言い、そのまま逃亡し、後に漢に従った。
- 天下が定まると、叔孫通は魯の儒生・学者を召して儀礼と法式を定めようとした。魯で招いた二人は行くのを拒み、「あなたは人臣として不忠、ただ面前で媚びて諫めず、その場しのぎで身を全うしてきた。今は戦乱が止まず死傷者も収容されていないのに礼楽を定めようとする。去りなさい、我らを汚すな」と言った。叔孫通は「おまえたちは本当に卑しい儒者だ、時の移り変わりを知らぬ」と言って去った。
- 漢の諸儀礼はみな叔孫通の定めたものであるが、なお草創の域で十分には整っていなかった。
礼楽論(本志曰)
- 礼楽は聖人が教化を興し治を致すもとであり、太平の本である。「本志」に次のように言う。
- 五経の道は帰するところは同じだが、礼楽の働きこそ急を要する。身を修める者が一瞬でも礼を忘れれば粗暴が忍び寄り、国を治める者が一朝でも礼を忘れれば荒乱が及ぶ。
- 人は天地陰陽の気を含み、善悪・喜怒哀楽の情を持つ。人は異なる性を受けていて自ら節することができない。聖人だけがこれに節度を与えられるが、絶やすことはできない。そこで天地に象って礼楽を制し、神明に通じ、人倫を立て、情性を正し、万事に節度を与えるのである。
- 男女の情と嫉妬の心があるから婚姻の礼を定め、交わりに長幼の順があるから郷飲の礼を定め、死を悼み遠祖を思う情があるから喪祭の礼を定め、上を敬い崇める心があるから朝覲の礼を定めた。喪には哭し踊る作法があり、楽には歌舞の姿がある。正しい人にはその情を十分に表させ、邪な人にはその逸脱を防ぐのである。
- ゆえに婚姻の礼が廃れれば夫婦の道が欠けて淫らな罪が増え、郷飲酒の礼が廃れれば長幼の順が失われて争訟が増え、喪の礼が廃れれば肉親の情が薄れて死者に背き生を忘れる者が多くなり、朝覲の礼が廃れれば君臣の位が乱れて侵犯の兆しが起こる。
- 孔子は「上を安んじ民を治めるのに礼にまさるものはなく、風を移し俗を変えるのに楽にまさるものはない」と言った。礼は民の心を節し、楽は民の声を和らげ、政でこれを行い、刑でこれを防ぐ。礼・楽・刑・政の四つが行き渡って背かなければ王道は備わる。
- 楽は内を治めて同一化し、礼は外を修めて区別する。同一化すれば和やかに親しみ、区別すれば畏れ敬う。和し親しめば怨みがなく、畏れ敬えば争わない。会釈と譲り合いで天下を治めるとは、礼楽のことを言うのである。
- 二つは並び行われて一体をなす。畏敬の心は見えにくいので、供物を捧げ辞退し受け、昇り降りし跪き拝む所作に表す。和親の思いは形になりにくいので、詩歌や詠唱、鐘・石・管・弦に発する。敬意を尽くしても財貨を多く費やさず、歓びを尽くしても音曲に溺れない。
- 孔子は「礼だ礼だと言うが玉帛のことか、楽だ楽だと言うが鐘鼓のことか」と言った。明王が礼楽を設けた根本を説いたのである。
- 礼楽の情を知る者は創作でき、礼楽の文を識る者は祖述できる。作る者を聖といい、述べる者を明という。王者は必ず先王の礼楽に依り、時に順って適宜に増減し、人の心に沿って少しずつ制作し、太平に至って大いに備わる。
- 周は夏・殷の二代を鑑としたので礼の形式が特に整い、経礼三百・威儀三千と称された。こうして教化が行き渡り、民は睦み合い、災害も禍乱も起こらず、牢獄は三十余年空であった。孔子はこれを讃えて「うるわしいかな、その文よ。われは周に従う」と言った。
- 周が衰えると諸侯は勝手にふるまい法度を踏み越え、礼制が自分の妨げになるのを嫌ってその文書を捨てた。秦の学問弾圧に遭い、ついに乱れて滅んだ。
- 楽は民の心を善くする。人を感じさせることが深く、人を動かすことが速いので、先王はその教えを明らかにした。民は血気と知覚の性を持つが、哀楽喜怒に一定はなく、感応によって動いて初めて心のはたらきが形になる。
- 細く弱く沈んだ音が奏でられれば民は憂え、ゆるやかで和み崩れた音が奏でられれば民は安楽になり、荒く激しく勢いのある音が奏でられれば民は剛毅になり、清廉正直で誠実な音が奏でられれば民は粛然と敬い、寛大で和やかな音が奏でられれば民は慈しみ愛し、放埒で邪な音が奏でられれば民は淫乱になる。
- ゆえに先王は雅・頌の調べを制し、情性に本づけ、度数に照らし、礼儀で整え、生気の調和に合わせ、五常の性を導き、陽に過ぎて散ぜず陰に過ぎて奪われず、剛の気は怒らず柔の気は縮まず、四つが内で伸びやかに通じて外に発し、それぞれの位を保って侵し合わないようにした。民の善心を動かすに足り、邪気に付け込ませないためである。これが先王が礼楽を立てた方法である。
- 黄帝は咸池、顓頊は六茎、帝嚳は五英、堯は大章、舜は大韶、禹は大夏、湯は大濩、武王は大武、周公は勺を作った。咸池は備わることを、六茎は恵みが根や茎にまで及ぶことを、五英は茂ることを、大章は明らかにすることを、韶は継ぐことを、夏は大なることを、濩は救うことを、武は武功で天下を定めたことを、勺は先王の道を汲むことを意味する。
- 夏より前のものはその流れを聞くことができない。殷の頌はなお残るものがあり、周の詩はすでに備わって楽器の並べ方も『周官』に整っている。
- そもそも礼楽とは、威儀は目を満たすに足り、音声は耳を動かすに足り、詩歌は心を感じさせるに足りるものである。その音を聞けば徳が和らぎ、その詩を省みれば志が正しくなり、その数を観れば法が立つ。
- ゆえに郊廟に供すれば鬼神が享け、朝廷で奏すれば君臣が和し、学官に立てれば万民が協力する。誰もが我を虚しくして神を引き締め、喜んでその流れを受ける。こうして海内はあまねく上の徳を知り、その風に浴し、光は日ごとに新たになり、上に感化されて善に移りながら自分でもそのわけを知らない。ついには万物が化し、天地が順って佳い応報が現れる。
- 『詩』に「鐘鼓は煌々と、磬管は鏘々と鳴り、福が豊かに降る」とあり、『書』に「石を打ち石を撫でれば百獣もそろって舞う」とあるのはこのことである。
- 末世が衰え乱れると、殷の紂は先祖の正しい楽を断ち捨て、淫らな音を作って正しい調べを乱し、婦人を喜ばせた。周の道が欠けると王室の官は職を失い、雅と頌は入り混じり、礼楽は大いに壊れた。諸侯は天子の両観を設け大輅に乗り、大夫は八佾の舞を庭で舞わせ、政治は衰えるままに改まらなかった。
- そこで桑間・濮上や鄭・衛・宋・楚の音が一斉に現れた。内には病を招き寿命を縮め、外には政を乱し民を損なう。巧みで偽りの徒がこれを飾り立て、富貴の者の耳目を惑わせ、庶人は利を求め、諸侯国は互いに聞き知った。秦の穆公は戎に楽を贈られて由余が去り、斉人が女楽を贈って孔子が去った。ここから礼楽は失われた。漢が興って再びこれを存し、礼楽の古い事柄は少しずつ集められていった。
曹参の死
- 夏、大旱があり、江河の水は減り、渓谷の水は絶えた。
- 八月、相国曹参が薨じた。諡は懿侯。
- 九月、長安城が完成した。
- 十月、安国侯王陵を右丞相、陳平を左丞相とした。民に一戸あたり一級の爵を賜った。