前漢紀前漢高祖皇帝紀 十年 前197年

太上皇の死

  • 冬十月、淮南王・梁王・燕王・荊王・楚王・斉王・長沙王が来朝した。
  • 夏五月、太上皇が崩じた。
  • 秋七月癸卯、太上皇を万年に葬った。
  • 八月、諸侯王にそれぞれの国都で太上皇の廟を建てるよう命じた。

太子廃立の争いと周昌

  • 高祖は太子を廃して戚夫人の子の如意を立てようとし、群臣が争ったが止められなかった。御史大夫の周昌が強硬に反対した。
  • 周昌は剛直で口下手であり、「臣は口では言えませんが、心ではその不可を承知しております。陛下がどうしても太子を廃して戚夫人の子如意を立てるなら、臣は詔を奉じません」と答えた。
  • かつて周昌が奏上に来たとき、高祖は戚夫人を抱いていた。周昌が走って引き返すのを高祖は追いかけ、その上に馬乗りになって「わしはどんな主君か」と問うた。周昌が「陛下は桀・紂のような主です」と答えると、高祖は笑った。
  • のちに高祖は気鬱で悲歌を歌い、群臣にはわけが分からなかった。符璽御史郎の趙堯が進み出て「陛下が楽しまれぬのは、趙王が幼く、戚夫人と呂后に確執があり、万歳の後に趙王が身を全うできぬからではありませんか」と言い当てた。
  • 趙堯は「趙王に身分が高く力のある相を付けるべきです。呂后・太子・群臣が平素から憚る人物を」と進言し、周昌を推した。高祖は周昌に「左遷であることは重々承知だが、趙王が心配でならぬ。おまえ以外に相たる者がいない」と言い、趙の相とした。後任の御史大夫には趙堯を充てた。
  • 以前、趙の人の方与公が周昌に「あなたの部下の趙堯は奇才で、いずれあなたの地位に代わる」と言ったことがあった。周昌は「堯は若い書記役に過ぎぬ、そこまで行くものか」と笑ったが、結局その言葉どおりになった。

陳狶の反乱

  • 九月、陳狶が賓客を集め、従う車が千余乗にのぼった。もともと陳狶が代へ赴任する際に淮陰侯韓信へ挨拶に行っており、廃されて恐れと恨みを抱いていた韓信は「趙と代は精兵の地だ。おまえが外で挙兵すれば陛下は必ず自ら出征する。私が内から起てば天下は狙える」と持ちかけていた。
  • 陳狶が反すると、高祖は自ら討とうとした。建成侯の周緤が泣いて「陛下がいつも自ら出征されるのは、遣わせる人がいないということです」と諫めた。周緤は以前から高祖に従い、戦況が不利なときも離れる心を持たなかったので、高祖は自分を愛していると認め、殿上で小走りしなくてよい特権を与えた。
  • 高祖は東進して邯鄲に至り、将に用いられる壮士四人を選んでそれぞれ千戸侯に封じた。側近が「この者たちに何の功があって千戸なのか」と言うと、高祖は「おまえたちの分かることではない。陳狶が反して趙・代はすべて陳狶のものだ。羽檄で天下の兵を徴集したがまだ誰も来ない。今来ているのは邯鄲の兵だけだ。四千戸を惜しんで趙の子弟の心を慰めずにおれようか」と答えた。
  • また楽毅の子孫を探して楽叔を得、楽郷侯に封じて華成君と号させた。
  • 陳狶に脅されて従った吏民はすべて罪を赦した。陳狶の将がみな元商人だと聞くと、「それなら扱いやすい」と言って多額の金で買収し、陳狶の将は多く投降した。
  • 沛の人の任敖は平素から高祖と親しく、食客として従って上党太守となっていた。よく守り抜いたので広阿侯に封じられた。御史大夫の趙堯も陳狶討伐に功があり江邑侯に封じられた。

疑獄の上申制度

  • 御史に詔して、「判断の難しい訴訟を吏が決しかね、そのために死ぬ者や、長く裁きが下らぬ者、無罪なのに長く拘禁される者がいる。今後、疑わしい獄は所属の二千石に上申し、二千石が決しかねれば廷尉に移し、廷尉も決しかねればすべて奏上して裁可を仰げ」と命じた。