来朝と関中への強制移住
- 冬十月、淮南王・趙王・楚王が来朝した。前殿で酒宴を開き、高祖は太上皇に杯を献じて「以前あなたは私が兄の仲ほど産業を営めぬと言われたが、今の私の身代は仲と比べてどうでしょうか」と述べ、殿上はみな万歳を唱えた。
- 十一月、郡国の大族・豪傑・名家十余万戸を関中に移して人口を充実させた。婁敬の献策による。
- 十二月、洛陽へ行幸した。
貫高の獄
- 趙の相の貫高の謀反計画が発覚した。共謀した趙午ら十余人はみな自刎したが、貫高は「みな死んでしまっては、誰が王の無実を明かすのか」と言って生き残り、檻車で長安へ護送された。
- 取り調べで貫高は「王は何も知らない」と言い張り、拷問で全身に無傷の箇所がなくなっても供述を変えなかった。高祖は「壮士だ」と評した。
- 人をやってひそかに理由を問わせると、貫高は「人情として誰が自分の親族を愛さぬだろうか。今わが一族三族はことごとく死罪と決まっている。それでも王を親族と引き換えにはできぬ」と本心を述べた。
- 高祖は詔して趙王を赦し、貫高の節義を高く買ってこれも赦した。しかし貫高は「死ななかったのは王の無実を明かすためだ。今王は釈放され、私の責めは果たされた。それに人臣として主君殺しの汚名を負った身が、どの面下げて陛下に仕えられよう」と言い、天を仰いで喉を掻き切って死んだ。
- 趙王張敖は魯元公主を娶っていたため、宣平侯に封じられた。
史論(荀恱曰)
- 貫高は反乱を首唱し主君を殺そうとした賊である。王の無実を証明できたとしても、小さな誠実さは大逆の罪を埋め合わせず、私的な義行は公の罪を贖わない。春秋の大義では、正しい立場に立つ以上その罪に赦しはない。
- 趙王の側も、貫高の逆心を隠し、臣下の非を正して誅すべき義を欠いた。もし貫高が計画を実行していれば危ういところであった。藩国としての義を欠く以上、死一等を減じるのは妥当としても、侯に封じたのは行き過ぎではないか。
賢者の登用と人事
- 趙王逮捕の際、「あえて随行する者は三族を誅す」との詔が出ていた。それでも従った趙王の郎中の田叔・孟舒はいずれも賢者で、召し出して会ってみると漢の朝廷の臣で彼らに勝る者がなく、いずれも郡守に任じられた。
- 春正月、代王の如意を移して趙王とした。
- 夏六月乙未の晦、日食があった。