前漢紀前漢高祖皇帝紀 十一年 前196年

韓信の誅殺

  • 冬十月、周勃を遣わして代の地を平定させた。
  • 春正月、淮陰侯韓信が謀反し、陳狶と内応して、夜に詔を偽って諸官庁の徒刑者や奴を動員し、呂后と太子を襲おうとした。その舎人が密告した。
  • 呂后は蕭何と謀り、高祖のもとから来た者だと偽らせて「陳狶はすでに死んだ」と告げさせ、群臣が祝賀に集まったところで韓信を捕らえて斬り、三族を誅した。
  • 斬られる間際、韓信は「蒯通の言葉に従わなかったのが悔やまれる。女子に捕らえられるとは」と嘆いた。
  • 高祖は邯鄲から洛陽に至り、蒯通を召して釜茹でにしようとした。蒯通は「犬はそれぞれ自分の主人でない者に吠えます。あの時、臣は斉王韓信を知るのみで陛下を知りませんでした。それに秦がその鹿を取り逃がし、天下がこぞって追いかけ、才も足も勝る者が先に手にしたのです。あの時は誰もが陛下のなさったことをしようとした。ただ力が及ばなかっただけです。それを全部茹でるのですか」と述べ、赦された。

蕭何への益封と邵平の忠告

  • 高祖は使者を送って丞相蕭何を相国に任じ、五千戸を加増し、兵卒五百人と都尉一人を相国の護衛に付けた。群臣はみな祝賀したが、元秦の東陵侯であった邵平ひとりが会釈して「禍はここから始まります」と言った。
  • 邵平は「陛下は外で風雨に晒され、あなたは内を守っている。矢石の危険もないのに加増され護衛を付けられたのは、淮陰侯が都で反したばかりで、あなたを疑う心があるからです。護衛はあなたを見張るためで、寵遇ではありません。封を辞退して受けず、家財を軍に献じなさい」と説いた。蕭何が従うと高祖は大いに喜んだ。
  • 皇子の恒を代王に立て、晋陽を都とした。天下に赦を行った。

彭越の誅殺

  • 三月、梁王彭越が反したとして三族を誅された。
  • 高祖が陳狶を討つ際に梁王に出兵を求めたが、梁王は将を派遣しただけだったので高祖は怒った。梁王が自ら出向こうとすると、将の扈輒が「王は初め行かず、叱責されてから行けば、そのまま捕らえられます。いっそ兵を挙げて反した方がよい」と言った。梁王は聞き入れず、病と称した。
  • 罪を犯して逃亡した梁の太僕が、彭越と扈輒が謀反したと告発した。高祖は彭越を捕らえて投獄したが、赦して庶人とし蜀へ移した。
  • 道中で呂后に行き会った彭越は涙ながらに無実を訴え、昌邑に帰りたいと願った。呂后は彭越を連れて洛陽に戻り、高祖に「彭越は勇士です。蜀へやれば後の禍を招くだけ。誅すべきです」と進言した。
  • 呂后は自分の舎人に彭越が再び謀反したと告発させ、彭越を誅して三族を滅ぼし、首を晒して「あえて引き取って弔う者は捕らえよ」と令した。
  • 梁の太傅の欒布は斉への使いから戻ると、晒された首の下で復命し、声をあげて哭した。高祖が釜茹でにしようとし、欒布が首を提げて煮え釜へ向かいながら「一言だけ言って死にたい」と願い出て、こう述べた。「陛下は彭越なくして項氏を滅ぼせませんでした。天下が定まり彭王は割符を受けて封じられ、これを万世に伝えようとした。ところが一度の徴兵に王自身が出向かなかったというだけで謀反を疑われた。反乱の兆しは何も現れていないのに、些細な咎めで誅すれば、功臣は誰もが身の危険を覚えます。彭王がすでに死んだ以上、臣は生きるより死ぬ方がましです。どうか釜に入れてください」。高祖は赦して都尉に任じた。
  • こうして彭越は塩漬けの肉にされ、諸侯にあまねく分け与えられた。淮南王英布は彭越の死とその肉を見て驚き恐れ、ひそかに叛意を抱くようになった。
  • 皇子の恢を梁王、皇子の友を淮陽王に立てた。
  • 夏四月、高祖は洛陽から出発した。

陸賈の南越使節

  • 五月、楚の人の陸賈を南越に遣わし、尉佗を王に立てた。尉佗は秦のときに南海郡尉であり、天下の乱に乗じて南越を領有していた。
  • 陸賈が着くと、尉佗は髻を槌形に結い足を投げ出して座ったまま応対した。陸賈は説いた。「あなたは中国の人で、親族や兄弟、先祖の墓は真定にある。今その天性に背き冠と帯を捨て、ちっぽけな越をもって天子と対等の敵国たろうとすれば、禍が身に及びます。天子はあなたが南越にありながら暴秦討伐を助けなかったと聞き、兵を差し向けようとされた。だが百姓の労苦を思いやり、臣を遣わして王の印綬を授け、割符を分かって使者を通じられたのです。本来なら王は郊外まで出迎え、北面して臣と称すべきところ、まだ固まってもいない新しい越で強がっている。漢がこれを本当に耳にすれば、王の先祖の墓を掘り返して焼き、一族を皆殺しにし、一人の偏将に十万の軍を率いさせて越に臨むでしょう。越の人々はたちまち王を殺して漢に降ること、手のひらを返すようなものです」。
  • 尉佗ははっと起き直って謝り、「蛮夷の中に長く暮らして礼儀をすっかり忘れていた」と言った。そして「私と蕭何・曹参とではどちらが賢いか」と問い、陸賈は「王の方が賢いでしょう」と答えた。さらに「私と皇帝とではどうか」と問うと、陸賈はこう答えた。「皇帝は豊・沛に起こって暴秦を討ち強楚を誅し、天下のために利を興し害を除き、五帝三王の業を継いで中国を統治し、政令は一家から出ている。天地の開闢以来かつてなかったことです。今、王の民は数十万に過ぎず、みな蛮夷で山海の険にへばりついている。漢の一郡ほどのもので、漢と比べられるものではありません」。
  • 尉佗は大笑して「わしは中国で立たなかったからここで王になっているのだ。もし中国で立っていたら、漢に劣ることがあろうか」と言い、ついに割符と印を受けて王を称した。陸賈には旅嚢の品千金相当と、贈り物さらに千金を与えた。陸賈は帰って復命し、太中大夫に任じられた。

陸賈と『新語』

  • かつて陸賈が高祖の前で詩書を説いたとき、高祖は罵って「わしは馬上で天下を取った。詩書など何の役に立つ」と言った。陸賈は「陛下は馬上で天下を取られましたが、馬上で治められましょうか。湯・武は逆らって取り、順って守りました。文と武を併せ用いるのが長続きの道です。昔、呉王夫差は武に頼って滅び、秦は刑法一辺倒を改めずに滅びました。もし秦が天下を統一した後に仁義を行い先王に倣っていたなら、陛下はどうして天下を得られたでしょう」と答えた。
  • 高祖は恥じ入った顔をして、「試しにわしのために、秦が天下を失ったわけ、わしが天下を得たわけ、そして古今の成敗した国について書いてみよ」と命じた。陸賈は全十二篇の書を著し、一篇奏上するたびに高祖は読んで感嘆しないことがなく、その書を『新語』と名づけた。

黥布の反乱と薛公の三策

  • 秋、淮南王黥布が謀反した。黥布は将たちに「陛下は老いた。戦にも飽きて自ら来られはすまい。諸将で恐ろしいのは韓信と彭越だけだったが、二人とも死んだ。残りは畏れるに足らぬ」と言って挙兵した。
  • 汝陰侯(夏侯嬰)が元楚の令尹である薛公に「なぜ布は反したのか」と問うと、薛公は「昨年韓信を殺し、今年彭越を殺した。この三人は功も立場も一体の者たちだ。禍が自分に及ぶと疑って反しただけです」と答えた。
  • 夏侯嬰が薛公を推挙し、高祖が召して問うと、薛公は「布が上策を採れば山東は漢のものではなくなります。中策なら勝敗は分かりません。下策なら陛下は枕を高くして眠れます」と述べた。
  • 上策 — 東に呉、西に楚を取り、斉と魯を併せ、燕・趙に檄を飛ばしてその地を固守する。
  • 中策 — 東に呉、西に楚を取り、斉と韓を併せて魏を取り、敖倉の粟を押さえて成皋の要路を塞ぐ。
  • 下策 — 東に呉、西に蔡を取り、輜重を越に預けて自身は長沙に帰る。
  • 高祖が「どの策を出すか」と問うと、薛公は「必ず下策です。布はもともと驪山の労役囚に過ぎず、そこから万乗の王になった。こういう者はみな自分のためだけで後先を顧みず、百姓万世の事業を考えません」と答えた。高祖は「よし」と言い、薛公を千戸侯に封じた。
  • 高祖は自ら黥布を征討し、死罪以下の者を赦してすべて従軍させた。皇子の長を淮南王に立てた。
  • 黥布は果たして東進して楚を撃った。楚王は軍を三つに分け、互いに救援し合って奇兵としようとした。ある者が楚の将に「諸侯が自国の地で戦うのは散地です。今軍を三分し、布がその一つを破れば残り二軍は逃げる。どうして救い合えましょう」と忠告したが、聞き入れられなかった。果たして黥布は一軍を破り、二軍は逃げ去った。
  • 黥布は蘄の西の会垂で高祖と対峙した。黥布の兵は精鋭で、その陣立ては項羽軍のようだった。高祖はこれを不快に思った。高祖が「何が苦しくて反した」と問うと、黥布は「わしは帝になりたいだけだ」と答えた。高祖は罵り、戦って黥布は敗れた。