陳勝・呉広の挙兵
- 秋七月、閭左の民を徴発して漁陽の守備に送った。陽城の陳勝(字は渉)と陽夏の呉広(字は叔)はともに屯長であった。蘄に至って大雨に遭い、すでに期日に遅れ、遅れれば法で斬罪だと判断し、天下の怨みに乗じて叛乱を謀った。
- 陳勝は絹に「陳勝王」と書いて魚の腹に入れ、人に売らせた。魚を得た兵はこれを怪しんだ。さらに呉広に夜、叢祠で火を焚かせ狐の鳴き声をまねて「大楚興り、陳勝王たり」と言わせ、一同は大いに驚いた。
- ついに引率の将尉を殺し、徒党に号令して「大楚」と称した。陳勝は大将軍、呉広は都尉となる。城邑を攻略して陳に至り、衆は数万に達し、陳勝は自立して楚王となった。
- 大梁の張耳・陳餘が諌めた。将軍は決死の計を立て天下のために残賊を除こうとしているのに、陳に着いたばかりで王を称するのは天下に私心を示すことになる。六国の後裔を立てて味方を殖やし、西へ進めば野に戦うべき敵なく県に守る城なく、暴秦を誅して咸陽に拠り諸侯に号令すれば天下は図れる。陳勝は聴かなかった。
- 陳の人・武臣を将軍、張耳・陳餘を校尉として北の趙の地を平定させた。この頃、各地を平定する楚の将は極めて多く、数千の兵を集める徒党は数えきれなかった。
- 呉広を仮王として諸将を監督させ、周文を将軍として十余万の衆で西へ進み戯水に至った。総勢は百二十万にもなった。秦は将軍章邯に命じ、驪山の労役囚七十万人を赦してこれを撃たせた。
- 呉広は別に滎陽を包囲したが落とせなかった。将軍田臧らは「仮王は驕っていて謀を共にできない」と謀り、陳王の命と偽って呉広を誅し、兵を進めて西へ向かった。
- この年、太白が二度天を横切った。占では「大兵が起こり天下は王を替える」とされる。
沛公の擁立と各地の蜂起
- 九月、沛の人々が県令を殺し、高祖を沛公に立てた。蕭何が丞相、曹参と周勃は中涓として従い、夏侯嬰と樊噲は舎人となった。蕭何は沛の主獄吏、曹参は沛の獄掾、夏侯嬰は沛の厩の御者、周勃は薄を織るのを生業とし、樊噲は狗を屠るのを業としており、みな沛公の旧知であった。
- このとき沛公は外にいて兵は数百人。蕭何らは陳勝に呼応しようとして沛公を召して立て、沛の子弟を集めて三千人を得た。
- 項籍もまた会稽で挙兵した。籍は字を羽といい、もと楚の将項燕の孫である。挙兵時二十四歳、身長八尺二寸、目に瞳が二つあり、力は鼎を持ち上げるほどであった。叔父の項梁と仇を避けて呉にいた。梁は弁説を好み内に大志を秘め、呉中の賢士大夫はみな梁の下から出た。梁は籍とともに会稽太守の殷通を殺し、その印綬を帯びて会稽将を自称し、籍は副将として下邳県を降した。
- 張耳・陳餘は趙に至って豪傑を説いた。秦は乱れた政治と苛酷な刑で天下を損なった。北に長城の労役、南に五嶺の守備があり、内外は騒がしく民は疲れ果て、財も力も尽きた。加えて苛法によって父子が生きていけない。陳王が奮い立って天下に先駆けを唱え、応じない者はない。この時に封侯の業を成せないなら人の豪傑ではない。天下の力によって無道の秦を誅し、父兄の讐に報いて大業を成すのは壮士の好機である。皆がその言に従い、兵数万を集めて趙の十余城を下した。武臣は「武信軍」と自称した。
- 軍を進めて范陽を囲むと、范陽の人・蒯通が県令の徐公のために武信軍に説いた。范陽令は真っ先に城を挙げて降りたいのに、あなたがそれを利としないなら、各地の守将はみな城を鉄壁として守り攻められなくなる。黄屋・朱輪の車で范陽令を迎え、燕・趙の地を走らせれば、辺境の城はみな喜んで相次いで降る。それは坂道で丸を転がすようなものだ。武信軍は諸侯の礼で徐公を迎え、燕・趙でこれを聞いて降る城は三十余に及んだ。
- 張耳・陳餘は、各地を平定する諸将の多くが讒言で罪を得るのを恐れており、また陳王が自分たちを将軍にしなかったことを怨んでいた。陳王が二人の家族を誅そうとすると、柱国の房君・賜が諌めた。秦王がまだ滅びていないのに趙王の家を誅するのは、もう一つの秦を生み出すこと。かえって祝賀して兵を進め秦を撃たせるほうがよい。陳勝はこれに従った。
- 張耳・陳餘は趙王と謀った。王が趙に王たることは楚の意ではない。楚が秦を誅し終えれば必ず趙に兵を向ける。北の燕の地を平定して勢力を広げ、南は大河に拠り北に燕・代を有すれば、楚が秦に勝っても趙を制しきれず、勝てなければ趙を重んじる。趙は秦と楚の疲弊に乗じて天下に志を遂げられる。
- そこで韓広を遣わして北の燕の地を平定させた。燕の人々は韓広を王に立てようとしたが、広は「母が趙にいるので不可」と言った。燕人は「強い楚でさえ趙を害しないのに、趙一国がどうして将軍の家族を害せようか」と言い、広はついに自立して王となった。趙もその家族を送り返した。
- 趙王は燕との境で略地中、忍び歩いていて燕軍に捕らえられ、幽閉されて割地を要求された。趙が使者を出して王の返還を請うたが、燕はそのたびに使者を殺した。ある雑役の兵が燕軍への使者を願い出て燕の将に説いた。張耳・陳餘は武臣とともに馬の鞭を手に趙の数十城を下した。人の臣で満足するはずがない。ただ形勢が定まったばかりなので、年長の順にまず武臣を立てて趙の人心をつないだにすぎない。今や趙の地は服した。この二人は名目では王の返還を求めながら、実は燕に王を殺させ、その地を分けて王になろうとしているのだ。一つの趙でも小さな燕を凌ぐのに、まして二人の賢者が王として左右から助け合い、大義を掲げて燕を破るのは必定である。燕は趙王を返し、その雑役兵が御者となって送り帰した。
- 魏の人・周市は陳王のために魏を平定した。魏の人々が市を王に立てようとすると、市は「国家が乱れてこそ忠臣が現れる」と言い、陳王に請うて旧魏の公子咎を魏王に立てた。
- 旧斉王田氏の一族の田儋もまた県令を殺して自立し、斉王となった。
- 章邯は楚軍を破り、邯鄲で周文を殺し、敖倉で田臧を殺した。楚の諸将はみな敗れ、秦はついに陳を攻めて破った。