前漢紀前漢高祖皇帝紀 沛公二年 前208年

冬から春にかけての攻防

  • 冬十月、秦の将が沛公を豊で囲んだ。沛公は出撃してこれを破った。
  • 十一月、沛公は兵を率いて薛に行き、雍歯に豊を守らせた。趙の将李良が章邯に誘われて叛き、兵で武臣を襲った。武臣は死に、張耳・陳餘は逃走した。
  • 十二月、陳勝の御者の荘賈が陳勝を殺して秦に降った。楚の人々は碭に葬り、隠王と諡した。陳勝のもと中涓であった呂臣が残兵を集めて陳を攻め、荘賈を殺した。
  • このとき陳勝は先に将軍秦嘉に各地を掠めさせていたが、陳勝の死後、嘉は景駒を立てて楚王とした。

陳勝の失敗

  • 初め、陳勝が人に雇われて耕していた頃、仲間と「富貴になっても互いに忘れまい」と語り合った。耕す者は「お前は雇われ耕作の身で何の富貴か」と笑い、陳勝は「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」と答えた。
  • 陳勝が王となると、その耕作仲間が門を叩いて「渉に会いたい」と言った。陳勝は会ったが、その者は出入りに無作法で、ますます陳勝の貧賤の頃の話を漏らして威厳を損なった。陳勝はこれを斬った。そのため旧友はみな去り、親しむ者がいなくなった。
  • 陳勝は朱房を忠正、胡武を司過とし、苛酷な詮索を忠義と見なして任用した。そのため諸将は心服せず、これが滅んだ理由である。
  • 雍歯が豊を挙げて叛き、魏に降った。
  • 春正月、張耳・陳餘は趙の衆を集めて李良を撃ち、良は敗走して章邯のもとに帰した。耳と餘は旧趙の後裔の趙歇を趙王に立てた。

張良との出会い

  • 沛公は景駒に会おうとして、留で張良に出会った。良は韓の人で、先祖は五代にわたって韓の相を務めた。韓が滅んだとき、良は弟が死んでも葬らず、家財を尽くして刺客を求め強秦に報復しようとした。始皇帝が東方を巡遊した際、力士を募って撃たせたが誤って副車に当たり、下邳に逃げ隠れた。
  • 圯の上を歩いていると一人の老父が来て、わざと履を落とし「小僧、下りて履を取れ」と言った。良は大いに驚き怪しんだが、老人であるので履を取り、跪いて差し出した。老父は「小僧、教えるに足る」と言い、「五日後にここで会おう」と約した。期日に良が遅れて着くと老父は怒った。三度の約束を経て良が先に着くと、老父は喜んで一編の書を与え、「これを読めば王者の師となる。十三年後、済北の穀城山の下で私に会う。黄石が私である」と言い、去って二度と現れなかった。その書は太公の兵法であった。
  • 良はこれを用いて沛公に説き、沛公は大いに納得した。良は「沛公はおそらく天が授けた人だ」と言い、そのまま従属した。

項梁の伸長と懐王の擁立

  • 項梁は八千人を率いて江を渡り、陳嬰がすでに東陽を下したと聞いて連合しようとした。嬰はもと東陽の令吏で、県中が王に立てようとしていた。嬰の母は「わが家は代々貧賤である。今にわかに大名を得るのは不吉だ。兵を人に属させれば、事が成れば封侯を得られ、成らなくとも禍の帰する先があって逃れやすい」と言い、嬰は兵を項梁に属させた。
  • 黥布も兵を項梁に属させた。布は六の人で、若い頃に人相見が「入れ墨をされて王となる」と言い、実際に入れ墨されると喜んだ。驪山への囚徒輸送の途中で逃げ、江中に至って徒党を集め項梁に従った。
  • 夏四月、項梁が景駒と秦嘉を殺し、薛に留まった。沛公が赴いて従い、梁は沛公に兵を増した。ついに豊を攻めて抜き、雍歯は魏に奔った。
  • 居巣の人・范増は七十余歳で項梁に説いた。秦が六国を滅ぼしたが、楚が最も罪がない。懐王が秦に入って帰らず、楚の人々は憐れんだ。だから「楚は三戸となっても秦を亡ぼすのは必ず楚」と言われる。今、陳勝は事を起こしながら楚の後裔を立てなかったので勢いは長続きしない。今、君が江東に起ち、蜂起した楚の将が争って君に附くのは、君が代々の楚将であり楚の後裔を再び立てられると見込むからだ。
  • 梁は懐王の孫の心を探し出した。心は羊飼いをしていた。六月、楚は心を立てて懐王と号した。陳嬰を上柱国、梁を大将軍として武信軍と号した。沛公を武安侯に封じ、碭郡の長とした。
  • 張良もまた項梁に説いて韓の公子成を韓王に立て、良は司徒となって韓の地を平定した。

章邯の攻勢と項梁の死

  • 章邯が兵を遣って魏を攻めた。魏の将周市が斉と楚に救援を請うたが二国の軍が到着せず、章邯は周市を撃ち殺し臨済を囲んだ。魏王咎は偽って使者に降伏を申し入れさせ、自らは自殺した。
  • 章邯は進んで斉を伐ち田儋を殺した。儋の従弟の田栄は残兵を集めて東阿を保った。斉王建の弟の田假が自立して斉王となり、田角が相、田簡が将軍となった。
  • 章邯が東阿を囲むと沛公と項梁が救援し、章邯を大破した。
  • 秋七月、大雨が長く降り続き、八月に及んだ。田栄は帰国して田假を追い、田儋の子の市を王に立て、自ら相となり、従弟の田横を将軍とした。田假は楚に、田角と田簡は趙に奔った。
  • 項梁は秦軍を追い、斉王の兵を召して共に西進しようとした。田栄は「楚が田假を殺し、趙が田角・田簡を殺せば兵を出す」と言った。梁は「田假は窮して我に身を寄せた。殺すに忍びない」と答えた。斉の使者は「毒蛇が手を刺せば手を断ち、足を刺せば足を断つ。体を害するからだ。田假・田角・田簡が楚や趙にいるのは手足の親しみでもないのに、なぜ殺さないのか」と言った。梁は聴かず、斉はついに兵を出さなかった。
  • 沛公と項梁は雍丘で秦軍を破り、秦の将李由を斬った。梁はますます秦を軽んじ、驕りの色が出た。もとの楚の令尹・宋義が諌めた。戦に勝って将が驕り兵が怠れば敗れると聞く。今、兵は怠り始め、秦兵は日に日に盛んである。君のために恐れる。梁は聴かなかった。
  • 宋義が斉への使者に立ったとき、斉の使者に出会って「武信君は必ず敗れる。ゆっくり行けば免れるが、急げば必ず禍に遭う」と言った。
  • 九月、章邯が定陶で楚を大破し、項梁は死んだ。斉の使者はゆっくり行ったので禍を免れた。
  • 魏王咎の弟の豹が再び衆を集めて自立し、魏王となった。
  • 楚の懐王は彭城に都し、諸侯と「先に咸陽に入った者を王とする」と約した。
  • 章邯は項梁を破ってから楚は憂うるに足りないとし、北の趙を伐って大破した。趙王歇は鉅鹿に籠もり、秦の将王離が包囲し、章邯はその南に軍を置いて甬道を築き糧を輸送した。
  • 楚は趙を救うため宋義を上将として卿子冠軍と号し、項羽を次将、范増を末将とした。沛公は別軍として西へ、関に入らせることにした。
  • このとき灌嬰が中涓として従った。嬰は洛陽の絹の商人であった。曹参は数々の戦功を挙げ、執帛侯に封ぜられて建成君と号した。