宋義の誅殺
- 冬十月、斉の将田都が田栄に叛き、兵を率いて楚を助けた。
- 十一月、楚の軍が黄河のほとりに至った。項羽が宋義に「急ぎ河を渡ろう。我らが外から撃ち趙が内から呼応すれば秦軍は必ず破れる」と言った。義は反論した。今、秦が趙を攻めているが、秦が勝てば兵は疲れるからその疲れに乗ずればよく、勝たなければ我らは太鼓を鳴らして西進し必ず秦を落とせる。だから秦と趙を闘わせるに越したことはない。鋭鋒を撃つことでは自分は君に及ばないが、坐して策を巡らすことでは君は自分に及ばない。
- 義は軍中に「虎のように猛く、羊のように狠く、狼のように貪り、強情で命令に従わぬ者はみな斬る」と令した。子の襄を斉の相として送り出し、自ら無塩まで見送って盛大な酒宴を開いた。
- 項羽は言った。将軍は力を合わせて秦を伐つべきなのに久しく留まって進まない。年は飢饉で民は貧しく、兵は豆まじりの粗食を半ばとし、軍に見える兵糧もない。それなのに酒宴を張り、趙と食糧を合わせて秦を撃とうともしない。「疲れに乗ずる」と言うが、強大な秦が新たに立った趙を攻めれば必ず趙を陥とす。趙が滅べば秦はいよいよ強くなる。何の疲れに乗ずるのか。しかも国の兵は破れたばかりで王は安眠できず、国中を挙げて将軍に委ねた。国家の安危はこの一挙にかかる。今、士卒を思いやらず私事に走るのは社稷の臣ではない。
- 項羽は早朝に宋義のもとへ出向き、そのまま帳中に入って宋義の首を斬って出た。軍中に「宋義は斉王と謀反した。王がひそかに籍に誅させたのだ」と令した。王に報告させると、王は羽を大将軍とした。
鉅鹿の戦い
- 十二月、項羽は河を渡り、船を沈め釜を壊し陣屋を焼き、三日分の糧だけを持たせた。到着すると王離を囲み、秦軍と遭遇して九たび戦って九たび勝ち、甬道を断って秦軍を大破し、王離を捕虜にした。
- このとき鉅鹿を救援する諸侯は十余の陣を構えたが、誰も進もうとしなかった。楚が秦を撃つと諸侯はみな塁の上から眺めた。楚の戦士は一人で十人に当たり、羽の叫び声は天地を動かし、諸侯の軍で恐れない者はなかった。
- 秦軍を破った後、羽が諸侯の上将たちに会うと、彼らは轅門に入って膝で進み、羽を仰ぎ見ない者はなかった。こうして羽は諸侯の上将軍となり、兵はみな羽に属した。羽の威権は四海に鳴り響いた。
- 初め、宋義と項羽は五万を率いて秦の三将に当たった。王離が羽と大戦したときの秦の精兵は四十万で、章邯の軍を併せたためである。
- このとき枉矢が西へ流れた。火の流星のように蛇行し、首尾があるかのようで、幅も長さも一匹の布のようで天に貼りついていた。矢星が地に落ちればそれは石である。枉矢の指す所は天下が共に伐つ所であり、枉矢の運行は乱をもって乱を平らげるもので、項羽が秦を伐つ前兆であった。
- 沛公はまた栗邑で秦軍を破った。
陳餘の書と張耳との決裂
- 陳餘が章邯に書を送った。白起は秦の将として南は鄢・郢を抜き、北は馬服君の軍を穴埋めにし、城を攻め地を略すること数えきれないのに、ついに杜郵で死を賜った。蒙恬は北の戎人を逐い榆中の地数千里を開いたのに雲陽で死んだ。なぜか。功が多すぎて秦が封じきれず、法にかこつけて誅したのだ。今、将軍は将となって三年、失った兵は十万を数え、諸侯は次々と起った。丞相趙高が政を専らにして久しく、事態が急なので二世に誅されるのを恐れ、必ず法によって将軍を誅して責任を塞ぎ、人を代えて自らの禍を免れようとする。将軍は久しく外にあって内には隙が多く、功があっても必ず死に、功がなくとも死ぬ。天が秦を亡ぼすことは愚者も智者も知っている。今、将軍は内には直諌できず外には亡国の将となり、孤立したまま長らえようとするのは哀れではないか。章邯は迷い、ひそかに項羽と約したがまだ決断できなかった。
- 鉅鹿の包囲のとき、陳餘は数万の兵で鉅鹿の北にいたが力足らず趙を救えなかった。張耳は張黶・陳釈を遣わして餘を呼んだ。餘は二人に五千人を率いて秦軍に当たらせたが全滅した。囲みが解けると耳は餘を責めて怒った。餘は「進んで死ななかったのは秦に報復したいからだ。今、秦軍に赴くのは肉を虎に食わせるようなもので何の益もない」と答えた。耳はさらに餘が張黶・陳釈を殺したのだと疑った。餘は怒って「君が私をこれほど怨むとは思わなかった」と言い、印綬を解いて去った。耳はそれを取り上げ、その軍を収めた。餘は数百人と黄河のほとりに行き漁猟して暮らした。
- 初め、耳と餘は刎頸の交わりを結び、ともに身を隠して里の門番となり、餘は耳を父のように仕えていた。これによって二人の間に隙が生じた。
沛公の西進
- 春二月、沛公が高陽を通った。酈食其は里の門番で六十余歳、県中では狂生と呼ばれていたが、沛公との面会を求めた。沛公は床に足を投げ出して座り、二人の女に足を洗わせていた。食其は長揖して拝礼せず、「足下がぜひとも義兵を挙げて無道の秦を誅そうというなら、足を投げ出したまま長者に会うべきではない」と言った。沛公は洗うのをやめて詫びた。
- 食其が策を進めた。天下の郡のうち陳留は要衝にあたり四方八方に通ずる地で、加えて蓄えた粟が多い。自分がその令を説いて降らせよう。聴かなければ兵を挙げて攻め、自分が内応すれば陳留を破るのは必定である。沛公は兵を率いて後に従い攻め、ついに陳留を取った。食其を広野君と号した。
- 食其が弟の酈商を推挙して将軍とした。当時、商は数千人の徒党を集めており、その兵を属させた。
- 夏六月、沛公が宛を攻めた。韓王は張良を従わせた。南陽太守の呂齮が城を固守して落ちない。沛公はそのまま西進しようとしたが、張良が「強い秦が前にあり宛の兵が後ろにあるのは危険な道だ」と言い、宛を包囲した。
- 宛が危急になり、南陽太守の呂齮が自殺しようとした。その舎人の陳恢が城を越えて出て沛公に会った。宛の官吏は死を恐れてみな堅く守っている。足下が全力で攻めれば死傷者は必ず多い。兵を率いて西へ去れば宛は必ず後を追う。足下は前には咸陽の約束を失い、後には強い宛の患いを抱えることになる。降伏させて郡守を封じ、その甲兵を率いて西へ進むに越したことはない。北のまだ降らぬ城はきっと門を開いて足下を待つだろう。沛公は「よし」と言った。
- 秋七月、南陽太守の呂齮を殷侯に、陳恢を千戸侯に封じた。兵を率いて西進すると降らない城はなかった。軍が通る所で略奪をしなかったので秦の民は喜んだ。
- 章邯はついに項羽に降り、殷墟の上で盟を結んだ。章邯を雍王に立てて軍中に置き、欣を上将として秦の降卒を率いさせ先鋒とした。
- 八月、沛公が武関を攻めた。趙高は二世を殺して和を請い、関中を分けて王となることを求めたが、沛公は聴かなかった。高は二世の兄の子の子嬰を立てて王とした。子嬰は立つとすぐ趙高を誅滅し、兵を遣わして嶢関を守らせた。
- 張良は「秦兵はなお強く軽んじてはならない。旗幟を増やして山々の上に張り疑兵とし、酈食其に貴重な宝を持たせて秦の将を誘わせたい」と言った。秦の将は果たして連合して共に西進しようとした。沛公はこれに応じようとしたが、良は「今、叛こうとしているのはその将だけで、士卒は従わないだろう。従わなければ危うい。相手が気を緩めたところを撃つに越したことはない」と言った。そこで秦軍を撃って大破し、ついに藍田に至った。