班氏の先祖
- 班氏は楚の令尹子文と同姓の後裔である。子文は生まれてすぐ棄てられ虎に乳を与えられたため「於檡」と名づけられ、楚人は虎を「班」と呼んだのでその子孫は班を氏とした。秦滅亡後、班氏は晋・代の間に移った。始皇末、班壹が難を避けて楼煩に移り、馬牛羊数千群を蓄え、辺境の富豪として名を馳せ、百余歳で天寿を全うした。
班孺・班長・班回
- 壹の子孺は任侠として州郡に名を知られた。孺の子長は上谷太守に至り、長の子回は茂材に挙げられ長子県令、さらに上河農都尉となり功により左曹越騎校尉に至った。
班況と班倢伃
- 回の子況は孝廉に挙げられ郎から上河農都尉、大司農の属官を経て左曹越騎校尉となった。成帝の初め、況の娘が倢伃となり、一族は昌陵に移住したが後に長安へ戻った。況には伯・斿・稚の三子があった。
班伯
- 伯は詩を師丹に学び、大将軍王鳳の推挙で成帝に召され、容貌と弁舌により中常侍となった。成帝が経学を好んだ頃、鄭寛中・張禹とともに尚書・論語を進講した。奉車都尉に転じ、匈奴への使者を志願し定襄太守として赴任、着任早々豪族の反乱を鎮圧して治績を挙げたが、間もなく召還される途上で中風を患った。
- 成帝の宴席で紂王の壁画を前に問答した逸話(酒色に溺れた紂王を戒める内容)が伝わり、成帝は「久しく班生の善言を聞かなかった」と感嘆した。太后(元后)が「班侍中は大将軍の推挙した人材、寵遇すべき」と述べ、富平侯張放の帰国を促す一件にも関わった。水衡都尉に転じ、38歳で病没した。
班斿・班稚
- 斿は博学で議郎・諫大夫・右曹中郎将を歴任し、劉向とともに秘書を校訂、詔により宮中の書を読むなど寵遇されたが早世した。子の班嗣は黄老の術を好み、桓譚の借書要求を老荘の道を説いて婉曲に断った逸話がある。
- 稚は黄門郎・中常侍。定陶王(後の哀帝)の太子時代、近臣からの内々の問い合わせに慎重に対応し口を開かなかった。王莽とは若い頃から兄弟のように親しく交わった。哀帝即位後、西河属国都尉・広平相を歴任。平帝の時、太后臨朝・王莽専権のもと、地方巡察の使者に対し祥瑞の報告をしなかったため、琅邪太守公孫閎の讒言に連座しかけたが、太后の温情で罪を免れ、印綬を返上して延陵園郎となり生涯を終えた。これにより班氏は莽朝の禍から免れた。
班彪の生い立ちと隗囂への回答
- 稚の子彪、字は叔皮。幼くして従兄嗣と遊学し、揚雄ら学者が父の元に集った家庭に育った。20歳で父を失い、王莽滅亡・光武帝即位の際、隗囂が壟右に拠り公孫述が蜀で称帝する中、隗囂に「周と漢とでは形勢が異なる」と説いた。周は封建諸侯の力が強大化し春秋戦国の争乱に至ったが、漢は郡県制のもとで一君専制であり、王莽の簒奪も民心の支持を得られず、天下は漢室の復興を望んでいると論じた。隗囂はなお漢の再興を疑ったが、彪は民が今なお劉氏を慕っていることを感じ取り、「王命論」を著して隗囂を諭した。
王命論の要旨
- 帝堯から舜・禹への禅譲、殷周の易姓、劉氏が唐帝堯の後裔として天命を継いだことを述べ、帝王の位は聖徳・功業・天への誠意によって初めて得られるものであり、単なる才知・武力で得られるものではないと説く。項羽・韓信・彭越・王莽のような驍勇の者も、天命なくしては身を滅ぼした例として挙げ、貧窮に苦しむ人々もまた運命によるとする。
- 高祖が天下を得た理由として、①帝堯の苗裔であること、②体貌の非凡さ、③神武の徴、④寛仁、⑤知人善任の五点を挙げ、張良の策を用い酈生の説を容れ、韓信・陳平ら人材を挙用した高祖の度量を称える。また、劉媼の懐妊の夢、白蛇斬りの故事、五星聚合の瑞などの符瑞にも言及する。陳嬰の母、王陵の母の逸話も引き、天命を悟る者と悟らない者との差を説く。
- 結論として、天命を知らずに権勢を貪る者は身を滅ぼすが、天命を悟り分をわきまえる者は子孫に福をもたらすと説き、隗囂に漢室帰順を勧めた。
班彪のその後
- 彪は隗囂が悟らないと見て河西に避難し、大将軍竇融に重んじられた。茂材に挙げられて徐県令となったが病により辞官し、以後は三公からの召しにも応じず、著述に専念した。
幽通賦(班固作)
- 班固は父の死後、20歳の頃に「幽通の賦」を作り、志を述べた。内容は、高陽・顓頊から続く一族の由緒(令尹子文の故事)を述べ、父の代の不遇と時代の混乱(王莽の簒奪)を悲しみつつも、父が節を全うして後世に模範を遺したことを称える。自らは孤弱の身でこの家業を絶やすことを恐れ、夢に神人を見て導きを求める幻想的な場面を描き、屯難の卦を引いて、賢才も時に艱難に遭うが上聖の人はついに抜擢されると述べる。
- 続けて、衛の叔武・管仲・雍歯・丁公・北叟の故事など、禍福が転変する古今の人物例を引き、天道は隠微だが窮まれば通じることを説く。子路・顔回・冉耕らの例を挙げ、中庸の道を守ることの難しさを述べ、最後に「泥に潜んで天に飛ぶ応龍」「先に賤しく後に貴くなる龢氏の璧と隋侯の珠」のたとえで、時に恵まれずとも徳を守れば必ず顕れると結ぶ。伯楽・烏獲・扁鵲・桑弘羊ら諸能人の技を並べ、自分はその列に伍する才はないので、ただ文章にこの思いを託すのみと述べて終わる。
答賓戲(班固作)
- 永平年間、班固は郎となり秘書校訂を掌り、専ら著述に励んだが、これを功なきことと譏る者があり、また東方朔・揚雄が不遇を嘆いた例に倣い、「賔戯」という問答体の文章を作って答えた。
- 賓(客)は「今は聖世に生まれ官位を得ていながら、なぜ著述に沈潜し功名を求めないのか。孔子や墨子の急いた生き方に倣うべきではないか」と難詰する。
- 主人(班固自身)は、乱世においては游説の徒が功名を立てやすかったが太平の世ではそうした才も用いられぬこと、商鞅・李斯・韓非・呂不韋らが権謀で功を成しながら非業の死を遂げた例を挙げ、功名は偽って立てられるものではなく道を全うすることこそ肝要であると説く。
- さらに、上古の賢人(咎繇・箕子・傅説・太公望・寗戚・張良・陸賈・董仲舒・劉向・揚雄ら)が、時の君に用いられるか否かにかかわらず学問と徳を全うしたことを称え、伯夷・柳下恵・顔回・孔子の例も引く。天地の道には陰陽・文質の交替があり、時により顕晦があるので、天命を待ちつつ己の道を修めるべきだと結論する。
- 最後に、和氏の璧・隋侯の珠・応龍のたとえを用い、時に埋もれていても徳と才は必ず顕れると述べ、伯牙・離婁・逢蒙・魯般(公輸班)・王良・伯楽・烏獲・医和・扁鵲・計然らの技芸の例を挙げつつ、自分はそれらの列に伍する才はなくとも、ひたすら文章の道に安んじると結ぶ。