漢書卷九十九下 王莽𫝊第六十九下 王莽
王莽卷下。六筦の徹底と符命の乱発で内外の破綻が進み、呂母・瓜田儀ら各地の蜂起に始まり赤眉・緑林の乱が広がった。皇后の死を機に太子王臨・第三子王安を相次いで失い、地皇年間には粛清と符命偽装で権威を保とうとしたが、更始帝の即位と昆陽の敗戦で瓦解し、地皇四年、長安陥落とともに漸台で殺された。
諸侯茅土の再授与と六筦の徹底
- 天鳳四年五月、莽は保成師友祭酒 唐林・故諫議祭酒 紀逡の孝弟忠恕を称え、林を建徳侯、逡を封徳侯に封じ、位を特進として三公に准じる礼で遇し、第一区と銭三百万・几杖を賜った。六月、明堂で諸侯に茅土を改めて授け、「制作地理建封五等」の詔で建国以来九年を経てようやく制度が定まったとし、文石の平を設け菁茅四色の土を陳ね、岱宗・泰社・后土・先祖先妣に告げて班授した。辺境や江南など召致されない者には納言掌貨大夫が都内の旧銭から俸禄を支給し(公は年八十万、侯伯四十万、子男二十万)としたが、実際には行き渡らなかった。莽は空言を好み封爵を濫発する一方、性は吝嗇で、国邑の地理が未定であることを理由に当面は茅土だけを与えて封を喜ぶ者を慰めた。
- この年、六筦の令を再び明示し、各筦に細かい科条を設けて犯者には死罪まで科したため、罪を得る吏民が増えた。さらに上公以下、奴婢を有する者すべてに一口あたり銭三千六百を課したため、天下はますます愁い、盗賊が興った。納言 馮常が六筦を諫めると莽は激怒して免官し、執法左右刺姦を置いて能吏 侯霸らを六尉・六隊の監督に当てた。
呂母・瓜田儀の蜂起
- 臨淮の瓜田儀らが盗賊となり会稽の長州に拠った。琅邪の女性 呂母も蜂起した。呂母の子は県吏であったが県の宰に冤罪で殺され、母は家財を散じて酒を醸し兵弩を買い、貧窮の少年百余人を陰に養い、ついに海曲県を攻めてその宰を殺し子の墓に祭り、兵を率いて海に入った。その衆はやがて万を数えた。莽は使者を遣って盗賊を赦させたが、解散してもすぐ再結集した。理由を問うと「法禁が煩苛で生業が成り立たず、貢税にも足りず、閉門しても隣伍連座の鋳銭の罪に問われる。姦吏がこれに乗じて民を苦しめ、窮した民はみな盗賊となるほかない」との答えであった。莽は激怒してこれを言う者を免官し、逆に「民が驕り悍しく誅すべき」「時運がそうさせているだけですぐ滅びる」などと言う者を喜んで昇進させた。
- この年八月、莽は自ら南郊で五石銅から「威斗」(北斗の形、長さ二尺五寸)を鋳造し、衆兵を鎮めようとした。完成後は司命に背負わせ、外出には前に、宮中では御座の傍らに置いた。鋳造の日はひどく寒く、凍死する官人・馬が出た。
王宗・王妨の獄
- 天鳳五年正月朔、北軍南門が火災に遭った。大司馬司允 費興を荊州牧としたところ、興は「荊揚の民は山沢に頼って漁採を生業とするが、近年六筦が山沢に課税し民の利を奪い、連年の旱魃で困窮して盗賊となった。田里に帰らせ耕牛・種を貸し租賦を緩めれば鎮まるであろう」と対え、莽は怒って興を免官した。天下の吏は俸禄を得られず姦利にふけり、郡尹県宰は千金を蓄えるほどであった。莽は貪吏の家産の五分の四を没収して辺境の急に充てる詔を出し、公府の士を天下に馳せて貪汚を糾察させたが、姦はますます甚だしくなった。
- 皇孫 功崇公 王宗が自ら天子の衣冠を画いた肖像を作り、印三顆(「維祉冠存己夏処南山臧薄冰」「粛聖宝継」「徳封昌図」)を刻んだ罪、さらに合浦に徙されていた舅の呂寛の家と私通していた罪が発覚し、王宗は自殺した。莽はその号を貶して「功崇繆伯」の諡を与え、諸侯の礼で葬った。王宗の姉で衛将軍 王興の夫人 王妨は、姑への呪詛と口封じの婢殺害が発覚し、莽は中常侍 薱惲に責めさせ、妨と興はともに自殺、事は司命 孔仁の妻にも及び自殺した。仁は免冠して謝したが、莽は尚書に仁の車駕の礼制違反を劾させ、それでも咎めず新しい冠を与えるにとどめた。曲陽侯 王根の子 王渉を直道侯とし衛将軍に任じ、根を「直道譲公」と追諡した。
- この年、赤眉の力子都・樊崇らが饑饉のため琅邪で蜂起し、衆は万を数えるまでになったが、莽が遣った郡国兵は鎮圧できなかった。
天鳳六年――符命による偽装と匈奴出兵計画
- 天鳳六年春、莽は盗賊の多さに、太史に三万六千歳の暦紀を推算させ六年ごとに改元することとし、紫閣図の「太一・黄帝はみな崑崙・虔山で音楽を奏でて昇仙した」との言を引き、後世の聖主は終南山で奏楽すべしとして、寧始将軍を更始将軍と改称し符命に合わせた。百姓を惑わせ盗賊を鎮めようとしたが、世人はみな嘲笑した。
- 明堂太廟に新楽を初めて献じ、群臣は麟韋の弁を冠ったが、その楽の音は「清厲にして哀しく、興国の声にあらず」と評された。関東の饑旱が数年続き、力子都らの勢力は増した。更始将軍 廉丹は益州を攻めて克てず召還後に復位、大司馬護軍 郭興・庸部牧 李曅は蛮夷 若豆らを撃ち、太傅羲叔 士孫喜は江湖の盗賊を掃討した。匈奴の侵寇も甚だしく、莽は天下の丁男・死罪囚・吏民の奴を大募集して「猪突豨勇」と名づけ、吏民の財産の三十分の一を絹に換えて長安に運ばせ、公卿以下郡県の黄綬に至るまで軍馬を保養させた。また匈奴攻略の奇策を広く募り、「舟なしで水を渡り百万の軍を渡せる」「食物なしで三軍を飢えさせない」「一日千里を飛び匈奴を窺える」等の献策を試させたが、大鳥の翮で作った両翼を着けた男が数百歩で墜落するなど、実用にならぬと知りつつも名目上「理軍」に任じ車馬を与えて待機させた。
- かつて匈奴の右骨都侯 須卜当(妻は王昭君の娘)が漢に内属していたが、莽は昭君の甥 和親侯 王歙に当を塞下に誘い出させ、強いて長安に連行し「須卜善于後安公」に立てた。大司馬 厳尤は「当を長安の槀街に置けば匈奴にとってただの一胡人に過ぎず、匈奴に留めておく方が有益」と諫めたが、莽は聴かず、単于 輿を誅して当を代えて立てようとし、尤と廉丹に「二徴将軍」の号を与えて匈奴撃を命じた。尤は元来四夷討伐に反対で、楽毅・白起が用いられなかった故事や辺事三篇を著して諷諫していたが、廷議でも「匈奴は後回しにし山東の盗賊を先に憂うべし」と固執したため、莽は激怒して尤の大司馬を罷免し、降符伯 董忠を後任とした。
- 翼平連率 田況は郡県の訾財申告の不実を奏し、莽は三十税一を復して況の忠言を賞し伯に進め銭二百万を賜ったが、民衆はみな況を罵った。青徐の民は多くが郷里を捨てて流亡し、老弱は道に死し壮者は賊に投じた。夙夜連率 韓博は「丈余の巨人が現れ胡虜討伐を志願し、自ら巨毋霸と名乗った。皇天が新室を助ける証」として大車に載せて闕に送ると上言したが、これは莽に簒奪を思いとどまらせようとする諷諭であった。莽はこれを悪んで巨毋霸を新豊に留め姓を「巨母氏」と改めさせ、韓博を投獄して弃市に処した。
地皇改元と符命の乱発
- 翌年、地皇と改元した(三万六千歳の暦号による)。地皇元年正月乙未、天下に大赦したが、出征の軍で法を犯す者は問答無用で斬るとの厳令を下し、この年の春夏、都市で人が斬られ続け百姓は道で目配せするのみとなった。二月壬申、太陽が真っ黒に見える異変があり、莽はこれを憂い天譴を避けようとする詔を出した。
- 莽は四方の盗賊の多さを厭い、黄帝の故事に倣って前後左右中の大司馬を置き、州牧に大将軍号を、郡の卒正・連率・大尹に偏将軍を、属令長に裨将軍を、県宰に校尉の号を与えるなど軍職を誇張的に拡充したが、乗伝の使者が頻々と往来し、倉に穀なく民から徴発するばかりであった。
- 七月、大風が王路堂を壊した。莽は「予甚だ弁し、予甚だ栗し、予甚だ恐る」と虞書の「烈風雷雨に迷わず」の語を引いて詔を下し、かつて符命で新遷王とした安、統義陽王とした臨のうち、臨を皇太子に擬する議があったことを回顧した。臨は久しく病んで平癒せず、朝見にも茵に乗せて担がれ、妃妾は東永巷に置かれていた。壬午、烈風が王路の西廂・後閣・昭寧堂を壊し、池畔の大楡樹が倒れて東閣を直撃した。莽はこれに驚き、月が心宿の前星を犯すとの占いも聞いて、「名が正しくなければ言が順わない」として安を新遷王、臨を統義陽王のまま留め、二子の安全を図ろうとした。
- この月、杜陵便殿の匣に納めた乗輿の虎文の衣が独りでに堂上に現れ、地に落ちる怪異があった。莽はこれを悪んで郎従官に絳色の衣を着せ、望気の者は土木の兆ありと言った。莽は大功を建てて自ら安んじようとし、波水の北・郎池の南、また金水の南・明堂の西を占って長安城南に方百頃の地を選び、九月甲申、自ら赴いて視察し築を三度撞いた。司徒 王尋・司空 王邑・侍中常侍執法 杜林ら数十人が造営を主管した。崔発・張邯は「徳の盛んな者は文飾も豊かであるべき」と進言し、莽は天下の工匠と、義捐で銭穀を献じた者を広く募って造営を進め、城西苑中の建章・承光・包陽・大台・儲元宮や平楽・当路・陽禄館など十余所を取り壊してその材瓦で九廟を建てさせた。大雨が六十余日続き、米六百斛を献じた者を郎に取り立てた。
- 九廟は、一に黄帝太初祖廟、二に帝虞始祖昭廟、三に陳胡王統祖穆廟、四に斉敬王世祖昭廟、五に済北愍王王祖穆廟(この五廟は永代不毀)、六に済南伯王尊禰昭廟、七に元城孺王尊禰穆廟、八に陽平頃王戚禰昭廟、九に新都顕王戚禰穆廟と称し、いずれも重層の殿で、太初祖廟は東西南北各四十丈・高さ十七丈余、他は半分の規模、銅の薄櫨に金銀の彫文を施すなど百工の巧を尽くした。費用は数百鉅万に及び、工事に死んだ卒徒は万を数えた。鉅鹿の馬適求らが燕趙の兵を挙げて莽を誅そうと謀ったが大司空士 王丹の告発で発覚し、連座した郡国の豪傑数千人が誅殺され、丹は輔国侯に封ぜられた。
- この年、大銭・小銭を廃して「貨布」(長二寸五分・広一寸・直貨銭二十五)と「貨銭」(径一寸・重五銖・直一)の二品を並行させ、盗鋳や布貨隠匿には伍人連座で官奴婢に没入する罰を科した。太傅 平晏が死に予虞 唐尊が後任となった。尊は自ら短衣小褏に牝馬・柴車で質素を示し、藁筵・瓦器を用い公卿に配って範を示し、男女が道を異にしないのを見ると赭幡でその衣を汚す象刑を自ら行った。莽は喜んで公卿に「尊に倣え」と申し敕し、尊を平化侯に封じた。
- このころ南郡の張霸・江夏の羊牧・王匡らが雲杜の緑林に拠って蜂起し「下江兵」と号し、衆は万余に達した。武功の中水郷では民家三百戸が陥没して池になった。
地皇二年――皇后の死と王安・王臨の死
- 地皇二年正月、州牧の位を三公に准じて監察の怠慢を戒め、牧監を新設して漢の刺史に准じさせた。この月、莽の妻が死に「孝睦皇后」と諡され、渭陵の長寿園西に葬られた。莽の妻はかつて莽が我が子を次々に殺すのを見て涕泣し失明していた。妻の侍者 原碧を莽が寵愛し、のち太子 王臨も原碧と通じたが、露見を恐れて共に莽の殺害を謀った。臨の妻 愔(国師公 劉歆の娘)は星占いを能くし、臨に吉兆を語って希望を持たせたが、臨は統義陽王に貶されて外第に出され、いよいよ憂懼した。莽の妻が病篤くなったとき臨が送った手紙(長孫・中孫〔宇・獲〕がともに三十歳で死んだことに触れ自らの身を案じる内容)を、看病中の莽が見て激怒し、臨に葬儀への参列も許さなかった。原碧らを取り調べて姦謀・毒殺計画の自白を得ると、莽はこれを隠して取調官を獄中に生き埋めにし、臨には毒薬を賜ったが臨は飲まず自刺して死んだ。侍中票騎将軍 同説侯 王林に魂衣・璽韍を持たせ、臨を「繆王」と貶める策書を下した。国師公 劉歆は星占いの件を知らなかったとされたが娘 愔も自殺した。
- この月、新遷王 安(莽の第三子)も病死した。莽が侯として封国にあったころの侍妾 増秩・懐能・開明が産んだ子(興・匡・曅・㨗)は身分の低い母から生まれたため公にされていなかったが、安の病篤きに及び莽は自らに嗣子なきを憂い、興らを皇子として遇すべしと上奏させ、王車で迎えて興を功修公、匡を功建公、曅を睦修任、㨗を睦逮任に封じた。ほどなく王明・王寿の孫も病死し、一月足らずで四人の喪が重なった。
- 莽は漢の孝武・孝昭廟を壊してその跡に子孫を分葬した。魏成大尹 李焉は卜者 王況と謀り、文帝の霊が地下で兵を発するという讖書を作らせたが発覚し、莽の遣った使者に捕らえられ獄死した。三輔の盗賊は麻のごとく乱立し、捕盗都尉の官を新設、太師羲仲 景尚・更始将軍護軍 王党を青徐に、国師和仲 曹放を郭興に協力させ句町に、それぞれ討伐に遣り、天下の穀と幣を西河・五原・朔方・漁陽に運ばせ匈奴攻略に備えた。
- 秋、霜が豆を枯らし関東は大饑饉と蝗害に見舞われた。鋳銭の罪で伍人連座し官奴婢に没入される者、鉄鎖で首を繋がれ鍾官に送られる者が十万を数え、死者は十のうち六、七に及んだ。孫熹・景尚・曹放らは討伐に失敗し軍が放縦にふるまい百姓をさらに苦しめた。莽は「荊楚に李氏が興り輔たるべし」との讖言を厭い、侍中掌牧大夫 李棽を大将軍揚州牧に任じ名を「聖」と改めさせ瓜田儀討伐に向かわせた。上谷の儲夏は瓜田儀への降伏勧告を志願し、儀は降伏を約しながら実行前に死んだ。莽はその遺骸を求めて葬り「瓜寧殤男」と諡したが、以後降る者はなかった。
- 閏月丙辰、天下に大赦した(莽の妻の喪に伴う恩赦)。郎 陽成脩は「継立民母」なる符命と、黄帝が百二十人の女で神仙になった説を献じ、莽は中散大夫・謁者九十人を天下に分遣して淑女を捜させた。莽は長楽宮の銅人五体が起き上がる夢を見て悪み、銅人銘の「皇帝初兼天下」の文字を削らせ、さらに漢の高廟の神霊に譴責される夢を見たとして、虎賁の武士に高廟へ入らせ剣で四面を突き、斧で戸牖を壊し、桃湯・赭鞭で屋壁を清め、軽車校尉をその中に居させ、北軍を高廟の寝殿に駐屯させた。黄帝が華蓋を立てて昇仙したとの説により、高さ八丈一尺の九重の華蓋を四輪車に載せ六馬に牽かせ力士三百人に挽かせたが、百官は密かに「これは葬送用の輀車に似て仙物ではない」と噂した。
- この年、南郡の秦豊の衆は万に近づき、平原の女性 遅昭平は経を説き博打で衆数千を河の中州に集めた。莽が群臣に討伐策を問うと皆「天が囚え歩く屍のようなもので命運は尽きている」と楽観したが、召された左将軍 公孫禄だけは、太史令 宗宣が天文を乱して朝廷を誤らせていること、太傅平化侯 唐尊が虚偽の名声を飾っていること、国師嘉信公 劉歆が五経を歪め師法を毀していること、明学男 張邯・地理侯 孫陽が井田制を造って民の生業を奪ったこと、羲和 魯匡が六筦で工商を窮乏させたこと、説符侯 崔発が阿諛で下情を塞いでいることを挙げ、これらを誅して天下を慰めるべきで、匈奴は攻めず和親すべきであり、憂いは匈奴でなく国内にあると諫言した。莽は怒って禄を虎賁に引き出させたが、その言を一部採り、魯匡を五原卒正に左遷して民怨をかわした。
- 四方で饑寒により群盗となった者は、なお「巨人」「三老」「祭酒」と自称するだけで城邑を占拠せず食を求めて転々とするのみであった。長吏・牧守の多くは自らの乱れた指揮で兵に殺され、莽はついにその実情を理解しなかった。大司馬士が豫州で査察中に賊に捕らえられ、賊が県に送り届けたにもかかわらず、莽はこれを誣告として獄に下し、七公に「盗賊が捕えられぬのは饑寒のせいと軽く言う俗論があるが、貧窮の窃盗と千百人規模の結党とは次元が違う。厳しく取り締まれ」と責める書を下した。群下はいよいよ賊の実情を言えず、擅に兵も発せず、賊は制御できなくなった。
- ただ翼平連率 田況だけは果断で、十八歳以上の民四万余人を徴発して武器を授け、刻石で約を交わしたため、赤眉はその境に入らなかった。況は無許可発兵の罪を自劾したが、莽は「必ず賊を滅ぼすという覚悟による」としてこれを問わず、況は境を出て賊を破り続け、莽は璽書で況に青徐二州の牧を兼ねさせた。況は「盗賊の原因は微小であったのに、県が郡を欺き郡が朝廷を欺いて、実態の十分の一・百分の一しか報告されず、朝廷も督責を怠って蔓延した。今は将帥・使者を減らし、城郭のない小郷の民を大城に集めて堅守させれば、賊は招けば降り攻めれば滅びる。むやみに将帥・使者を出すのはかえって賊より民を苦しめる」と献策し、二州の平定を一任するよう願ったが、莽は況の実力を恐れて密かに交代を命じ、況を召還して師尉大夫とした。況が斉の地を去ると討伐は瓦解した。
九廟落成と地皇三年の危機
- 地皇三年正月、九廟の屋根が完成し神主を納めた。莽は六馬の大駕に乗り五采の毛で龍文を描いた馬衣を着せ、華蓋車・元戎十乗を先導させて拝謁し、造営に当たった司徒・大司空に銭各千万を、侍中中常侍以下に封を賜い、都匠 仇延を邯淡里附城に封じた。
- 二月、霸橋が火災に遭い数千人で水を注いでも消えず、莽はこれを悪んで「三皇は春、五帝は夏、三王は秋、五伯は冬に象る」との詔を下し、霸(伯に通じる)の名を忌んで橋を「長存橋」、霸館を「長存館」と改称し、東岳太師に東方の倉を開いて窮乏する民を賑わせるよう命じた。
- この月、赤眉が太師羲仲 景尚を殺し、関東では人が人を食うほどであった。四月、太師 王匡・更始将軍 廉丹を東方に遣わし、都門の外で見送ると大雨が衣を濡らし、長老は「これを泣軍という」と嘆いた。莽は東岳太師に窮乏の救済を命じたが、王匡・廉丹の軍は行く先々で放縦をきわめ、東方では「寧ろ赤眉に逢うとも太師には逢うな、太師はまだましだが更始(廉丹)は我らを殺す」と評判された。莽はまた大夫・謁者を分遣して民に草木を煮て酪を作らせたが食用にならず、いたずらに手間を増やすだけであった。莽は天下の山沢の禁を開いて採取を許し課税しないとする詔を出した。
- 下江兵はますます盛んになり、新市の朱鮪・平林の陳牧らも郷邑を攻め続けた。莽は司命大将軍 孔仁を豫州に、納言大将軍 厳尤・秩宗大将軍 陳茂を荊州に遣ったが、尤は茂に「将を遣りながら兵符を与えず、いちいち指図を仰がせるのは、猟犬を繋いだまま獲物を求めるようなもの」と莽の不信任ぶりを嘆いた。
- 夏、東方から蝗が飛来して天を覆い、長安の未央宮にまで及んだ。莽は穀価高騰を厭って大倉を築き「政始掖門」と名づけて衛兵を置いた。関に流入した流民数十万人には養贍官を置いて食を給したが、使者と小吏が着服したため餓死する者が十人のうち七、八人に及んだ。中黄門 王業が長安市で安値で買い上げて経費節減の功で附城に封ぜられていたが、莽が城中の饑饉を尋ねると、業は良い飯を買って持参し「民の食はみなこの通りです」と偽り、莽はこれを信じた。
- 冬、無塩の索盧恢らが挙兵して城に拠ったが、廉丹・王匡がこれを攻め抜き首級万余を得た。莽は労いの璽書を送り両者を公に進爵させ、功のあった吏士十余人を封じた。赤眉の別校 董憲ら数万が梁郡におり、王匡は進撃を主張したが、廉丹は「新たに城を抜いた疲労軍は休養すべき」と諫めた。匡は聴かず単独で進み、丹もやむなく従って成昌で合戦、匡軍は敗れて匡は逃走した。丹は印綬・符節を匡に託し「小児は逃げてよいが、我は逃げられぬ」と言って戦死した。校尉 汝雲・王隆ら二十余人は「廉公すでに死せり、我らも生きて何とする」と敵中に突入し全員戦死した。莽はこれを悼み、匡を戒めつつも罪を赦し、廉丹には「果公」の諡を賜った。
淮陽王劉玄(更始帝)の即位と昆陽の戦い
- 国将 哀章が東方で太師 王匡と合流し、大将軍 陽浚が敖倉を守り、司徒 王尋が十余万を率いて雒陽の南宮を鎮め、大司馬 董忠が中軍北塁で士を養い、大司空 王邑が三公の職を兼ねた。司徒 王尋が長安を発った際、宿営先で黄鉞を失い、士の 房揚がこれを凶兆として自ら官を辞したため莽は揚を撃ち殺した。四方の盗賊は数万規模で城邑を攻め二千石以下を殺し、太師 王匡らの戦は思わしくなかった。莽は天下の潰乱を悟り、風俗大夫 司国憲らを分遣して井田・奴婢・山沢六筦の禁を解き即位以来の不便な詔令を取り消させようとしたが、実行に移す前に、光武帝(世祖)が兄の斉武王 劉伯升、宛の李通らとともに舂陵の子弟数千人を率いて新市・平林・朱鮪・陳牧らと合流し棘陽を攻め抜いた。厳尤・陳茂は下江兵の成丹・王常ら数千を破ったが、彼らは別に南陽に走り入った。
- 十一月、星孛が張宿に現れ五日で消えた。莽は太史令 宗宣や術数家に何度も問うたが皆「天文は安泰、賊はまもなく滅びる」と偽って答え、莽はそれで自らを安んじた。
- 地皇四年正月、漢兵は下江の王常らを得て前隊大夫 甄阜・属正 梁丘賜を斬り、その衆数万を殺した。京師では青徐の賊が数十万に及びながら旗号すら持たぬことが話題になり、厳尤は「黄帝や湯武でさえ旌旗号令を必要としたが、彼らにそれがないのは饑寒の群盗が烏合しているだけだからだ」と答えた。しかし劉伯升(劉縯)が甄阜を殺して檄を飛ばすと、莽は憂懼し、漢兵は勝に乗じて宛城を囲んだ。
- 世祖の族兄 劉聖公(劉玄)はすでに平林の兵にあり、三月辛巳朔、平林・新市・下江の将 王常・朱鮪らが共に聖公を帝に立て、更始元年と改元して百官を置いた。莽はいよいよ恐れ、外見だけでも安泰を装おうと鬚髪を染め、召し出した淑女 杜陵の史氏を皇后に迎え、聘礼に黄金三万斤・車馬奴婢珍宝を尽くし、前殿で自ら迎えて同牢の礼を行った。皇后の父 史諶を和平侯・寧始将軍に封じた。この日大風が屋を壊し木を折ったが、群臣は祥瑞として上寿した。莽は方士 昭君らと後宮で淫楽にふけりつつ、なお劉伯升や北狄・南夷を討つ詔を発し、太師 王匡・国将 哀章・司命 孔仁・兖州牧 寿良・卒正 王閎・揚州牧 李聖に三十万衆で青徐の賊を、納言将軍 厳尤・秩宗将軍 陳茂・車騎将軍 王巡・左隊大夫 王呉に十万衆で前隊の賊を撃たせた。七公幹士 隗囂ら七十二人を遣って赦令を布告させたが、囂らはそのまま逃亡した。
- 四月、世祖は王常らと潁川を攻め昆陽・郾・定陵を落とした。莽は大司空 王邑を雒陽に急派し、司徒 王尋とともに諸郡兵百万(号して「虎牙五威兵」)を発した。指揮は王邑が握り、兵法六十三家の術者を随行させ、府庫を傾けて珍宝・猛獣まで携え山東を威圧しようとした。集結した兵は四十二万、車甲士馬の盛んなことは古来未曾有であった。
- 六月、王邑・王尋は雒陽を発し宛へ向かう途中、すでに漢に降った昆陽を包囲した。厳尤は「尊号を称する者は宛にあり、急ぎ宛を攻めれば諸城は自ら定まる」と進言したが、王邑は「百万の大軍が通れば当然屠るべきだ、この城を屠って血の海を進めば愉快ではないか」と聴かず、城を数十重に囲んだ。降伏の申し出も許さず、厳尤が「帰る敵は遮らず、囲師には必ず逃げ道を空けよという兵法の教えに従い、逃げる敵に宛を脅かさせるべき」と重ねて諫めても王邑は聴かなかった。世祖が郾・定陵から数千の援軍を率いて到着すると、王尋・王邑はこれを侮って自ら一万余で迎撃したが敗れ、諸営に動くなと命じていたため大軍は救援できず、漢軍は勢いに乗って王尋を殺し、昆陽の城兵も打って出て挟撃、王邑は敗走した。大風で瓦が飛び豪雨が降り注ぐなか大軍は総崩れとなり、将士は各々の郡邑へ逃げ帰り、王邑は長安の勇士数千とともに雒陽へ辛くも帰還した。関中はこれを聞いて震え、盗賊が各地で蜂起した。
- 莽は漢兵が「莽は孝平帝を鴆殺した」と喧伝しているのを聞き、公卿以下を王路堂に集めて平帝の身代わりを願った金縢の策を開いて泣き示し、明学男 張邯に易の「戎を莽(草むら)に伏せ高陵に升るも三歳興らず」の句を「劉伯升・翟義の伏兵はついに興らない」との意に解釈させて群臣に万歳を称えさせ、東方から檻車で数人を護送させ「劉伯升らを処刑した」と偽らせたが、民はその虚偽を見破った。
王渉・董忠・劉歆の陰謀と粛清
- これより先、衛将軍 王渉は道士 西門君恵の讖記(星孛が宮室を掃う兆は「国師公」の姓名に応じるという)を信じ、大司馬 董忠にこれを語り、国師 劉歆にも「共に宗族の安全を図りたい」と迫った。歆は三子を殺された恨みと大禍が迫る恐れから渉・忠と謀り、莽を東方に降らせ南陽で宗族を全うさせようと図った。歆の長子で殿中警衛を掌る伊休侯 劉疊、司中大贅 起武侯 孫伋も謀に加わったが、伋は帰宅後に顔色を変えて食を摂らず、妻が怪しんで問い詰めて事情を知り、弟の陳邯に告げ、邯がこれを密告した。七月、莽が使者を分遣して忠らを召すと、護軍 王咸は使者を斬って挙兵すべきと勧めたが忠は聴かず、歆・渉とともに省戸下に集まり、莽の遣った薱惲の尋問に服罪した。忠は斬馬剣で処刑され、宗族は生き埋めにされ、劉歆・王渉は自殺した。莽は二人が骨肉・旧臣であることを憚りその誅殺を隠した。歆の長子 劉疊は素行の慎み深さから告発せずに済んだが、侍中中郎将を免じ中散大夫に落とされた。
- のち高廟の鉤盾の土山で怪異が語られ、卦を能くする衍功侯 王喜が莽のために占うと「兵火の憂い」と出、莽は自らこれを「祖先の霊が迎えに来るのだ」と解釈した。莽の軍が外に敗れ内に叛かれ、頼れる者もなくなると、崔発は「王邑は小心な性格ゆえ召還されれば節を守って自尽しかねない、大いに慰めるべき」と諫め、莽は発を遣って「予には嫡子がなく天下を邑に伝えたい」と諭させた。王邑は帰還して大司馬となり、大長秋 張邯が大司徒、崔発が大司空、司中夀容 苗訢が国師、同説侯 王林が衛将軍となった。
都の陥落
- 莽は憂懣のあまり食が進まず、ただ酒を飲み鰒魚を食べては軍書を読んで疲れ、机にもたれて眠るばかりであった。日を選ぶ小数(迷信)を好み、事態が迫ると渭陵・延陵の門の罘罳を壊し墨で周垣を汚すなど厭勝の術を行い、「将軍・都尉に木や金の官号を与えて枯木を伐り大水を流し火を滅す」といった類の呪術を数え切れぬほど行った。
- 秋、太白星が太微に流入し月光のように地を照らした。成紀の隗崔兄弟が大尹 李育を劫し、兄の子 隗囂を大将軍として雍州牧 陳慶・安定卒正 王旬を攻め殺してその衆を併せ、莽の罪を桀紂にまさると郡県に布告した。この月、析の鄧曄・于匡が挙兵し、析の宰は降って両者は輔漢左将軍・右将軍を自称、丹水を抜いて武関を攻め、都尉 朱萌が降り、右隊大夫 宋綱を殺して湖を陥れた。
- 莽はいよいよ策尽き、崔発の勧めで南郊に群臣を率いて赴き、符命の本末を陳べて天に誅賊を求め、胸を打って号泣し、千余言の告天策を作った。諸生・小民が朝夕哭礼に参加すると飱粥を賜い、策文を誦じられる者を郎に取り立て、その数五千余人に達した。莽は九人を将軍に任じ「九虎将」と号して北軍の精兵数万を率いさせ、その妻子は人質として宮中に留めた。宮中の黄金は一匱万斤で六十余匱、その他御府・都内などにも財宝が山積していたが、莽はこれを惜しんで九虎の士にわずか一人四千銭を賜っただけで、士卒の不満は募った。
- 九虎は華陰の回谿で防戦したが、于匡・鄧曄らに次々に破られ、六虎は敗走、史熊・王況は闕に至って自殺、残る四虎は逃亡、三虎の郭欽・陳翬・成重は京師倉に籠って辛うじて残兵をまとめた。鄧曄は武関を開いて漢の丞相司直 李松を迎え入れ、弘農掾 王憲を校尉として渭水を渡らせ左馮翊を降し、李松の偏将軍 韓臣らは新豊で莽の波水将軍を破り長門宮まで進んだ。王憲は頻陽に至るまで各地の豪族(櫟陽の申碭、下邽の王大、斄の厳春、茂陵の董喜、藍田の王孟、槐里の汝臣、盩厔の王扶、陽陵の厳本、杜陵の屠門少ら)を糾合し、漢の将を称した。李松・鄧曄はなお長安の攻略は更始帝の本隊を待つべきとしたが、天水の隗氏の兵が迫っていると聞いた諸軍は先を争って城に迫った。
- 莽は使者を分遣して城中の獄囚を赦し武器を与え、豨を殺して血をすすらせ「新室に従わぬ者は社の鬼がこれを記す」と誓わせた。更始将軍 史諶は渭橋を渡ろうとした兵がみな逃げ散り一人で戻った。乱兵は莽の妻子・父祖の墓を暴いて棺を焼き、九廟・明堂・辟雍も焼かれ、火は城中を照らした。莽は城門卒への不信から越騎士六百人を新たに衛門に配した。
- 十月戊申朔、兵は宣平城門(俗称都門)から侵入した。大司徒 張邯は城門を巡視中に殺された。王邑・王林・王巡・薱惲らが北闕下で防戦し、莽の懸賞を望む漢兵七百余人が力戦した。日暮れとともに官府・邸第の者はみな逃げ散った。二日目の己酉、城中の少年 朱弟・張魚らが略奪を恐れて騒ぎ立て、作室門を焼き敬法闥を斧で壊し「反虜王莽、なぜ降らぬ」と叫び、火は掖庭・承明(黄皇室主の居所)にも及んだ。莽は宣室前殿に逃れたが火は追ってきて、宮人・婦女は泣き叫んだ。莽は紺色の礼服をまとい璽綬を帯び、虞帝の七首を持ち、天文郎に栻を占わせては斗柄の向きに座を移し、「天、徳を予に生ず、漢兵われを如何せん」と嘯いた。この間ほとんど食事もとれず衰弱した。
- 三日目の庚戌、群臣に助けられ前殿の南の階を降り西の白虎門を出、和新公 王揖の車で漸台に至り池水を頼みとしようとした。なお符命と威斗を抱えたまま公卿大夫・侍中・黄門郎・従官千余人が付き従った。王邑は昼夜の激戦で疲れ果て、間道を抜けて漸台に駆けつけ、そこにいた子の侍中 王睦が逃げようとするのを叱って父子で守った。莽軍の兵が「反虜王莽はどこか」と叫ぶと、美人が「漸台にいる」と答え、兵は数百重に台を囲んだ。台上からも弓弩で応戦したが矢が尽きると白兵戦となり、王邑父子・薱惲・王巡が戦死した。莽が室に入って間もなく、王揖・趙博・苗訢・唐尊・王盛・中常侍 王参らも台上で討ち死にした。商人の杜呉が莽を殺してその綬を取り、校尉 東海の公賔就(かつて治礼の官にあり天子の綬を見知っていた)が呉に綬の在り処を問い、莽の首を斬った。兵士たちは莽の遺体を奪い合い、肉片を巡って数十人が殺し合ったという。公賔就は莽の首を王憲のもとに届け、憲は自ら漢の大将軍を称し城中数十万の兵を配下に置き、東宮に入って莽の後宮の女性を娶り、その車服を用いた。
新朝の滅亡
- 六日目の癸丑、李松・鄧曄が長安に入り、続いて将軍 趙萌・申屠建も至った。王憲が璽綬を奉らず宮女を多く抱えていたことを咎めて建は天子の鼓旗を掲げていた憲を斬り、莽の首は更始のもとへ送られて宛の市に晒され、百姓は競って打ち、舌を切り取って食う者もあった。莽の揚州牧 李聖・司命 孔仁は山東で敗れ、聖は戦死、仁は降った後「人の食を食んだ者は死ぬと聞く」と述べて自刺した。曹部監 杜普・陳定大尹 沈意・九江連率 賈萌は郡を守って降らず誅された。賞都大尹 王欽と郭欽は京師倉を守っていたが莽の死を聞いて降り、更始帝はその義を認め侯に封じた。太師 王匡・国将 哀章は雒陽で降り宛に送られて斬られた。厳尤・陳茂は昆陽で敗れて沛郡の譙まで逃れ、漢将を自称して吏民を集め莽の簒位を非難し漢の復興を説いたが、故漢の鍾武侯 劉聖が汝南で挙兵し尊号を称していると聞くと降り、尤は大司馬、茂は丞相とされたものの十余日で敗死した。郡県はみな城を挙げて降り、天下はことごとく漢に帰した。
- かつて申屠建に詩を教えた崔発は、建が降ったのちも符命を説き続けたため、建は丞相 劉賜に発を斬らせて衆に示した。史諶・王延・王林・王呉・趙閎も降ったのちに殺された。仮の号を得ていた兵の多くが封侯を望んでいたため、王憲を斬った申屠建は「三輔の者どもが結託して主を殺した」と揚言し、吏民は恐れて各県に立て籠もり、建らでは鎮められず更始に急を告げた。
- 更始二年二月、更始帝が長安に至り大赦の詔を出し、王莽の子以外はみな罪を除いたため、王氏の宗族の一部は生き延び三輔は平定された。更始は長楽宮に都したが、府蔵は完備していたのに未央宮だけは火災で失われ、莽誅殺から三日ののちは秩序が戻ったという。しかし更始は一年余りで政教が行われなくなり、翌年夏、赤眉の樊崇らの数十万が関中に入って劉盆子を立て、更始を攻めてこれを降し、長安の宮室・市里を焼いた。更始も殺され、民は饑餓のあまり人を食い、死者数十万、長安は廃墟となって城中に人影もなく、宗廟・園陵もことごとく暴かれた(霸陵・杜陵のみ無事であった)。六月、世祖(光武帝)が即位してようやく宗廟社稷が復興し、天下は治まった。
賛(史論)
- 賛にいう。王莽は外戚として身を起こし、節を折って徳行に励み名誉を求め、宗族には孝と称され、師友には仁者と慕われた。成帝・哀帝の間、政に勤め正道を行うと評されたのは、あたかも『論語』にいう「家にあっても必ず聞こえ、国にあっても必ず聞こえる、色に仁を取りながら行いはそれに反する」者ではなかったか。莽はもともと不仁でありながら佞邪の才を備え、鳳・商・音・根と四代にわたる王氏の権勢を受け継ぎ、漢室が衰え国統が三度絶えるという時運に遭い、太后が長寿でその宗主であり続けたことが、簒奪の禍を成す土壌となった。これを推せば、人力よりもむしろ天時の然らしめるところであったといえよう。
- しかし帝位を窃んで南面するに及び、桀紂よりも危うい情勢にありながら、莽は泰然として自らを黄帝・虞舜の再来と信じ、ほしいままに威詐をふるって天を欺き民を虐げ、凶悪を極め、その害は中華に満ち蛮貉にまで及んだ。四海の民はことごとく生きる喜びを失い、内外の憤怨は遠近から一斉に噴出し、城池は守られず、莽自身の身体は八つ裂きにされ、天下の城邑は廃墟となり、丘墓は暴かれて禍は朽骨にまで及んだ。史書に記された乱臣賊子・無道の者のうち、その禍敗の甚だしさにおいて莽に及ぶ者はいない。かつて秦は詩書を焼いて私議を立てたが、莽は六経を誦じて姦言を飾った。帰結は異なる道を辿りながらともに滅亡に至った点で同じであり、いずれも天命に背いた亢竜の運命であった。「紫色䵷声、余分閏位」と評されるゆえんであり、莽の顛末は聖王(光武帝)の出現に先立つ露払いに過ぎなかったのである。