漢書卷九十九中 王莽𫝊第六十九中 王莽

王莽卷中。禅譲を終えた王莽は孺子劉嬰を定安公とし、官制・地名・封建・宗廟をことごとく周制風に改める大改革を断行した。貨幣改革と六筦の令で経済を混乱させ、対外的には匈奴・西南夷を挑発して戦端を開き、辺境が疲弊するなか符命を乱発して権威を取り繕った。

年表(4件)

定安公国の設置と孺子への処遇

  • 始建国元年正月朔、莽は公侯卿士を率いて皇太后の璽韍を太皇太后に奉り、符命に順って漢の号を去った。莽の妻(宜春侯 王訢の孫 王咸の娘)は皇后に立てられた。四男のうち宇・獲の二子はすでに誅死し、安は言動が荒忽であったため、臨を皇太子、安を新嘉辟とした。宇の子六人(千・寿・吉・宗・世・利)はそれぞれ功隆公・功明公・功成公・功崇公・功昭公・功著公に封ぜられ、天下に大赦した。
  • 莽は孺子 劉嬰に禅譲の策を読み聞かせ、「昔周公は摂位して終には子に明辟を復したが、予は皇天の威命に迫られて意のままにならない」と述べて涙した。嬰を定安公とし、平原・安徳・漯陰・鬲・重丘の五県一万戸方百里を国とし、漢の祖宗の廟をその国に立て、孝平皇后を定安太后とした。中傅が孺子を殿から降ろし北面して臣と称させると、百僚は感動した。嬰は明光宮を改めた定安館に置かれ、乳母も接見を禁じられ、成長しても六畜の名も知らぬまま育てられたという。のち莽は孫娘をその妻とした。

官制の大改革

  • 輔臣がそれぞれ封拝された。太師 安新公 王舜、太傅 就新公 平晏、国師 嘉新公 劉歆、国将 美新公 哀章の四輔(位は上公)、大司馬 承新公 甄邯、大司徒 章新公 王尋、大司空 隆新公 王邑の三公、更始将軍 広新公 甄豊、衛将軍 奉新公 王興、立国将軍 成新公 孫建、前将軍 崇新公 王盛の四将、あわせて十一公。王興・王盛は符命に応じて城門令史・餅売りから抜擢された者で、神異を演出するためであった。この日、卿大夫・侍中・尚書の官を数百人に授け、諸劉の郡守はみな諫大夫に転じさせた。
  • 莽は五岳と星辰(歳星・熒惑・太白・辰星・填星)に太師・太傅・国師・国将などの職掌をなぞらえた煩瑣な官制を策命し、大司馬司允・大司徒司直・大司空司若を孤卿とし、大司農を羲和(後に納言)、大理を作士、太常を秩宗、大鴻臚を典楽、少府を共工、水衡都尉を予虞と改称、三公の下に九卿を分属させ、各卿に大夫三人・元士三人を置き(合計二十七大夫・八十一元士)、光禄勲を司中、太僕を太御、衛尉を太衛、執金吾を奮武、中尉を軍正と改め、大贅官(のち六監)を新設した。郡太守は大尹、都尉は太尉、県令長は宰、御史は執法、公車司馬は王路四門、長楽宮は常楽室、未央宮は寿成室、前殿は王路堂、長安は常安と改称し、秩禄の名称(百石を庶士、六百石を元士、二千石を上大夫など)もすべて改めた。さらに司恭・司徒・司明・司聡の司中大夫や誦詩工・徹膳宰を置いて過失を諫めさせ、進善の旌・誹謗の木・諫めの鼓を王路門に設け、諫大夫四人を常駐させた。

姓氏封建と宗廟制度

  • 莽は喪服の等級に準じて王氏一族を侯・伯・子・男(女子は「任」)に封じ、印韍を授けた。「天に二日なく、土に二王なし」として、漢の諸侯王や四夷の僭称王をすべて侯に格下げした。
  • 自らを黄帝・虞帝の末裔とし、黄帝・少昊・顓頊・嚳・堯・舜・禹・皋陶・伊尹の後裔を捜し出して、姚恂を初睦侯(奉黄帝後)、梁護を修遠伯(奉少昊後)、皇孫功隆公 王千を(奉帝嚳後)、国師 劉歆を祁烈伯(奉顓頊後)、劉歆の子 劉畳を伊休侯(奉堯後)、嬀昌を始睦侯(奉虞帝後)、山遵を襃謀子(奉皋陶後)、伊玄を襃衡子(奉伊尹後)とし、漢の後裔 定安公 劉嬰・周の後裔 衛公姫党(章平公と改封)・殷の後裔 宋公孔弘(章昭侯と改封)・夏の後裔 遼西姒豊(章功侯)を「賓」「恪」として明堂に配祀した。また孔子の後裔 孔均を襃成侯とした。
  • 莽は黄帝から高祖の済南伯王に至る系譜(姚・媯・陳・田・王の五姓)を述べ、新都侯の東第を大禖として祀り、姚・媯・陳・田・王の五姓を同族の宗室とし世々賦役を免じたが、元城の王氏だけは同祖ゆえに他の四姓との通婚を禁じた。統睦侯 陳崇(奉胡王後)・世睦侯 田豊(奉敬王後)も封じられた。翟義・趙明の乱鎮圧に功のあった天下の牧守も男・附城に、旧恩ある戴崇・金渉・箕閎・陽並らの子も男に封ぜられ、使者を分遣して黄帝の園(上都橋畤)・虞帝(零陵九疑)・胡王(淮陽)・陳敬王(斉臨淄)・愍王(城陽莒)・伯王(済南東平陵)・孺王(魏郡元城)を四時に祭らせた。天下がまだ定まらぬうちは明堂太廟で祫祭し、漢の高廟を「文祖廟」として自らの舜への即位継承になぞらえた。漢の宗廟は元帝・成帝・平帝の七廟を定安国に立てる一方、京師の旧廟はしばらく存続させた。

「漢家三七の厄」論と貨幣・符命政策

  • 莽は「漢は十二世、三七の厄に至って皇天が命を予に授けた」と説き、世に流布する「劉」字は「卯金刀」であるとの俗説を採り、正月に剛卯・金刀の類の佩用を禁じ、小銭(径六分・重一銖・直一)を大銭(直五十)と並行させ、銅炭の私蔵を禁じた。
  • この年四月、徐郷侯 劉快が膠東で挙兵したが、兄の扶崇公 劉殷は城を閉ざして拒み、快は敗死した。莽は殷の忠を嘉し、殷の国を戸一万・地方百里に増封した。
  • 莽は天下の田を「王田」、奴婢を「私属」と改め、いずれも売買を禁じ、男丁八人に満たず一井(田百畝)を超える田は九族郷里に分与させ、井田の聖制に異を唱える者は四裔に追放するとした。しかし貨幣制度の頻繁な変更により盗鋳が横行し、田宅・奴婢の売買や鋳銭に連座して罪を得る者は諸侯卿大夫から庶民まで数え切れなかった。莽はやがて民怨を悟り、王田の売買を黙認する詔を出した。
  • 秋、五威将 王竒ら十二人を天下に遣わし、徳祥五事・符命二十五・福応十二の符命四十二篇を頒布させ、莽が漢に代わって天下を得る天命を宣伝した。

始建国二年――六筦の令と匈奴の破綻

  • 長安の狂った女が道で「高皇帝が怒っている、九月までに国を返さねば汝を殺す」と叫び、莽は捕らえて殺した。真定の劉都らの挙兵計画が発覚し誅殺され、真定・常山では雹害があった。
  • 始建国二年二月、天下に大赦し、五威将帥七十二人が復命した。漢の諸侯王で「公」となった者はみな璽綬を上げた。六筦の令(酒・塩・鉄器の官営、鋳銭の官営、山沢産物への課税、市の官売・賒貸による利息徴収)を初めて設け、義和(大司農)に督酒利の官を置いた。民の弩・鎧の携帯を禁じた。
  • 匈奴単于が故璽の返還を求めたが莽は与えず、単于は辺郡を侵し始めた。十一月、戊己校尉の史 陳良・終帯が校尉 刁護を殺して吏士を劫し「廃漢大将軍」と自称して匈奴に亡命する事件、また「漢氏劉子輿(成帝の落胤と自称)」を名乗る男が現れる事件が起き、莽はこれに関わった者を厳しく処罰した。莽は漢の諸廟を京師から除き、諸劉の諸侯を戸数に応じ五等に格下げし、吏である者は罷免して家で沙汰を待たせるべきと奏し、太后はこれを許した。
  • 符命により功のあった明徳侯 劉龔・率礼侯 劉嘉ら三十二人と、これと同宗の劉氏で罪を得ていない者には「王」姓を賜った。定安太后の号は「黄皇室主」と改められ、漢との縁を絶った。
  • 冬十二月、匈奴単于の号を「降奴服于」、その名を「知」と改め、立国将軍 孫建ら十二将を十道から同時に出撃させ、呼韓邪単于の子孫十五人を単于に分立させて匈奴の勢力を分断しようとした。藺苞・戴級を遣って単于の弟 咸とその子 登を塞下に招き、咸を「孝単于」に、登を人質として長安に送った後「順単于」に立てた。五威将軍 苗訢・虎賁将軍 王況ら(五原)、震狄将軍 王巡ら(雲中)、振武将軍 王嘉・平狄将軍 王萌(代郡)、相威将軍 李棽・鎮遠将軍 李翁(西河)、誅貉将軍 陽俊・討穢将軍 厳尤(漁陽)、奮武将軍 王駿・定胡将軍 王晏(張掖)ら偏裨以下百八十人が分遣され、天下の囚徒・丁男・甲卒三十万人が徴発されて天下は騒然となった。莽が制定した貨幣(宝貨五品)は実際には流通せず、大銭・小銭のみが使われ続け、盗鋳を防ぐため一家の鋳銭に五家連座で没入奴婢とする重罰が科された。
  • 符命による封侯を狙う偽作が横行したため、司命 陳崇はこれを諫めたが、莽もこれを厭って尚書大夫 趙並に取り締まらせた。当初莽を居摂へ導いた甄豊・劉歆・王舜は、本来莽の即真までは望んでいなかったが、事ここに至り恐れを抱いた。甄豊は更始将軍に落とされ売餅の徒 王盛と同列とされ、その子 甄尋は「新室は陝を分かち二伯を立てるべし」との符命を作って甄豊を右伯とした。さらに尋が「前漢平帝の后 黄皇室主が尋の妻となるべし」との符命を作ると、莽は激怒して尋を捕らえようとし、尋は逃亡、豊は自殺した。尋は華山に隠れて捕らえられ、獄は国師公 劉歆の子 侍中 劉棻、棻の弟 劉泳、大司空 王邑の弟 王竒、劉歆の門人 丁隆らに及び、死者数百人に達した。莽は尋の手相の文字を「戮」と解釈し、劉棻を幽州に流し、甄尋を三危に放ち、丁隆を羽山で誅した(舜の四罪の故事に倣ったもの)。
  • 莽の容貌は口が大きく顎が短く、目は落ち窪んで赤く、声はしわがれ、身長七尺五寸、厚底の履と高い冠を好み、傲然と辺りを睥睨した。ある黄門待詔が「梟の目、虎の口、豺狼の声」と評したことを莽は知って怒り、その待詔を誅し、告げ口した者を封じた。以後は雲母の屏で顔を隠すようになった。この年、初睦侯 姚恂が寧始将軍となった。

始建国三年――辺境の疲弊と符命偽装

  • 莽は「百官の職掌・律令儀法はまだ定まらぬので当面は漢の律令に依る」とし、徳行・政事・言語・文学に優れた吏民各一人を王路四門に召させた。尚書大夫 趙並を北辺の視察に遣り、五原の北仮の地に田官を置いて屯田させた。辺将は大軍の集結を待つ間に放縦となり、内郡は徴発に苦しんで民が流亡し、并州・平州で特に甚だしかった。莽は七公六卿にみな将軍号を兼ねさせ、著武将軍 逯並らを名都に配し、中郎将・繍衣執法各五十五人を辺境の大郡に分置したが、彼らはかえって私利を貪り州郡を乱した。
  • 藺苞・戴級は単于の弟 咸とその子 登を誘い入れ、咸に「孝単于」の号と黄金千斤等の厚礼を与えたが、太師 王舜は莽の簒位以来病んで死んだ。莽は舜の子 王延に安新公の爵を嗣がせ、延の弟 王匡を太師将軍とした。皇太子(王臨)には四師四友および師友祭酒九人を置き、楚国の龔勝を太子師友祭酒に召したが、勝は応じず絶食して死んだ。寧始将軍 姚恂は免ぜられ、孔永が後任となった。
  • この年、池陽県に小人が現れる怪異が伝わり、黄河沿岸の郡で蝗害が発生、黄河は魏郡で決壊し清河以東数郡に氾濫したが、莽は決壊が元城の祖先の墓を害さぬことを気にして堤の修復をしなかった。
  • 始建国四年二月、天下に大赦した。夏、赤気が空を覆った。厭難将軍 陳欽は辺境侵犯を孝単于の子 角の仕業と報告し、莽は怒って人質の登を長安で斬り四夷に示した。大司馬 甄邯が死に孔永が後任、王輔が寧始将軍となった。莽は外出のたび城中を戒厳(横索)させた。
  • 莽は明堂で諸侯に茅土を授ける詔を下し、周礼に基づき爵五等・地四等・附城の制(公は一同万戸方百里、侯伯は一国五千戸七十里、子男は二千五百戸五十里、附城は最大九百戸三十里から漸減)を定めた。すでに茅土を受けた者は公十四人・侯九十三人・伯二十一人・子百七十一人・男四百九十七人(計七百九十六人)・附城千五百十一人・任(女子)八十三人ほかに及んだが、国邑の図籍が未定のため当面は都内から月々銭数千を支給するのみで、諸侯の多くは困窮し傭作する者も出た。中郎 区博は千載廃絶した井田の古制をにわかに復すことの危険を諫め、莽も民怨を悟って、王田の売買を黙認する詔を出した。
  • 句町王 邯は五威将帥が王を侯に格下げしたことを怨んで従わず、莽は牂柯大尹 周歆に邯を偽って殺させたが、邯の弟 承が兵を挙げて周歆を攻め殺した。また莽が高句驪の兵を強制的に胡討伐に徴発したため、逃亡した兵が法を犯して寇となり、遼西大尹 田譚がこれを追撃して殺され、州郡は高句驪侯 騶に責を帰した。厳尤は「騶に他意なくとも重罪を科せば必ず離反し、夫餘なども呼応しかねない」と諫めたが莽は聴かず、厳尤は高句驪侯 騶を誘い斬って首を長安に送った。莽は喜び「高句驪」を「下句驪」と改めさせたが、貉人はますます辺境を侵し、東北・西南の異民族が相次いで乱れた。
  • 莽はなお稽古の政に没頭し、虞舜の巡狩の礼に倣って即真五年に当たるこの年、陰陽の厄運や星の位置を占って二月建寅の節に東巡狩することを企て、人馬・布帛の徴発や内郡国での馬の買い上げを命じたが、妻(文母皇太后)の病を理由にたびたび延期した。十一公の号を「新」から「心」、さらに「信」と改めた。
  • 五年二月、文母皇太后(莽の妻)が崩じ、渭陵に元帝と合葬しつつ溝で隔てて葬り、長安に廟を立てて莽は三年の喪に服した。大司馬 孔永は辞職し、逯並が後任となった。長安の民は莽が雒陽遷都を望んでいると聞いて邸宅の修繕をやめたが、莽は玄龍石の符命文(「定帝徳国雒陽」)を根拠に、始建国八年の遷都までは常安の都を修繕し続けるよう命じた。
  • この年、烏孫の大小昆弥が使者を送って貢献した。莽は大昆弥(漢の外孫)より小昆弥(胡婦の子)の使者を上位に置こうとし、保成師友祭酒 満昌がその非礼を劾奏したが、莽は怒って昌を免官した。西域諸国は莽への信を失い、焉耆がまず反して都護 但欽を殺した。十一月、彗星が二十余日出現した。

天鳳改元と洛陽遷都構想

  • 翌年、天鳳と改元した。天鳳元年正月、天下に大赦した。莽は虞舜の四時巡狩の理念に倣い、東西南北の巡狩ごとに自ら耒・耨・銍・拂を執って農事を奨励する構想を述べ、群公はその負担を案じて延期を請うたが、莽は聴かず、結局天鳳七年(実際には大幅に延期)に行うとし、太傅 平晏・大司空 王邑を雒陽に遣って宗廟・社稷・郊兆の造営に着手させた。三月壬申の晦、日食があり、大赦して大司馬 逯並を策免し、利苗男 訢を大司馬とした。
  • 即真後の莽は大臣の権を強く抑え、大臣の過失を弾劾する者を抜擢したため、孔仁・趙博・費興らが重用された。公卿の入宮吏には定員があり、太傅 平晏の従吏が定員を超えて掖門を通ったことを咎められると、莽は激怒して太傅府を包囲させ士を処刑した。大司空の属吏が奉常亭の亭長と揉めて殺害される事件では莽は亭長を罰さず、大司空 王邑がその属吏を処分して謝罪した。国将 哀章の不清廉には専任の監督官を置いた。
  • 四月、霜が降り草木を枯らし海浜で特に甚だしく、六月には黄霧が四方を塞ぎ、七月には大風が木を抜き瓦を飛ばし、雹が牛羊を殺した。
  • 莽は周礼に倣い、卒正・連率・大尹・属令・属長など世襲の地方官制を敷き、長安周辺六郷に帥を、三輔を六尉郡(京尉・師尉・翊尉・光尉・扶尉・列尉)に、河東・河内・弘農・河南・潁川・南陽を六隊郡に再編し、河南大尹を「保忠信卿」と改称、亭を名とする県三百六十を新設して符命の数に合わせた。西都常安を六郷六尉、東都義陽(雒陽)を六州六隊とし、内郡・近郡(障徼あり)・辺郡をあわせ百二十五郡二千二百三県を定め、『詩経』の語(惟城・惟寧・惟翰・惟屏・惟垣・惟藩)で郡県を分類したが、その後も郡名は一郡で五度も改められることがあり、吏民が覚えきれず詔書には必ず旧名を併記した。天下の小学には戊子を六旬の首とする暦を採らせたが、民の多くは従わなかった。

匈奴との破局と辺境の困窮

  • 匈奴単于 知(咸)の弟 咸が単于に立ち和親を求めると、莽は厚く賂を贈り人質 登の返還を偽って約したうえ、単于に陳良・終帯らの引き渡しを求め、単于はこれに応じて檻車で長安に送らせた。莽はこれを長安の城北で焼き殺した。辺境では飢饉が連年続き人が人を食うほどであった。諫大夫 如普は辺兵を視察して帰し撤兵を献策し、校尉 韓威は「勇士五千で匈奴を平らげられる」と勇ましく進言したが、莽は韓威の言に感心しつつ実際には如普の議を採り、辺将を召還して陳欽ら十八人を免じ、四関の填都尉と諸屯兵を廃した。しかし単于知は人質 登の誅殺を知ると再び寇を発し、辺民は内郡に流入して奴婢となる者が相次ぎ、莽はこれを匿う吏民を弃市の罪とした。益州の蛮夷が大尹 程隆を殺し三辺がことごとく反したため、平蛮将軍 馮茂を遣って討たせた。寧始将軍 侯輔は免ぜられ、戴参が後任となった。
  • 天鳳二年二月、王路堂で酒宴を開き公卿大夫が酌をし、天下に大赦した。日中に星が見えるという異変があり、大司馬 苗訢は司命に左遷され、陳茂が大司馬となった。黄龍が黄山宮で墜死したとの流言に万余の民が見物に押し寄せ、莽はこれを忌んで出所を追及したが分からなかった。単于咸は和親の証に人質登の遺骸の返還を求め、莽は使者派遣を恐れて、かつて人質誅殺を主張した陳欽に罪を着せて自殺させた。莽は済南王 咸を大使、伏黯らを帥として登の遺骸を送らせ、単于知の墓を暴いて鞭打たせ、単于に塞外への退去と馬牛羊の返還・辺民の解放を要求する使いとした。使者は単于輿に責めを果たしたが単于は屈服せず、咸は帰途で病死し、その子が伯に封ぜられた。
  • 莽は制度・礼楽の考証に没頭し、公卿は連日議論を重ねて決せず獄訟や民の困窮を顧みる暇がなかった。県の長官の欠員は数年放置され、貪残が日増しに甚だしくなった。中郎将・繍衣執法・伝相の弾劾、十一公士の勧農巡察の使者が道路にひしめき、賦斂と賄賂が横行した。莽は権を自ら握ろうとして万事を親裁し、有司は成案を受けるだけで責を免れることに終始し、また制度をしばしば改めては細かく質問するため事務が滞り、灯火を明け方まで灯しても処理しきれず、上書は何年も放置され、獄囚は大赦のたびにようやく釈放される有様であった。衛卒は三年も交代せず、穀価は高騰し、二十余万の辺兵を養う費用に五原・代郡は特に苦しみ、盗賊が千を数えて周辺郡に転入した。莽は孔仁を遣って一年余りかけてようやく鎮定したが、辺郡の民もほぼ尽きていた。邯鄲以北では大雨で数丈の洪水が出て数千人が死んだ。立国将軍 孫建が死に、趙閎が後任となった。
  • 天鳳三年二月乙酉、地震と大雪があり、関東で特に甚だしく積雪一丈、竹柏も枯れた。大司空 王邑は災異を理由に辞職を願ったが、莽は「震は害あり動は害なし」と慰留した。五月、莽は国用不足を理由に吏禄を大幅に減らす制度(一月の禄を布二匹または帛一匹)を定め、六月朔庚寅から実施、四輔から末端の輿僚まで十五等に分け、末端は年六十六斛、四輔は万斛とした。周礼の膳羞百二十品に倣い、諸侯・公卿・元士がそれぞれの采地から食を得る制度を定め、豊年には充たし、災年には減じるとした。東岳太師(立国将軍)が東方三州二十五郡、南岳太傅(前将軍)が南方、西岳国師(寧始将軍)が西方、北岳国将(衛将軍)が北方を分掌し、大司馬・大司徒・大司空もそれぞれ諸卿・諸郡を分担するという煩瑣な制度により、吏はついに禄を得られず官職を利用して姦利を貪った。
  • この月、長平館西の岸が崩れて涇水を塞ぎ流れを北に変えた。大司空 王邑が視察し、群臣は「土が水を鎮める」として匈奴滅亡の祥瑞と祝った。并州牧 宋弘・游撃都尉 任萌を遣って匈奴を撃たせたが辺境で屯するにとどまった。七月、霸城門(俗称青門)が火災に遭い、戊子晦の日食で大赦し、四行の推挙を再び行わせた。大司馬 陳茂は日食を理由に免ぜられ、厳尤が後任となった。十月、王路の朱鳥門が鳴り、崔発らはこれを「四聡に通ずる」吉兆として、四行に挙げられた者を朱鳥門から入らせ対策させた。
  • 平蛮将軍 馮茂は句町を撃ったが疾疫で兵の六、七割を失い、民財の五割を徴発して益州を疲弊させ、召還されて獄死した。代わって寧始将軍 廉丹と庸部牧 史熊が句町を撃ちある程度戦果を挙げたが、莽は召還したうえでなお増発を求め、越巂大尹 馮英は疲弊を理由に撤兵屯田を上言して莽の怒りを買い免官されたが、後に長沙連率に起用された。翟義の残党 王孫慶が捕らえられると、莽は医官と屠者に命じてその身体を解剖させ、五臓を測り竹の管で経絡を探らせ、治療の参考にすると称した。
  • この年、大使 五威将 王駿・西域都護 李崇が戊己校尉を率いて西域に出たが、かつて都護 但欽を殺した諸国が焉耆で偽りの降伏をして王駿らを伏兵で殺した。佐帥 何封・戊己校尉 郭欽は別動していて難を逃れ、帰途で焉耆の老弱を襲って引き揚げた。莽は郭欽を填外将軍・剼胡子、何封を集胡男に封じたが、西域との交通はここに絶えた。