漢書卷九十七上 外戚列傳第六十七上 外戚

後宮制度の総説

  • 帝王の興隆には内徳のみならず外戚の助けがある。夏の興隆は塗山氏、桀の滅亡は末喜、殷の興隆は有娀・有㜪、紂の滅亡は妲己、周の興隆は姜嫄・太任・太姒、幽王の破滅は褒姒によるとされ、易は乾坤を基とし、詩は関雎を首とし、書は釐降を美め、春秋は不親迎を譏る――夫婦の道は人倫の大本である。
  • 漢は秦の称号を継ぎ、帝の母を皇太后、祖母を太皇太后、正妻を皇后、妾は夫人・美人・良人・八子・七子・長使・少使と称した。武帝は倢伃・娙娥・傛華・充依の位を新設し、元帝はさらに昭儀を加え、計十四等の位階(昭儀=丞相・諸侯王相当から上家人子・中家人子=有秩・斗食相当まで)を定めた。五官以下は司馬門外に葬られる定めであった。

高祖呂皇后

  • 父呂公が高祖を見込んで娘を娶らせ、恵帝・魯元公主を生んだ。高祖の寵姫戚夫人が趙王如意を生み、太子(恵帝)廃立の危機があったが群臣の諫言と留侯(張良)の策で回避された。高祖崩御後、呂后は戚夫人を辱め趙王如意を毒殺、戚夫人の手足を断ち目をえぐり耳を焼き瘖薬を飲ませ「人彘」と呼んで厠に置いた。これを見た恵帝は病んで政務を執らなくなった。
  • 呂后は孝恵の死後、実子でない後宮の子を帝に立て、実母を殺してこれを隠したが、成長した少帝がこれを知り不満を漏らすと幽閉して殺し、恒山王弘を新帝に立てた。呂后は一族(呂台・呂産・呂禄ら)を王侯に封じ実権を握ったが、崩御後、周勃・陳平・劉章らが呂氏一族を皆殺しにし、代王(文帝)を迎え立てた。

高祖薄姫(文帝母)

  • もと魏王豹の宮人であったが、豹が漢に滅ぼされた後、高祖の後宮に入り一度だけ幸せられ文帝を生んだ。高祖崩御後、呂后の嫉妬を免れ代へ赴き太后となった。文帝即位後は皇太后として仁善で知られ、文帝の二年後に崩じ南陵に葬られた(正嫡の呂后とは合葬されず)。

孝文竇皇后(景帝母)

  • 良家子として後宮に入り、誤って代に配せられたが、これが幸いして代王(文帝)の寵愛を得、館陶長公主・景帝を生んだ。文帝即位後皇后となった。弟の竇広国(少君)は幼時に人買いにさらわれ苦難の末に姉との再会を果たし章武侯に封ぜられた。竇氏は黄老の学を好み、景帝・諸竇にも老子を読ませた。武帝の代まで生き、建元六年に崩御、霸陵に合葬された。

孝景薄皇后

  • 薄太后の縁で景帝の太子妃となり即位後皇后となったが、子なく寵もなく、薄太后崩御後に廃された。

孝景王皇后(武帝母)

  • 母臧児の策略で太子(景帝)の後宮に入り、王夫人として三女一男(後の武帝)を生んだ。長公主嫖の後押しで栗姫を排し皇后となり、子は太子となった(武帝)。景帝崩御後、太后として一族(田蚡・田勝ら)を侯に封じた。異父の姉の存在が知られ武帝が迎えて修成君に封じた話も伝わる。武帝即位後25年(景帝の代から数え)を経て元朔三年崩御、陽陵に合葬された。

孝武陳皇后

  • 長公主嫖の娘。武帝の即位に力あった長公主の威で皇后となり驕慢を極めたが、衛子夫の寵愛に嫉妬し、巫蠱(呪詛)の罪で元光五年に廃され長門宮に幽閉された。

孝武衛皇后(衛子夫)

  • 平陽公主家の歌女出身。武帝の目に留まり寵愛を受け、三女と皇太子劉拠(後の戻太子)を生み皇后となった。弟の衛青は大将軍、甥の霍去病は驃騎将軍として匈奴討伐で大功を立てた。晩年寵は衰え、征和二年の巫蠱の獄で太子とともに追われ自殺、一族は滅んだ。宣帝の代に思后と追諡され改葬された。

孝武李夫人

  • 兄李延年(音楽家、「北方に佳人あり」の歌で知られる)の縁で武帝の寵愛を受け昌邑哀王を生んだが早世。死に際し「色衰えれば愛弛む」との言葉を残し兄弟の将来を託した逸話が伝わる。死後、武帝は「是邪非邪」の詩や長い賦を作って追悼した(賦の内容は李夫人の美しさと死を悼み、追慕の情を綴ったもので、原文は非常に長いため要旨のみ記す)。死後、皇后の礼で葬られ、孝武皇后として合祀された。

孝武鉤弋趙倢伃(昭帝母)

  • 河間の出身、両手を握って生まれたとの伝説を持つ「拳夫人」。武帝の寵を受け14ヶ月の妊娠の末に昭帝を生み(堯の故事になぞらえられた)、その利発さから武帝に愛されたが、幼帝の外戚専横を恐れた武帝により譴責を受け憂死した。昭帝即位後、皇太后に追尊された。

孝昭上官皇后

  • 祖父上官桀は武帝に重用された将軍。父上官安が霍光の外孫を娶り、蓋長公主の寵臣丁外人の口利きで6歳にして皇后に立てられた。上官安の驕慢、上官桀・蓋長公主・燕王旦らによる霍光暗殺・帝位簒奪の陰謀(丁外人の封侯を巡る対立が発端)が発覚し一族は誅滅されたが、皇后自身は幼少で謀に与らず、また霍光の外孫でもあったため廃されなかった。宣帝の代まで太皇太后として在位47年、建昭二年に52歳で崩じ平陵に合葬された。

衛太子史良娣(宣帝祖母)

  • 戻太子(衛太子)の良娣。巫蠱の獄で太子とともに殺されたが、生まれた孫(後の宣帝)は史氏の外家に養われ生き延び、後に皇帝位に就いた。史氏一族は旧恩により侯に封ぜられた。

史皇孫王夫人(宣帝母)

  • 名は翁須。皇孫(史皇孫)の妻となったが号位はなく、征和二年に宣帝を生んだ数ヶ月後、巫蠱の獄で夫とともに誅殺された。宣帝即位後、悼后と追諡された。地節三年、幼くして波乱の生涯を送った母方の家族(外祖母王媼ら、賈長兒に売られ各地を転々とした経緯が詳しく記される)が探し出され、外祖父母は博平君・思成侯などに追封された。

孝宣許皇后(元帝母)

  • 父許広漢は誤って死罪となり宮刑(腐刑)を受けた元宦官。宣帝が民間にあった頃、掖庭の同僚として知り合い、皇曾孫(宣帝)と娘平君の縁談がまとまった。宣帝即位後、故剣の情(微賤時代の妻を忘れないの意)により皇后に立てられた。霍光夫人顕が自らの娘(成君)を皇后に立てんとして、医官淳于衍を使い許后を出産時に毒殺させた。許后は3年で崩じ杜陵南園に葬られた。父許広漢・叔父らは平恩侯などに封ぜられた。

孝宣霍皇后

  • 大将軍霍光の娘。母顕が許后を毒殺させた末に皇后に立てられたが、太子(元帝)暗殺も謀って露見せず、霍光死後、霍氏一族の謀反発覚により廃され、昭台宮に幽閉の末、雲林館で自殺した。

孝宣王皇后

  • 宣帝が民間にあった頃からの知人の娘。霍皇后廃位後、太子(許后の子)を守るため子のない謹厚な女性として選ばれ皇后となり、太子を養育した。元帝崩御後太皇太后となり49年間在位、永始元年に70余歳で崩御、杜陵に合葬された。

(以下、外戚列傳第六十七下に続く)