漢書卷九十五 西南夷兩粤朝鮮傳第六十五

西南夷の諸族と地理

  • 南夷の君長は十数を数え、夜郎が最大。夜郎の西には靡莫に属する諸族が十数、滇が最大(滇池にちなむ名)。滇より北の君長も十数、卭都が最大(今の卭州)。これらはみな椎結(髷を結う風俗)で耕田・邑聚があった。
  • その外側、西は桐師から東北は葉楡に至る地は巂・昆明と呼ばれ、編髪で家畜とともに移動し常住地・君長を持たず、地は数千里に及んだ。
  • 巂より東北の君長も十数、徙・莋都が最大(後の徙県・沈黎郡)。莋より東北の君長も十数、冉駹が最大(今の䕫州・開州の首領に冉姓が多いのはこの末裔)で、土着・移住が入り混じった。
  • 駹より東北の君長も十数、白馬が最大でみな氐族系。これらはみな巴蜀西南の外の蛮夷である。

楚の莊蹻と秦の五尺道

  • 楚の威王の時、将軍莊蹻(楚荘王の末裔)に兵を率いさせ長江を遡って巴・黔中以西を略させた。蹻は滇池に至り、方三百里・数千里に及ぶ肥饒の地を武威で楚に属させようとしたが、報告に戻る途中で秦が楚の巴・黔中郡を奪い道が塞がれたため、やむなくその衆を率いて滇に王となり、服を変じその俗に従った。
  • 秦の時代に一度この地を破り、幅五尺の道(五尺道)を通して諸国に官吏を置いたが、十余年で秦は滅び、漢が興ると漢はこの国々を棄て蜀の故徼まで退いた。巴蜀の民は密かに商賈して莋馬・僰僮・旄牛を得て巴蜀は殷富となった。

唐蒙・司馬相如による通道と犍為郡の設置

  • 建元六年、大行王恢が東粤を撃ち、東粤が王郢を殺して報じた。その兵威に乗じ番陽令唐蒙を南粤へ遣り諭させたところ、南粤で蜀の枸醬を食していることを知った。問うと「西北の牂柯江を経て来る。江は幅数里、番禺城下に出る」との答え。
  • 唐蒙は長安に帰り蜀の商人に問い、蜀だけが枸醬を産し、密かに持ち出して夜郎で売られていることを知った。夜郎は牂柯江に臨み、南粤は財物で夜郎を服属させていたが夜郎を完全に臣従させてはいなかった。
  • 唐蒙は上書し、南粤の強大さ(東西万余里)と、長沙・豫章からの水路が険しいのに対し夜郎の精兵十万を得て牂柯江を下れば南粤を制する奇策になると説き、漢の強さと巴蜀の富をもって夜郎への道を通し官吏を置くのは容易と述べた。武帝はこれを許し、唐蒙を郎中將に任じ、卒千人・食糧輸送の従者万余人を率い巴の莋関から夜郎侯多同のもとへ至らせた。厚く賜り威徳を諭して官吏を置く約を結び、その子を県令に准じる地位とした。
  • こうして犍為郡が置かれ、巴蜀の卒に僰道から牂柯江へ道を通させた。蜀人司馬相如も西夷の卭・莋に郡を置くべきと言い、相如を郎中將として遣り、南夷と同様に一都尉・十余県を置き蜀に属させた。
  • この頃、巴蜀四郡は西南夷への道普請のため物資輸送に追われ、数年たっても道は通ぜず、疲弊・飢餓・暑湿の病で死ぬ者が多かった。

西夷放棄と南夷経営

  • 西南夷はしばしば反乱し、討伐の兵は功を為さず費えるばかりで武帝はこれを患い、公孫弘を派遣して視察させた。公孫弘は不便を報告し、のち御史大夫となってからは朔方を築き匈奴に対する時期であるとして西南夷の経営は害多しと主張、武帝はこれを許して西夷を罷め、南夷にのみ二県・一都尉を置き犍為郡に自ら守らせた。

張騫の身毒国探索と滇王の服属

  • 元狩元年、博望侯張騫が大夏使節の折に蜀布・卭竹杖を見て問うたところ「東南の身毒国(天竺)を経て数千里、蜀の商人が市を開く」との答えを得た。また卭の西二千里に身毒国があるとも聞いた。
  • 張騫は大夏が漢の西南にあり中国を慕うが匈奴が道を遮ると説き、蜀から身毒国への道が通じれば近く害もないと述べた。天子は王然于・柏始昌・呂越人ら十余組を西南夷経由で身毒国探索に遣り、滇に至った。滇王当羌はこれを留めて道を求めさせたが四年余りも昆明に阻まれ通じなかった。
  • 滇王は漢使に「漢と我といずれが大きいか」と問い、夜郎侯も同様であった。互いに一州の王としてしか漢の広大を知らなかったのである。使者は帰って滇の大国ぶりを盛んに説き、天子はこれに注目した。
  • 南粤反乱の際、天子は馳義侯を遣り犍為から南夷兵を発せしめたが、且蘭君が遠征で国が手薄になることを恐れて反し、使者と犍為太守を殺した。漢は巴蜀の罪人・かつて南粤を撃った八校尉を発して撃ち、南粤は既に破れていたため八校尉は退かず、中郎將郭昌・衛広が引き返して滇への道を塞いでいた且蘭を誅し、数万を斬って南夷を平定、牂柯郡を置いた。
  • 夜郎侯は初め南粤を頼みとしていたが南粤滅亡後に誅を免れて入朝し、漢は夜郎王とした。南粤破滅と且蘭誅殺の後、卭君・莋侯・冉駹はみな震え恐れ臣従を願い出て、卭都を粤巂郡、莋都を沈黎郡、冉駹を文山郡、広漢西の白馬を武都郡とした。
  • 王然于は南粤破滅・南夷誅殺の兵威を背景に滇王へ入朝を諭した。滇王の衆数万は東北の労深・靡莫(同姓)と結び容易に聴かなかったが、労深・靡莫が使者・吏卒をしばしば侵犯したため、元封二年、天子は巴蜀の兵を発して労深・靡莫を滅ぼし滇へ兵を臨ませた。滇王は当初から善意を示していたため誅を免れ、滇は西夷を離れ挙国して降った。
  • 官吏を置き入朝することを願い出たため益州郡とし、滇王に王印を賜って民の長のままとした。西南夷の君長は百を数えたが、王印を受けたのは夜郎と滇のみで、滇は小邑ながら最も寵遇された。

益州郡の設置と諸夷の反乱(昭帝期)

  • その後二十三年、孝昭始元元年、益州の廉頭・姑繒の民が反し長吏を殺し、牂柯の談指・同並ら二十四邑・三万余人がみな反した。水衡都尉が蜀郡・犍為の犇命(奔命)万余人を発して牂柯を撃ち大破した。
  • その三年後、姑繒・葉榆が再び反し、水衡都尉呂辟胡が郡兵を率いて撃ったが進まず、蛮夷はついに益州太守を殺し勝ちに乗じて辟胡と戦い、戦死・溺死者四千余人を出した。
  • 翌年、さらに軍正王平・大鴻臚田広明らを遣り大いに益州を破り、首虜五万余級、家畜十余万を得た。天子は鉤町侯亡波がその邑君長・人民を率いて反者を撃ち功があったとして鉤町王に立て、大鴻臚広明には関内侯・食邑三百戸を賜った。
  • その後一年おいて武都の氐人が反し、執金吾馬適建・龍頟侯韓増・大鴻臚広明が兵を率いて撃った。

牂柯太守陳立と夜郎王興の誅殺(成帝期)

  • 成帝河平中、夜郎王興・鉤町王禹・漏卧侯俞が互いに兵を挙げて攻め合った。牂柯太守は誅討を請うたが、議者は道が遠いとして反対、大中大夫張匡を持節で遣り和解させたが興らは従わず、木で漢吏の像を作り道端に立てて射た。
  • 杜欽は大将軍王鳳へ長文の意見を上申した。すでに詔で和解を命じたのに王侯が再び攻め合い漢使を軽んじたのは国威に関わる事態であり、議者が怯懦にまた守和策を選べば時機を逸し王侯の勢力を助長するだけであると説き、罪の未だ成らないうちに、旁郡の守尉に兵馬を練らせ大司農に要害の地へ穀を蓄えさせ、秋涼の頃に不軌の王侯を誅すべきと具申。あわせて、もし利がないなら郡を廃し民を放棄し王侯との交流を絶つ道もあるが、先帝の代からの功業を毀つべきではなく、事の萌芽のうちに断つべきと結んだ。
  • 大将軍王鳳は金城の司馬陳立を牂柯太守に推挙した。陳立は臨卭の人で、かつて連然県長・不韋令を務め蛮夷に畏れられていた。牂柯に至り夜郎王興を諭したが従わず、陳立は誅殺を上奏、返報を待たず数十人の吏を率いて巡行し、興国の且同亭で興を召した。興は数千人を率いて赴き、邑君数十人と共に入見したところ、陳立は興の罪を数え上げてその場で首を斬った。
  • 邑君らは「将軍が悪逆を誅し民のために害を除いた」として、興の首を示して士衆に説くと兵を捨てて降伏した。鉤町王禹・漏卧侯俞は恐れ入り粟千斛・牛羊を献じて吏士をねぎらった。
  • 陳立が郡に帰った後、興の妻の父翁指が興の子邪務と共に残兵を集め周辺二十二邑を脅して反した。冬、陳立は諸夷を募り都尉・長史と分かれて翁指らを攻めた。翁指は険阻に拠って塁を築いたが、陳立は奇兵で糧道を絶ち反間を放って衆を離間させた。
  • 都尉万年が独断で軍を進めて敗走し陳立の陣営に逃げ込んだため、陳立は怒って麾下に命じ処断させようとした。都尉軍は戻って再戦、陳立は救援に赴いた。折しも大旱で、陳立は水道を絶ち、蛮夷は共に翁指を斬って首を差し出し降った。
  • 陳立は西夷を平定し京師に召された。折しも巴郡に盗賊があり再び巴郡太守となり秩中二千石、爵左庶長(第十爵)を賜り、後に天水太守に転じて民に農桑を勧め治績天下第一となり黄金四十斤を賜った。入朝して左曹衛将軍・護軍都尉となり在官のまま卒した。

王莽期の混乱と光武中興

  • 王莽は簒位すると漢制を改め鉤町王を降して侯とした。王邯(鉤町王)はこれを怨み、牂柯大尹周欽が邯を欺いて殺すと、邯の弟承が欽を攻め殺した。州郡はこれを撃ったが服さず、三辺の蛮夷は憂え騒いで悉く反し、益州大尹程隆も殺された。
  • 莽は平蛮将軍馮茂を遣り巴蜀・犍為の吏士を発し民から租税を取り立てて益州を撃たせたが、出兵から三年、疫病で死者は十分の七に及び巴蜀は騒動、莽は茂を召還して誅した。
  • さらに寧始将軍廉丹と庸部牧史熊(莽は益州を庸部と改めた)を遣り、天水・隴西の騎士、広漢・巴蜀・犍為の吏民十万・輸送者二十万を大発して撃たせた。緒戦こそ数千を斬ったが、その後は軍糧が続かず疫病で数万が死んだ。粤嶲の蛮夷任貴も太守枚根を殺して自立し卭榖王を称した。
  • 莽の敗亡後、漢が興って任貴を誅し旧号を復した(ここでいう「漢興」は光武の中興を指す)。

南粤王趙佗の自立と南粤武王

  • 南粤王趙佗は真定の人。秦は天下を併せると揚粤の地を略定し、桂林・南海・象郡を置いて謫徙の民を粤人と雑居させること十三年、二世の時に南海尉任囂が病篤くなり龍川令趙佗を召し、陳勝らの叛乱で豪傑が秦に叛いていること、南海は辺境で険阻ゆえに盗兵の侵入を防ぐため新道(秦が開いた越への道)を断って自守すべきことを説き、佗に南海尉の事を委ねる文書を託して死んだ。
  • 佗は檄を発して横浦・陽山・湟谿の関に道を絶って自守させ、秦の任命した官吏を法をもって次々誅殺し、その一党を守・仮の官に据えた。秦の滅亡後、佗は桂林・象郡を撃ち併せ自ら南粤武王と称した。
  • 高帝は天下平定後、中国が疲弊していたことから佗を誅さず、十一年に陸賈を遣り佗を南粤王に立て、符を分けて通使し百粤を和輯させ南辺の害とならぬようにし、長沙と接境させた。
  • 高后の時、有司が粤との関市での鉄器取引禁止を請うたところ、佗は「高皇帝は我に通使の物を許したのに、今高后は讒臣の言を聴き蛮夷を隔絶する。これは長沙王が中国を頼みに南海を併せて王たらんとする策謀に違いない」として自ら南武帝を号し、長沙の辺を攻めて数県を破った。
  • 高后は将軍隆慮侯竈(周竈)を遣り撃たせたが、暑湿と疫病で兵は嶺を越えられず一年余りで高后が崩じ兵を罷めた。佗はこれに乗じて兵威財物で閩粤・西甌駱を服属させ、東西万余里に及ぶ地を有し、黄屋左纛に乗り制を称して中国と肩を並べた。

文帝の懐柔と趙佗の帝号撤回

  • 文帝元年、即位を諸侯四夷に告げ意を諭すため、佗の親の冢が真定にあることから守邑を置き季節ごとに奉祀させ、佗の従兄弟を尊官・厚賜で寵遇した。丞相陳平の推薦で陸賈を再び大中大夫として遣り、佗への書を託した。
  • その書は、文帝が高皇帝の側室の子として北辺に封ぜられ道遠く音信不通であったこと、高皇帝の崩御・恵帝の即位・呂后の専権と諸呂の乱、それを誅し即位に至った経緯を述べ、王が将軍隆慮侯に真定の親昆弟の安否を問い長沙攻めの将軍撤退を求めた書に応じて既に将軍を罷め親族を存問したこと、かつて王が辺境を侵した際は長沙・南郡が最も苦しんだが漢軍にも利がなく多くの死傷を出したことを述べ、地の帰属は高皇帝が定めたもので変えられぬこと、南嶺以南は王の統治に任せること、両帝並立して使者一つ通わさぬのは争いであり「願わくば前の患いを共に棄て、今より以後通使を旧に復したい」との趣旨で、上等・中等・下等の綿入れ衣(褚)計百領ほかを贈った。
  • 陸賈が至ると南粤王は恐れ入り頓首して謝し、長く藩臣として貢職を奉ずることを願った。国中に令して「両雄並び立たず、両賢並び世に立たず、漢皇帝は賢天子である」として帝制・黄屋左纛を取り止め、蛮夷の大長老夫臣佗として上書した。
  • その上書は、老夫(佗)が元は粤の吏であり高皇帝から璽を賜り南粤王・外臣とされ時に貢職を納めていたこと、恵帝の代も厚遇が続いたが、高后の代に細士・讒臣により蛮夷を差別する令(外粤への金鉄・田器・馬牛羊の授与禁止、牝の授与禁止)が出され、老夫の祭祀不修による死罪を三度上書して謝したが返答がなく、父母の墳墓が壊され兄弟宗族が誅されたと風聞したため、吏らと議し「内は漢に振るわず外に自ら高くする術もない」として自ら帝を号したに過ぎず天下に害する意図はなかったこと、それに高皇后が激怒し南粤の籍を削り通交を絶ったため長沙王の讒言を疑い兵を発したこと、南方は卑湿の蛮夷の中にあり西甌・閩粤・長沙もそれぞれ王を称しているため妄りに帝号を窃んだに過ぎないこと、老夫は百邑の地・帯甲百万余を有しながらも先人の故により北面して漢に臣事してきたこと、粤に処すること四十九年、今や孫を抱く身であるが夙夜安からぬのは漢に事えられぬためであること、陛下が哀憐して旧号を復し通使を旧に戻して下されば死しても悔いはなく帝を称すことはしないと結び、白璧一双・翠鳥千・犀角十・紫貝五百・桂蠧一器・生翠四十双・孔雀二双を献じた。
  • 陸賈が復命すると文帝は大いに悦んだ。景帝の代も引き続き臣を称し使者を遣り朝請したが、国内では密かに旧号のまま、天子への上書のみ王と称し朝命は諸侯に准じた。

武帝期――趙胡・嬰齊の内属

  • 武帝建元四年、佗の孫胡が南粤王に立って三年、閩粤王郢が兵を興し南粤の辺邑を撃った。南粤は「両粤ともに藩臣であり擅に兵を興し互いに攻めるべきでない、今東粤が擅に兵を興して臣を侵したが臣は敢えて興兵せず天子の詔を仰ぐ」と上書した。天子は南粤が職を守り約を破らぬ義を重んじ、両将軍を遣り閩粤討伐に向かわせたが、兵が嶺を越える前に閩粤王の弟余善が郢を殺して降ったため兵を罷めた。
  • 天子は厳助を遣り意を諭させた。南粤王胡は頓首し、天子が閩粤を誅してくれた恩に報いるすべもないとして太子嬰斉を漢に入れ宿衛させることにし、厳助を見送った。厳助が去った後、大臣が胡を諫めて「漢が郢を誅した兵は南粤をも驚かせるためのものであり、先王も天子に事えるに礼を失うなと言い残した、良い言葉に誘われて入見すればもう帰れず亡国の勢いとなる」と説き、胡はついに病と称して入見しなかった。十余年後、胡が実際に重病となり太子嬰斉に帰国を請わせ、胡が薨じると諡して文王とし、嬰斉が嗣立して武帝・文帝の璽(先代の僭号の印)を仕舞い込んだ。
  • 嬰斉は長安在住時に邯鄲の摎氏の女を娶り子の興をもうけ、即位すると摎氏女を后、興を嗣とすることを上書して立てた。漢はしばしば使者を遣り入朝を諭したが、嬰斉は擅殺の自由を捨てがたく漢法に准じられるのを恐れ病と称して入見せず、子の次公を宿衛に入れた。嬰斉が薨じ諡して明王とし、太子興が嗣立、その母が太后となった。
  • 太后は嬰斉の妻となる以前、霸陵の人安国少季と通じていたことがあった。嬰斉の死後の元鼎四年、漢は安国少季を遣り王・太后に入朝を諭させ、弁士諫大夫終軍らにその辞を宣べさせ、勇士魏臣らにその決断を助けさせ、衛尉路博德は兵を桂陽に屯し使者を待った。
  • 王が若く太后が中国人であったこと、太后が安国少季と復び密通したことが国人に知れ多くが太后から離反した。太后は乱を恐れ漢の威に頼ろうとし、王および寵臣に漢への内属を勧め、三年に一度朝見し辺関を撤廃することを上書させた。天子はこれを許し、丞相呂嘉には銀印、内史・中尉・太傅には印を賜り、他は自ら任命させ(漢の印綬は受けさせず)、旧来の黥劓の刑を廃し漢法を用いさせ、使者を留めて鎮撫させた。
  • 王・王太后が入朝の支度を整える一方、丞相呂嘉は年長で三代の王に仕え宗族で官が高く長吏の者七十余人、男子はみな王女を娶り女子はみな王の子弟・宗室・蒼梧秦王(趙光。秦と同姓のため秦王と称した)に嫁いでおり、粤人の信望が王を上回るほどであった。呂嘉は王にしばしば内属を諫止したが聴かれず、叛意を抱いて病と称し漢使に会わなくなった。
  • 王太后は使者の権威を借りて呂嘉らを誅そうと図り、酒宴を設けて使者・大臣を招いたが、呂嘉の弟が兵を率い宮外に控える中、太后が呂嘉を面詰しても使者は狐疑して動かず、呂嘉は太后の様子を怪しんで席を立って退出、太后は怒って矛で嘉を突こうとしたが王に止められた。呂嘉はそのまま弟の兵とともに退き、病と称して王・使者に会わず陰謀を巡らせた。
  • 王は元々嘉を誅す意がなかったため嘉は数ヶ月動かず、太后だけが誅そうとしても力及ばなかった。天子はこれを聞き、使者が怯懦で決断できなかったこと、および王・太后が既に漢に付き呂嘉一人が乱を為すに過ぎないとして大軍を動かす必要はないと考え、荘参に二千人で赴かせようとしたが参は「友好であれば数人で足り、武力であれば二千人では足りない」と辞退、天子は参の兵を罷めた。
  • 郟の壮士、故済北相韓千秋が「小さな粤国に王の応援があるとはいえ呂嘉一人が害をなすのみ、勇士三百を得れば必ず嘉を斬って報いよう」と奮起し、天子は千秋と王太后の弟摎楽に二千人を率いさせ粤境に入らせた。
  • 呂嘉はついに反し、国中に令して「王が若く太后は中国人であり、また使者と密通して専ら内属を図り、先王の宝器を尽く天子に献じて自らへつらい、多くの従者を伴って長安に行けば虜として売られ奴婢とされよう、目先の利のみを図り趙氏の社稷・万世の計を顧みない」と説き、弟とともに兵を率いて太后・王を攻め殺し、漢使者もみな殺した。蒼梧秦王および諸郡県に使者を送り、明王の長男で粤の妻の子である術陽侯建徳を王に立てた。
  • 韓千秋の軍は入国当初は数小邑を破ったが、その後粤側はわざと道を開き食を給して深く誘い込み、番禺まで四十里の地点で挟撃して千秋らを滅ぼし、漢の使節の印を函に封じて塞上に置き、謾辞を弄して謝罪しつつ要害に守備兵を配した。
  • 天子は「韓千秋は成功しなかったが軍鋒の先駆けとして最も功があった」としてその子延年を成安侯に、摎楽(姉が王太后として漢への帰属を最初に願った功)の子広徳を龍侯に封じた。そして天下に赦を布告し、「呂嘉・建徳らが自立して反し、安然としている」として粤人・江淮以南の楼船十万の師を発して討伐に向かわせた。

呂嘉の反乱と南粤の滅亡

  • 元鼎五年秋、衛尉路博徳を伏波将軍とし桂陽から湟水を下らせ、主爵都尉楊僕を楼船将軍とし豫章から横浦を下らせ、かつて粤から漢に帰義した二人の粤侯を戈船・下瀬将軍とし零陵から離水・蒼梧へ向かわせ、馳義侯には巴蜀の罪人・夜郎兵を発して牂柯江を下らせ、みな番禺で合流させた。
  • 元鼎六年冬、楼船将軍の精鋭が先に尋陿を陥し石門を破って粤の船・粟を得、前進して粤の鋭を挫き数万の兵で伏波将軍を待った。伏波将軍は罪人を率い道遠く後れて千余人のみで合流、二軍は共に進んだ。
  • 楼船が先に番禺に至り、建徳・呂嘉はみな城を守った。楼船は東南、伏波は西北に陣を布いた。暮に楼船が攻めて敗走した粤人が火を放ち城を焼いたが、粤は伏波の兵の多寡を知らなかったため夜陰に紛れ伏波は営を設け降者を招き印綬を賜って解き放ち互いに招かせた。楼船は力戦して敵を焼き敺い、伏波の営へ追い込む形となり、明け方には城中がみな伏波に降った。
  • 呂嘉・建徳は夜のうちに属数百人と海へ逃れた。伏波は降者から嘉の行方を知り、その校の司馬蘇宏に追わせ建徳を得て海常侯に封じ、粤人都稽が嘉を捕えて臨蔡侯に封じられた。
  • 蒼梧王趙光(粤王と同姓)は漢兵の到来を聞き降って随桃侯、粤の掲陽令史定は降って安道侯、粤将畢取は軍を降して膫侯、粤の桂林監居翁は甌駱四十余万口を諭して降させ湘城侯となった。戈船・下瀬将軍の兵と馳義侯発の夜郎兵はまだ着かぬうちに南粤は平定され、その地は儋耳・珠崖・南海・蒼梧・鬱林・合浦・交阯・九眞・日南の九郡とされた。伏波将軍は加封され、楼船将軍は鋒を推し堅を陥した功で梁侯となった。尉佗の王統は五世九十三年で滅んだ。

閩粤王無諸と東海王搖

  • 閩粤王無諸と粤東海王搖は共に粤王句踐の後裔で騶氏を姓とする。秦が天下を併せると君長を廃し閩中郡とした(今の泉州・建安の地)。諸侯が秦に叛くと無諸・搖は粤人を率い番陽令呉芮(番君)に帰し、諸侯に従って秦を滅ぼした。当時は項羽が命を主どり無諸・搖を王としなかったため楚に与せず、項籍を撃って漢を佐けた。漢五年、無諸を再び閩粤王として閩中の故地に王とし都は冶に置いた(侯官県)。
  • 孝恵三年、高帝の代の粤の功を追論し、閩君搖の功が多く民に慕われたことから搖を東海王として東甌に都させた。世に東甌王と号し、後数代を経た。
  • 孝景三年、呉王濞が反し閩粤に応援を求めたが閩粤は動かず、東甌のみが従った。呉が破れると東甌は漢の懸賞に応じて丹徒で呉王を殺し、そのため誅を免れた。呉王の子駒は閩粤に逃れ、父の仇である東甌を怨み閩粤にしきりに東甌討伐を勧めた。

東甌の内属と閩粤の南粤侵攻

  • 建元三年、閩粤が兵を発して東甌を囲んだ。東甌は天子に急を告げ、太尉田蚡は「粤人が互いに攻めるのは常のこと、中国が煩わされる必要はない」と答えたが、中大夫厳助は救援すべきと詰り、天子は厳助に会稽郡の兵を発せしめ海路救援に向かわせた(詳細は厳助伝に記す)。漢兵が至る前に閩粤は兵を引いた。東甌はこの後、挙国して中国への遷徙を願い出て江淮の間に移り住んだ。
  • 建元六年、閩粤が南粤を攻めた。南粤は天子との約を守り勝手に兵を発さず事の次第を報告した。天子は大行王恢を豫章から、大司農韓安国を会稽から将軍として遣ったが、兵が嶺を越える前に閩粤王郢は険に拠って兵を距んだ。
  • 郢の弟余善は宗族と謀り「王が擅に兵を発し天子に請わなかったため討伐の兵が来た。漢兵は衆強であり今勝てても後にはさらに増兵が来て国が滅ぶまで止まぬだろう。王を殺して謝罪すれば天子は兵を罷め国は保たれる」と述べ、王を鏦り殺してその首を大行に献じた。大行は「誅すべきは王であり、王の首が至った以上、戦わずして最大の利を得た」として、便宜に応じ兵を止め軍を大司農に告げつつ王の首を天子に急報した。
  • 天子は詔して両将軍の兵を罷め、「郢ら首悪の者以外、無諸の孫繇君丑は謀に与らなかった」として丑を粤繇王に立て閩粤の祭祀を奉じさせた。余善は郢を殺した威で国中に多く従う者があり密かに自立して王を称え、繇王は制御できなかった。天子はこれを聞き、余善のためにわざわざ再度の出兵は不要とし、「余善はまず郢を誅して漢軍を労せずに済ませた」として東粤王に立て繇王と並立させた。

餘善の反乱と東粤の滅亡

  • 元鼎五年、南粤が反すると余善は卒八千を率い楼船に従って呂嘉らを撃つと上書したが、軍が掲陽に至ると海風波を口実に進まず、両端を持して密かに南粤と通じた。漢が番禺を破ると、楼船将軍僕は東粤討伐を願い出たが、天子は士卒の疲労を理由に許さず、諸校を豫章の梅嶺に留めて待命させた。
  • 翌年秋、余善は楼船が誅を請うたこと、漢兵が境に留まり間もなく討伐に来ることを聞き、兵を発して漢の道を距み、将軍騶力らを吞漢将軍と号して白沙・武林・梅嶺に入り漢の三校尉を殺した。時に漢の大司農張成・故山州侯斉が屯を将いていたが、退いて敢えて撃たなかったため、みな畏懦の罪で誅された。
  • 余善は武帝の璽を刻んで自立し、民をたぶらかした。天子は横海将軍韓説を句章から海路東方へ、楼船将軍僕を武林から、中尉王温舒を梅嶺から、粤侯を戈船・下瀬将軍として如邪・白沙から、元封元年冬にみな東粤へ入れた。
  • 東粤は険に拠って距み、徇北将軍に武林を守らせ楼船軍の数校尉を破り長史を殺した。楼船軍の卒、銭唐の榬終古が徇北将軍を斬り語兒侯に封じられた。まだ兵が至らぬうちに、故粤衍侯呉陽が漢に帰服して余善へ帰服を諭したが聴かれず、横海軍が至るとその邑七百人を率いて反し漢陽で粤軍を攻めた。
  • 故粤建成侯敖は繇王居股と謀り共に余善を殺してその衆を率い横海軍に降った。居股は東成侯(食邑万戸)、敖は開陵侯、呉陽は卯石侯に封ぜられ、横海将軍説は按道侯、横海校尉福(城陽王の子、故海常侯で坐法失爵し従軍していた)は繚嫈侯となった。東粤将多軍は漢兵到来を見て軍を捨てて降り無錫侯となり、故甌駱将左黄同は西于王を斬って下鄜侯となった。
  • 天子は「東粤の地は険阻で多阻、閩粤は悍勇でしばしば背く」として軍吏に詔し、その民をみな江淮の間に徙し、東粤の地はついに空虚となった。

衛滿朝鮮の建国

  • 朝鮮王満は燕人。かつて燕が全盛の頃から真番・朝鮮を服属させて官吏を置き障塞を築いていたが、秦が燕を滅ぼすと遼東の外徼に属し、漢が興ってからは遠く守り難いとして遼東の故塞を復し浿水を境として燕に属させた。
  • 燕王盧綰が反して匈奴に入ると、満は亡命し党千余人を集め椎結の蛮夷の服で東へ逃れ塞を出て浿水を渡り、秦の故空地の上下の障に居り、次第に真番・朝鮮の蛮夷や故燕・斉の亡命者を服属させて王となり、王険に都した。
  • 恵帝・高后の頃、遼東太守は満と約して外臣とし、塞外の蛮夷を保護して辺境を侵させぬこと、蛮夷の君長が天子に入見を望めば禁じないことを条件に天子に上聞し許された。これにより満は兵威財物で周辺の小邑を服属させ、真番・臨屯も来て服属し、地は数千里に及んだ。王位は子を経て孫の右渠に伝わった。右渠の代には漢からの亡命者を誘い込む数がますます増え、右渠自身は一度も入見せず、真番・辰国が天子への上書を望んでも塞がれて通じなかった。

漢の朝鮮征討と四郡設置

  • 元封二年、漢使渉何が右渠を詰責して諭したが、右渠は終に詔を奉じなかった。何は境を去る際、浿水で見送りの朝鮮裨王長を御者に刺殺させ、水を渡って塞に入り「朝鮮の将を殺した」と報告した。天子はその名を美として詰めず、何を遼東東部都尉とした。朝鮮は何を怨み兵を発して何を攻め殺した。天子は罪人を募って朝鮮を撃たせ、その秋、楼船将軍楊僕に斉から渤海を渡らせ兵五万、左将軍荀彘には遼東から出させ右渠を討たせた。
  • 右渠は険に拠って兵を距み、左将軍の卒は遼東兵が多く先に縦いて敗散、多くが逃げ帰り法によって斬られた。楼船は斉兵七千を率い先に王険に至ったが、右渠は城を守りつつ楼船の兵の少なさを窺い出撃、楼船軍は敗走し将軍僕は衆を失い山中に十余日隠れて後に散卒をまた集めた。左将軍は浿水西の朝鮮軍を破れなかった。
  • 天子は両将軍とも利がないため衛山を遣り兵威を背景に右渠を諭させた。右渠は使者に頓首して降伏を願い、太子を入朝させ馬五千匹・軍糧を献じることとし、人衆万余が兵を持って浿水を渡ろうとしたが、使者と左将軍はその変心を疑い太子に武器を持たせぬよう求めた。太子側も使者・左将軍が詐ると疑い、ついに渡らず引き返した。天子はこれを報告した衛山を誅した。
  • 左将軍は浿水上流の軍を破って前進し王険城を囲み西北を、楼船も南で合流したが、右渠は城を堅く守り数か月落ちなかった。左将軍はかねて侍中として天子の寵幸厚く燕・代の悍卒を率い勝ちに乗じ軍は驕り、楼船は斉卒を率いて海路多くの敗亡を出しており、かつて右渠と戦って辱められた恥から兵は畏縮し、囲みは緩めて和を持する構えを取った。左将軍が急撃する一方、朝鮮の大臣は密かに使いを送り楼船とだけ降伏の交渉を進めたが決着せず、左将軍がしばしば楼船に共同作戦を求めても楼船はその独自交渉をまとめたく応じず、両将軍は不和となった。
  • 左将軍は楼船が以前に軍を失った罪があるのに今また朝鮮と和して降さないことから謀反を疑ったが発せなかった。天子は「両将が朝鮮を制せられない」として故済南太守公孫遂を遣り正させ、便宜の権を与えた。公孫遂が至ると左将軍は「朝鮮は久しく下るはずが楼船がしばしば会戦の約を違えている」と訴え、公孫遂もこれを是とし、節をもって楼船将軍を左将軍の陣に召び入らせ、左将軍はその麾下に命じて楼船将軍を捕縛し軍を併せ、天子にこれを報告して許された(公孫遂は後にこの専断を咎められ誅された)。
  • 左将軍は両軍を併せると急いで朝鮮を攻めた。朝鮮の相路人・相韓陶・尼谿相参・将軍王唊は相謀り「初めは楼船に降ろうとしたが楼船は今捕らえられ、左将軍が両軍を併せて攻めはますます急である、王もなお降ろうとしない」として陶・唊・路人はみな亡げて漢に降ったが路人は道中で死んだ。
  • 元封三年夏、尼谿相参が人を遣り朝鮮王右渠を殺して降った。しかし王険城はなお下らず、右渠の旧臣成已がまた反して吏を攻めた。左将軍は右渠の子長と、降った相路人の子最を遣り民を諭させ成已を誅殺させ、ついに朝鮮を平定して真番・臨屯・楽浪・玄菟の四郡とした。参は澅清侯、陶は秋苴侯、唊は平州侯、長は幾侯、最は父が道中で死んだが功があったとして涅陽侯に封ぜられた。
  • 左将軍は召還され、功を争って相嫉んだ罪により棄市となった。楼船将軍もまた軍が列口に至った際、左将軍を待つべきところを独断で先に攻めて多くの死傷を出した罪により誅に当たるところを贖って庶人に落とされた。

史論

  • 賛にいう。楚・粤の先祖は代々土地を有し、周の衰えの頃、楚は方五千里の地を有し句踐もまた粤で覇を称えた。秦が諸侯を滅ぼしてもなお楚には滇王があり、漢が西南夷を誅しても滇だけは寵を復した。東粤が滅び衆が遷された後も繇王居股らはなお万戸侯であり続けた。
  • 西南夷・両粤・朝鮮という三方の開拓は、いずれも事を好む臣に発する――西南夷は唐蒙・司馬相如に、両粤は厳助・朱買臣に、朝鮮は渉何に発した。盛世に遭って事が成るまでには実に労苦が多かった。
  • ひるがえって太宗(文帝)が尉佗を鎮撫した故事を振り返れば、それこそ古人のいう「招くに礼をもってし、遠きを懐くに徳をもってする」道ではなかったか(春秋左氏伝、僖公七年の管仲の言を引く)。