漢書卷九十四上 匈奴傳第六十四上 匈奴

匈奴の起源と風俗

  • 匈奴の祖先は夏后氏の末裔、淳維という。唐虞以前は山戎・獫允・薰粥と呼ばれ、北辺で水草を追って遊牧し、馬・牛・羊のほか橐佗(駱駝)・驢・騾・駃騠・騊駼・驒奚などの家畜を飼った。
  • 城郭や耕作の習慣を持たず、成文の法もなく、口約束を約束とした。子供は羊に乗り弓で鳥や鼠を射、成長すれば狐や兎を射た。壮健な者は皆騎兵となり、平時は狩猟、有事は戦闘に従事する。長兵は弓矢、短兵は刀・鋋を用いた。利あれば進み、不利なら恥じず退いた。
  • 君主以下すべて肉食し、皮革を衣とし、壮健な者を貴び老弱を賤しんだ。父が死ねば継母を妻とし、兄弟が死ねばその妻を娶る(レビレート婚)。姓名はあっても字(あざな)は持たなかった。

唐虞から周代までの北方民族と中国の攻防

  • 夏の公劉の代に稷官を失い西戎に移り豳に都した。約300年後、太王亶父の代に戎狄に攻められ岐山下に移り周を興した。約100年後、周の西伯昌(文王)が畎夷(畎戎・昆夷・犬戎とも)を討った。武王が紂を滅ぼした後、戎夷を涇洛の北へ追い、荒服として朝貢させた。
  • 周穆王(成王の孫、康王の子)が畎戎を討ち四白狼・四白鹿を得たが、以後荒服が来なくなり『呂刑』を作った。懿王の代に王室が衰え戎狄が交々侵し、詩経『采薇』に「靡室靡家、獫允の故なり」と詠まれた。懿王の曽孫宣王が興師して獫允を太原まで討ち(『六月』の詩)、一時中興したが、幽王が寵姫褒姒のため申侯と不和になり、申侯が畎戎と共に幽王を驪山下で殺し、周の地を奪って涇渭の間に居した。秦の襄公が周を救い、平王は東の雒邑へ遷都した。秦襄公は戎を岐まで討ち諸侯に列した。
  • その後、山戎が燕を越え斉を伐ち(斉釐公応戦)、44年後山戎が燕を伐ち斉桓公が北伐、20余年後戎翟が雒邑に至り周襄王を伐ち、襄王は鄭の氾邑に出奔(異母弟の子帯を戎翟が擁立)。晋文公が興師して戎翟を討ち子帯を誅し襄王を復位させた。晋文公は戎翟を西河・圜洛の間に追い、赤翟・白翟と号した。
  • 秦穆公は由余を得て西戎八国を服属させ、隴以西に緜諸・畎戎・狄獂の戎、岐梁涇漆の北に義渠・大荔・烏氏・朐衍の戎が残り、晋の北に林胡・楼煩、燕の北に東胡・山戎(後の烏桓・鮮卑の祖)が割拠したが、百余の戎は統一されなかった。
  • 晋悼公が魏絳を用い戎翟と和睦させ朝貢させたが、100余年後趙襄子が句注を越えて代を併合し胡貉と国境を接した。趙・魏が韓と共に智伯を滅ぼして分晋、趙は代・句注以北、魏は西河・上郡で戎と境を接した。義渠は築城して自守したが秦に蚕食され、恵王が義渠二十五城を抜き魏から西河・上郡を得た。秦昭王の代、義渠戎王は宣太后と密通し二子をもうけたが、太后が甘泉で戎王を誘殺し義渠を滅ぼした。秦は隴西・北地・上郡を得て長城を築き、趙武霊王も胡服騎射に改め林胡・楼煩を破り雲中・鴈門・代郡を置いた。
  • 燕は将軍秦開を胡へ人質に出し、その信を得て帰国後東胡を千余里退けた(秦開の孫が秦舞陽で荊軻とともに秦王を刺そうとした人物)。燕は造陽から襄平まで長城を築き上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東郡を置いた。当時、戦国七雄のうち燕・趙・秦の三国が匈奴と境を接した。趙の李牧の時代は匈奴が趙境に入れなかった。

秦の始皇帝と冒頓単于の勃興

  • 秦が六国を滅ぼすと、始皇帝は蒙恬に数十万を率いさせ河南の地を収め、黄河沿いに四十四県城を築き、罪人を移住させ、九原から雲陽への直道を通した。臨洮から遼東まで万余里の長城を築いた。当時、東胡が強く月氏も盛んだった。単于頭曼は秦に抗せず北へ十余年移った。蒙恬死後、諸侯が秦に反し辺境から移された者が皆戻ったため、匈奴は再び黄河南岸まで進出した。
  • 頭曼単于の太子が冒頓。頭曼は愛する閼氏の生んだ末子を立てようとし、冒頓を月氏へ人質に出したうえで月氏を攻めさせ、冒頓を危地に陥れたが、冒頓は月氏の善馬を盗み逃げ帰った。頭曼はこれを壮とし万騎を率いさせた。冒頓は鳴鏑(音の出る矢)を作り、部下に「鳴鏑の射る所を射よ、射ない者は斬る」と命じ、自らの善馬・愛妻・単于(頭曼)の善馬と段階的に試したのち、頭曼を鳴鏑で射させ、頭曼を殺し継母・弟・従わない大臣らを誅して自立し単于となった。
  • 東胡は冒頓の弑逆を侮り千里馬・単于の閼氏(妃)を要求、さらに両国間の棄地を要求した。冒頓は「地は国の本なり、どうして人に与えられようか」と怒り、要求に応じよと言った者を斬り、東胡を急襲して滅ぼし、その民・畜産を得た。続いて西の月氏を撃退し、南は楼煩・白羊河南王を併合、秦が蒙恬に奪わせた地を全て取り戻し、燕・代を侵した。時に漢は項羽と抗争中で疲弊しており、冒頓は自立し控弦の士三十余万を有するに至った。
  • 淳維から頭曼まで千余年、その世系は伝わらないが、冒頓に至って匈奴は最強となり北夷を服し南で中国と敵対する国となった。単于の姓は攣鞮氏、国では撐犁孤塗単于(天の子の意)と称した。左右賢王・左右谷蠡・左右大将・左右大都尉・左右大当戸・左右骨都侯を置き、太子は左屠耆王と称した。左右賢王以下当戸まで大は万余騎、小は数千騎、計二十四長を万騎と号した。大臣は世襲の呼衍氏・蘭氏、後に湏卜氏が加わり三姓が貴種とされた。左方の諸王は東方(上谷以東、濊貉・朝鮮に接する)、右方は西方(上郡以西、氐羌に接する)、単于庭は代・雲中にあたる地に置かれた。
  • 正月に単于庭に諸長が小会し、五月に龍城で大会し天地・祖先を祭った。秋、馬肥ゆる頃に蹛林で大会し人畜を計数した。刑法は厳格で、刃を抜いた者・盗みをした者は死罪、罪の軽い者は骨を軋(くじ)き、獄囚は一国で数人を超えないほど少なかった。朝は日の出を、夕は月を拝し、左を尊び北面して座した。葬送には棺槨・金銀・衣装を用いるが封土や植樹はせず、近臣・妾で殉死する者が数十から百人に及んだ。
  • 戦は月の満ち欠けに応じて盛衰を計り、戦功に酒一巵を賜り、鹵獲は本人のものとした。降した渾窳・屈射・丁零・隔昆・薪犁の五小国も服属させ、匈奴の貴人大臣は皆冒頓を賢者とした。

冒頓単于と高祖――韓王信の降伏と白登の役

  • 漢が代の韓王信を馬邑に置くと、匈奴が包囲し信は降伏。冒頓は信を得て太原・晋陽まで南下した。高帝は自ら軍を率いて撃ったが、冬の大寒で兵の三分の二が凍傷にかかった。冒頓は偽って敗走し漢軍を誘い、精兵を隠して羸弱を見せた。漢は歩兵32万を動員し、高帝は平城で先着したところ、冒頓が精兵30余万騎で白登山に高帝を7日間包囲した。
  • 高帝は使者を遣り閼氏に厚く賄賂を贈った。閼氏は冒頓に「両主は互いに困らせるべきでない」と説き、また冒頓と約していた韓信配下の王黄・趙利の兵が来ないことを疑い、囲みの一角を開いた。高帝は弓を満弾して脱出し合流、冒頓も兵を引いた。漢も兵を退き、劉敬により和親の約が結ばれた。
  • その後も韓信配下の趙利・王黄らがしばしば約を破り代・鴈門・雲中を侵し、陳豨も反して韓信と結んだが、樊噲がこれを撃退。冒頓はなおも代地を侵し続けたため、高祖は劉敬を遣り宗室の女を翁主として単于閼氏とし、毎年絮・繒・酒食を贈り兄弟の約を結んで和親、冒頓は侵略をやや控えた。燕王盧綰も反して匈奴に降り、上谷以東を苦しめ、高祖の代まで続いた。

恵帝・呂后期――冒頓の傲慢な書と樊噲・季布の議

  • 孝恵・高后の頃、冒頓は驕り、高后に「孤僨の君、沮沢に生まれ平野に長じ、両主とも独居し楽しからず、有無を交換したい」との侮辱的な書を送った。高后は激怒し丞相陳平・樊噲・季布らと斬使・出兵を議した。樊噲は「臣十万衆を得て匈奴中を横行せん」と言ったが、季布は「噲は斬るべし。かつて陳豨の乱で32万の兵を率いても平城の囲みを解けなかったのに、10万で横行するとは天下を欺くものだ」と諫めた。高后はこれを容れ、大謁者張澤に穏便な返書を持たせた。冒頓は謝罪の使者を送り、和親は継続した。

文帝期――右賢王の侵入と冒頓・老上単于との往復書簡

  • 文帝即位後も和親を修めたが、即位3年、匈奴右賢王が河南に入り寇をなした。文帝は詔して右賢王討伐の兵8万を髙奴に発し、丞相灌嬰に右賢王を撃たせ、右賢王は塞外へ退いた。文帝は太原に幸したが、済北王の反乱で兵を引き上げた。
  • 翌年、単于(冒頓)は「天の立てし匈奴大単于、皇帝に敬問す」で始まる書を送り、右賢王の件を釈明し、月氏を討ち滅ぼして楼蘭・烏孫・呼掲など西域26国を併せ北方を平定したことを述べ、和親の継続を求めた。孝文前六年、皇帝も返書し「単于書意に信あり和親を約す」と応じ、繍・錦・綈・繒など多くの品を贈った。
  • のち冒頓が死に子の稽粥(老上単于)が立った。文帝は再び宗室女を翁主として送り、宦官の中行説を随行させたが、説は行きたくなく「私を行かせれば必ず漢の患いとなろう」と言った通り、単于に降り寵愛された。中行説は単于に漢物への依存を戒め、匈奴の風俗(肉食・乳酪)の方が堅牢優れることを説き、単于の書簡の書式を漢より大きく倨傲にさせ、また漢使者との問答で匈奴の風俗(父子同穹廬・レビレート婚等)を弁護し漢の礼義の煩雑さを批判した。
  • 孝文十四年、匈奴単于が14万騎で朝那・蕭関に侵入し北地都尉卬を殺し彭陽まで至り、回中宮を焼いた。文帝は中尉周舎・郎中令張武を将軍とし車千乗・騎十万を長安近郊に配備、盧卿・魏遫・周竈・張相如・董赤らを各方面軍の将軍とした。単于は塞内に月余留まったが漢軍は殺傷を得られなかった。以後も匈奴は歳々辺境を侵し、雲中・遼東で被害が最も甚だしかった。
  • 孝文後二年、皇帝は再び単于へ書を送り、和親の継続と「両国の民が一家のごとくあれ」との願いを述べた。単于はこれに応じ和親を約した。四年後、老上単于が死に子の軍臣単于が立ち、中行説はなお仕えた。軍臣単于は即位翌年に和親を破り上郡・雲中に各三万騎で侵入、漢は三将軍を北地・代・句注等に配備して備えた。文帝崩御後、景帝の代に呉楚七国の乱で趙王遂が匈奴と通じたが、漢が趙を破ると匈奴も止んだ。以後、景帝も和親を継続し関市を通じ翁主を送り続け、時々の小規模な侵入はあったが大きな寇はなかった。

武帝期――馬邑の謀と和親断絶

  • 武帝即位後も和親の約束を厚く守っていたが、馬邑の人聶翁壱が偽って城を売ると欺き単于を誘い出す策が立てられた。単于は10万騎で武州塞に入ったが、御史大夫韓安国らの伏兵30余万が待ち構えるも、鴈門尉史が謀を漏らし単于は撤退。伏兵は成果を得られず、謀主の王恢は誅された。以後、匈奴は和親を絶ち辺境をしばしば侵したが、関市の利を惜しみなお交易は続いた。
  • 馬邑事件の5年後、衛青・公孫賀・公孫敖・李広の四将軍がそれぞれ万騎で出撃。衛青は龍城で首虜700を得たが、公孫敖は七千を失い、李広は敗れ捕虜となるも脱走。その後も匈奴の侵寇と漢の反撃が繰り返され、元朔二年、衛青が河南の楼煩・白羊王を破り首虜数千・羊百余万を得て河南地を取り朔方郡を築いた。
  • 軍臣単于死後、弟の伊穉斜が自立し単于となり、軍臣単于の太子於単は漢に降り陟安侯に封ぜられた。伊穉斜単于の下で匈奴は代郡・鴈門・定襄・上郡へ侵入を続け、漢は衛青に六将軍・十余万で朔方・高闕から出撃させ右賢王を急襲、男女15,000人・裨小王10余人を捕らえた。翌年、衛青が再度六将軍・十余万で出撃し首虜19,000級を得るも、漢も両将軍・3,000余騎を失い、前将軍趙信は匈奴に降り自次王とされ単于の姉を娶った。趙信は単于に幕北へ退き漢兵を疲弊させる策を説いた。
  • 元狩年間、票騎将軍霍去病が隴西・北地から遠征し祁連山で首虜3万余級を得、休屠王の祭天金人を獲得。単于は昆邪王・休屠王が漢に降ろうとするのを怒り誅そうとしたため、両王は漢に降り総勢4万余人(号10万)となった。以後、隴西・北地・河西の匈奴の脅威は減じ、関東の貧民を新秦中に移した。
  • その後、大将軍衛青・票騎将軍霍去病がそれぞれ定襄・代から出て幕を絶って匈奴を撃ち、首虜19,000級を得たが、漢も物故者数万・馬10余万匹を失った。単于は趙信の策を用い和親を求めたが漢は臣従を要求し交渉は決裂。霍去病は狼居胥山で封じ姑衍山で禅し瀚海に臨んで凱旋、「是後匈奴逺遁して幕南に王庭無し」の状態となった。漢は朔方から令居まで渠を通し屯田を置いた。
  • 武帝はさらに南方の両越を平定した後、公孫賀・趙破奴らを出撃させたが匈奴に会えず、天子自ら朔方に巡幸し18万騎を率いて武威を示した。使者郭吉が単于を挑発したが単于は怒り郭吉を北海に流した。以後匈奴は使者往来で和親を求めつつも実際は寇をなさず、王烏らの使者交渉が続いたが実質的進展はなかった。
  • 太初年間、且鞮侯単于が立つと武帝は大宛討伐の威を借りて強硬姿勢を取った。単于は「我兒子、安んぞ漢天子を望まん、漢天子は我が丈人なり」と卑下したが、実際は驕慢だった。天漢年間、貳師将軍李広利が天山で右賢王を破るも大いに囲まれ、漢兵の6-7割を失った。騎都尉李陵は歩兵5千で単于本隊と交戦し1万余を殺傷したが力尽きて降伏、単于は娘を陵に娶わせた。李広利は後にも遠征を重ねたが戦果は乏しく、狐鹿姑単于の代には両軍の一進一退が続いた。

昭帝期――壺衍鞮単于の内乱と烏桓・烏孫戦争

  • 狐鹿姑単于死後、幼少の子に代わり衛律らが偽って単于位を左谷蠡王に継がせ壺衍鞮単于とした(始元二年)。左賢王・右谷蠡王は継承権を失い怨み、南への内附を図るも露見し互いに疑心を生じた。単于が幼く国内が乱れる中、衛律は井戸を掘り城壁を築いて備えたが後にこの策をやめた。蘇武・馬宏ら漢の抑留使者のうち馬宏らは送還された。
  • 匈奴は数度辺境を侵したが漢軍に撃退され、また甌脱王が漢に捕らえられたことで匈奴は西北へ遠ざかった。左谷蠡王の死後、その意志を継いだ勢力が和親を望むも実現せず、犁汚王らの侵入も義渠王の反撃で撃退され、匈奴は張掖への侵入を諦めた。
  • 匈奴が烏桓の先単于の墓を暴いた恨みから2万騎で烏桓を攻めようとした際、漢は趙充国の慎重論を退け度遼将軍范明友に2万騎で遼東から出撃させ、烏桓の疲弊に乗じて首虜6,000余級・王3人を得た。匈奴はこれを恐れ、烏孫への求婚(漢の公主)を試みたが失敗。
  • 本始二年、烏孫の昆弥の要請を受け、漢は田広明・范明友・韓増・趙充国・田順の五将軍と烏孫の合計20余万で匈奴を挟撃、匈奴は老弱を連れて遠く逃れたため戦果は乏しかったが、校尉常恵と烏孫軍が単于の父・嫂・名王ら39,000余級を獲った。匈奴はこの冬さらに大雪で人畜が凍死し、丁令・烏桓・烏孫の三方から攻められ人口の3割・家畜の5割を失う大打撃を受け、以後属国が瓦解し和親を望むようになった。

宣帝期――虚閭権渠単于と五単于の内乱

  • 壺衍鞮単于死後、弟の虚閭権渠単于が立った。漢は外城を廃して休養したが、左大且渠の妨害で和親交渉は頓挫。西嗕の民が漢に降り、西域諸国が共同して車師を攻め取り、匈奴は屯田を試みるも失敗が続いた。虚閭権渠単于は病死(神爵二年)。
  • 顓渠閼氏とその弟都隆竒が右賢王屠耆堂を擁立し握衍朐鞮単于としたが、虚閭権渠の子稽侯狦は舅の烏禅幕のもとへ逃れた。握衍朐鞮単于は残忍で虚閭権渠の縁者を粛清、日逐王先賢撣は単于位継承権を奪われた恨みから漢に降り帰徳侯に封ぜられた。単于はその後も左奥鞬王の後継争いに介入し失政を重ね、左地の貴人らが離反、稽侯狦を呼韓邪単于として擁立し握衍朐鞮単于を攻めた。握衍朐鞮単于は自殺し、その残党は右賢王のもとへ逃れた(神爵四年、握衍朐鞮単于在位三年)。

(以下、匈奴傳第六十四下に続く)

呼韓邪単于と屠耆単于――五単于並立の乱

  • 呼韓邪単于(稽侯狦)は帰庭後、兄呼屠吾斯を左谷蠡王に立てた。都隆竒と右賢王は日逐王薄胥堂を屠耆単于に立て呼韓邪を破った。屠耆単于は長子都塗吾西を左谷蠡王、少子姑瞀楼頭を右谷蠡王とした。屠耆単于配下の日逐王先賢撣の兄が烏藉都尉となり、西方の呼掲王が讒言により右賢王父子を殺させたが冤罪と判明、以後呼掲王・車犂単于(右奥鞬王)・烏藉都尉が相次いで自立し、匈奴は屠耆・呼揭・車犂・烏藉・呼韓邪の五単于並立となった。
  • 屠耆単于は車犂単于・烏藉単于を撃破したが西方勢力は結束し対抗、屠耆単于は西南の闟敦に退いた。翌年、呼韓邪単于の弟右谷蠡王が屠耆単于の屯兵を破り、屠耆単于は自ら6万騎で反撃するも敗死。都隆竒らは屠耆単于の子姑瞀楼頭とともに漢へ亡命した。車犂単于は呼韓邪に降り、烏厲屈・呼遫累烏厲温敦父子も数万人を率い漢に降伏(新城侯・義陽侯に封ぜられる)。李陵の子が擁立した烏藉都尉(単于)も呼韓邪に討たれ、呼韓邪単于は単于庭を回復したが兵力は数万にすぎなかった。
  • 屠耆単于の従弟休旬王が閏振単于として自立し、呼韓邪の兄呼屠吾斯も郅支骨都侯単于として自立、両者は東西に分かれ争ったが、郅支単于が閏振単于を討ち滅ぼし、さらに呼韓邪を破って単于庭を占拠した。

呼韓邪単于の入朝と甘露の盛儀

  • 呼韓邪の重臣左伊秩訾王は「匈奴の俗は力を重んじ服従を下に見るが、今漢は強盛であり、臣事すれば安存、事えねば危亡する」と入朝・臣事を説いた。異論もあったが呼韓邪はこれに従い、子の右賢王銖婁渠堂を漢へ人質に送った(甘露元年)。翌年、呼韓邪単于は五原塞から入朝を願い出、甘露三年正月、漢は車騎都尉韓昌に迎えさせ、甘泉宮で朝見。諸侯王の上位に位置づけられ「賛謁して臣と称し名を言わず」の礼遇を受け、冠帯・衣裳・黄金璽・盭綬・玉具剣・佩刀・弓矢・戟・安車・鞍馬15匹・黄金20斤・銭20万・衣被77襲・錦繡綺縠雑帛8,000匹・絮6,000斤を賜った。渭橋では数万の蛮夷君長が出迎え万歳を唱えた。単于は光禄塞下に留まり有事には受降城で保護されることを願い、董忠・韓昌が兵1万6千と辺郡兵を率いて護送、穀米34,000斛を給した。
  • 郅支単于はこの間、呼韓邪の勢力が弱いと見て右地を攻め取ろうとし、また屠耆単于の弟が自立した伊利目単于を討ち5万余の兵を併せ、右地に留まって西の烏孫に接近を図った。しかし烏孫の小昆弥烏就屠は郅支の使者を殺し、迎えに来た郅支の8,000騎に対して郅支は逆に烏孫軍を撃破、さらに烏掲・堅昆・丁令を服属させ、単于庭を堅昆に移した。
  • 呼韓邪単于は再三の入朝で漢の厚遇を受ける一方、郅支単于は漢の使者谷吉を殺害し、漢は西域諸国と結んで郅支討伐を図った。都護甘延寿と副校尉陳湯が康居に出兵し郅支単于を誅殺した(詳細は甘延寿・陳湯伝に記す)。

元帝期――王昭君の降嫁

  • 郅支単于誅殺の報に呼韓邪単于は喜びかつ恐れ、竟寧元年に再入朝、加賜として衣服・錦帛・絮を黄龍年間の倍とされた。単于は「漢の女婿となりたい」と願い、元帝は後宮の良家子王嬙、字昭君を賜った。単于は喜び、上谷から敦煌まで自ら塞を守り辺備の廃止を上書したが、郎中侯応が「匈奴は隂山を失えば必ず哭す」「夷狄の性は困窮すれば従い強ければ驕る」など十の理由を挙げて反対、元帝はこれを容れ辺備を維持しつつ、車騎将軍を遣り丁重に単于の意を諭した。
  • 左伊秩訾王は呼韓邪の入朝を進言した功で驕り、単于に疑われ千余人を率い漢に降り関内侯に封ぜられたが、後に呼韓邪と和解、なお漢に留まる道を選んだ。王昭君は寧胡閼氏と号し、伊屠智牙師(右日逐王)を生んだ。呼韓邪単于は在位28年、建始二年に死去した。

復株絫若鞮単于以下の単于継承と烏孫紛争

  • 呼韓邪の死に際し、大閼氏(顓渠閼氏の姉妹)の子且莫車を立てようとする議もあったが、結局大閼氏の子雕陶莫臯が復株絫若鞮単于として立ち、王昭君を妻とし須卜居次雲・当于居次の二女をもうけた。以後、単于位は且麋胥(搜諧若鞮単于)、且莫車(車牙若鞮単于)、嚢知牙斯(烏珠留若鞮単于)と兄弟間で順次継承された(「若鞮」は匈奴語で「孝」の意、呼韓邪以後、漢の皇帝の諡「孝」を慕って称した)。
  • 河平元年、単于が伊邪莫演を派遣した際、莫演が漢への亡命を仄めかしたが、谷永・杜欽の議により漢は受け入れず、単于との信義を保った。烏珠留単于の代、大司馬王根の意を受けた夏侯藩が張掖郡に接する匈奴の地の割譲を求めたが単于は「父祖伝来の地」として拒否し、藩は詔を偽ったとして左遷された。哀帝期には烏孫の卑援疐の侵入問題や単于の入朝可否をめぐる議論があり、黄門郎揚雄が「単于の入朝を拒めば漢と匈奴の間に隙が生じる」と諫めた長文の上書(六経・秦漢の故事を引く)により、哀帝は入朝を許可、元寿二年に単于は盛大な礼をもって再入朝した。

平帝期――王莽の専権と匈奴関係の悪化

  • 平帝の幼少期、王莽が太皇太后の威を借り専権を握り、単于に風諭して王昭君の娘須卜居次雲を入侍させ厚遇した。西域車師後王の一族が漢を怨み匈奴に亡命する事件が起き、単于は「宣帝・元帝の約束では長城以北は単于の地、降者は受けない」としつつも一度受け入れた後、漢の要求で送還。王莽は西域・匈奴間の亡命者受入を禁じる「四条」を単于に課し、単于は嚢知牙斯から「知」への改名(中国風の二字名忌避)にも従い莽を喜ばせた。
  • 漢が烏桓への課税を禁じたことから匈奴と烏桓の間で衝突が起き、匈奴が烏桓の酋豪を殺し、逆に烏桓が匈奴の使者を殺す報復合戦となった。王莽の簒位(建国元年)に際し、五威将王駿らが単于印を「新匈奴単于章」に改めさせようとし、左姑夕侯蘇の抵抗があったが結局旧印は椎で壊された。単于は不満を抱きつつ賂遺を受けて従ったが、印文の格下げ(璽→章)を怨みとした。

王莽期――匈奴の分割策と辺境の荒廃

  • 西域車師後王須置離の匈奴降伏事件や、戊己校尉配下の反乱・匈奴亡命が相次ぎ、王莽は匈奴を十五単于に分割する策を立て、呼韓邪単于の諸子を各地に招き孝単于・順単于などに擁立しようとした。単于(輿)は「先単于は漢の宣帝の恩を受けた、今の天子は宣帝の子孫ではない」と怒り、雲中を攻めた(建国三年)。以後、辺境各郡への大規模な侵寇が続いた。
  • 王莽は三十万の大軍・三百日分の兵糧を集め十道から匈奴を討とうとしたが、将軍厳尤は「周は中策、漢は下策、秦は無策」と歴史を挙げ、輸送の困難・水草の乏しさ・気候の厳しさなど五つの困難(五難)を説いて拙速な出兵を諫めた。王莽は聞き入れず、軍は辺境に長期滞留し疲弊、北辺は野に骸骨が晒される惨状となった。
  • 烏珠留単于死後、須卜当(王昭君の娘婿)らが咸(烏累若鞮単于)を擁立、その子輿が呼都而尸道臯若鞮単于として継承。王莽は和親侯王歙・王颯らを繰り返し派遣して単于を懐柔し、単于号を「善于」、国号を「恭奴」と改めさせるなど屈辱的な条件を呑ませたが、実際の寇掠は止まなかった。莽は焚如の刑で亡命者を処刑するなど強硬策を取ったが効果なく、辺境の荒廃は進んだ。

更始期――漢の再興と単于の姿勢

  • 更始二年、漢(更始政権)は歸徳侯颯・陳遵を単于に遣り旧来の璽綬を回復させたが、単于輿は「匈奴は本来漢と兄弟、匈奴の混乱に乗じ宣帝が呼韓邪を輔立させたため臣と称してきたが、今は漢も王莽に簒われて大乱し、匈奴が兵を出して莽を破るのを助けた。今こそ我らを尊ぶべきだ」と驕った発言をし、双方の交渉は平行線のまま、翌年赤眉が長安に入り更始政権は滅んだ。

史論

  • 賛にいう。書経は蛮夷が中華を乱すことを戒め、詩経は戎狄を討つことを称え、春秋は「有道なれば守りは四夷にあり」と説く。夷狄の患いは久しく、漢興以来、劉敬・樊噲・季布・賈誼・鼂錯・王恢・韓安国・朱買臣・公孫弘・董仲舒ら忠臣が和親派・征伐派の二論に分かれて議論してきたが、いずれも匈奴の本質を究めきれなかった。
  • 和親は劉敬に始まり、恵帝・高后期は守られたが匈奴はかえって驕った。文帝は関市を開き厚く賂うも背約が続き、ついに親征の意気を示すも和親無益の証左となった。董仲舒は仁義でなく利益で結ぶべきと説いたが、質子を送らぬ和親の限界を見誤った。武帝の征伐は戦果はあったが漢も損耗甚大で、造陽以北を放棄する結果となった。宣帝の代は武帝の威に乗じ、呼韓邪が入朝・臣従し三世にわたり辺境は平穏だったが、王莽の簒位により再び隙が生じ、単于は怨みを抱いて自ら関係を絶った。
  • 呼韓邪の最初の入朝の際、蕭望之は「戎狄は荒服、来服は時によって定まらぬもの、客礼をもって待ち臣属を強いるべきでない」と論じ、元帝期の侯応の辺備存続論は「盛んなる時に衰えを忘れず、安きに危うきを思う」深慮であった。単于咸(王莽が擁立)は愛子を捨ててまで利を貪り、和親の贈物は年間千金にも満たず、董仲舒の想定は破綻した。事を興すには万世の計を図るべきで、一時の得を偸むべきではない。
  • 征伐の当否については厳尤の議が正しい。先王は土地を測り九州・五服を分かち、遠近に応じ徳と刑政を用いた。春秋は中国を内とし夷狄を外とする。夷狄は貪利を好み風俗・言語を異にし、辺境の荒地に遊牧して暮らす者であり、耕して食すことも臣として畜うこともできない民である。ゆえに聖王は外にして内とせず、疎にして親しまずと定め、来れば懲らしめて制し、去れば備えて守り、義を慕い貢献すれば礼をもって迎え繋ぎとめる――これが夷狄を制御する常道である。