漢書卷九十 酷吏傳第六十 楊僕

東越討伐で咎められた樓船將軍

  • 楊僕、宜陽の人。千夫(軍功位)から吏となり、河南守に御史として推挙され盗賊を督察、関東の治めぶりは尹斉に倣い果敢な取り締まりを行った。次第に主爵都尉に昇進、南越の反乱で樓船将軍として功を立て将梁侯に封じられた。東越の反乱で再び将として用いようとした際、上はかつての戦功を誇る僕を書で厳しく戒め「将軍の功はただ石門・尋陿を先に破ったことのみ、敵将を斬り旗を奪う実績はない、何をもって驕るのか。番禺を破った際は投降者を捕らえて『虜』と称し、死者を掘り起こして『戦果』とした、これが第一の過ち。建徳・呂嘉の逆罪は天下に許されぬものなのに、精兵を擁しながら追撃を尽くさず東越に逃げ込ませたのが第二の過ち。士卒は野営を続け歳を重ねても朝会に酒すら振る舞わなかったのに、将軍は労苦を思わず佞巧な願いを申し駅伝で塞を巡り、帰郷して銀印黄印三組を垂れて郷里に誇ったのが第三の過ち。先んじて妻妾を思い道の不備を言い訳にしたのが尊卑の序を乱す第四の過ち。蜀刀の価格を問われ『概ね数百』と答えながら、武庫の兵器を日々出しつつ知らぬふりをして君を欺いたのが第五の過ち。詔を受けながら蘭池宮に至らず、翌日もこれに答えなかった、部下がこの態度をとれば罪はどうなるか、この心構えで海外に赴かせて信頼できるか」と痛烈に責めた。今、東越に深く攻め込む機に功を立てて過ちを償えるかと問われ、僕は恐懼し「死をもって罪を贖いたい」と答え、王温舒と共に東越を破った。後にまた左将軍荀彘と共に朝鮮を攻めたが彘に捕縛される事件があり(詳細は朝鮮伝)、帰還後は庶人に落とされ、病で死んだ。